第6話:無のマブイ、一貴の教え
2027年6月中旬。下関の夜は、関門海峡から吹き込む湿った潮風と、遠くで鳴り響くテストエンジンの残響に包まれていた。
第12レースで劇的な初勝利を挙げ、女王・鎌倉明奈との邂逅を果たした速水誠だったが、その心は晴れていなかった。鎌倉が放った、質量とも呼べる圧倒的なマブイの重圧。そして「マブイを無にしろ」という不可解な助言。自分のコアマブイ「1000」という数値が、プロの世界ではあまりに無力な豆電球のように思えてならなかったのだ。
宿舎の整備場。誠がひとり、39号機のエンジンの前で項垂れていた時、背後から音もなく近づく影があった。
「……マブイの量で悩んどるんか、速水」
その声は、整備場の喧騒を吸い込むように低く、それでいて重厚な安定感を持っていた。山口支部のエース、平野一貴。彼はプロの世界でも珍しい「一切のマブイを纏わない」レーサーとして知られていた。
「平野さん……。俺、あの日、鎌倉さんに言われたんです。節約するだけじゃ足りない、無にしろって。でも、意味がわからないんです。1000しかないのに、それを無にしたら、俺には何も残らない」
一貴は無言で、誠の39号機に近づいた。彼はマブイを練る仕草もせず、ただ素手の指先でエンジンのボルトに触れた。その瞬間、誠は耳を疑った。さっきまで歪んだ軸が微かに立てていた不快な異音が、一貴が触れた瞬間に「消えた」のだ。
「いいか、速水。マブイを『力』だと思っているうちは、お前は一生、鎌倉や山崎の背中さえ見えん」
一貴は誠と、隣で絶縁スパナを磨いていた瓜生俊樹を手招きした。「ついてこい。夜の関門海峡で、本当の『音』を教えてやる」
一貴が二人を連れ出したのは、深夜の特別訓練区域。月の光が海面を銀色に染める中、三機の機艇がピットを離れた。
「菜奈や山崎は、膨大なマブイの力で機体という鉄の塊をねじ伏せ、進むべき道を無理やりこじ開ける。だが、俺は違う。機体が『行きたい方向』を、指先で聞くだけだ」
一貴の機体が滑り出す。驚くべきことに、彼の機体からはマブイ特有の光も、衝撃波も一切出ていない。それなのに、ボロい教習機ベースの機体が、まるで最新鋭の超伝導機のように静かに、しかし猛烈な推進力で海面を切り裂いていく。
「瓜生、お前なら分かるはずや。マブイがないからこそ、聞こえる音がある。……速水、お前は今まで39号機に『走れ』と命じてきた。だが、これからは39号機が『どう走りたいか』をお前のマブイで補ってやるんだ。支配ではなく、空白を埋める作業。それが『無』への第一歩だ」
一貴が先頭、瓜生が二番手、誠が三番手。史上初、そして山口支部秘伝の特訓形態「三連単ライン」が結成された。
「俺の作る軌跡を見ろ。余計な波を一切立てない、最短の『無』だ」
一貴の機体が第1旋回点へ突っ込む。彼はハンドルを回すのではなく、機体にかかる重力分布を指先で微調整しているだけに見えた。一貴の通過した跡には、通常発生するはずの激しい引き波が存在しない。そこに、瓜生俊樹の「静寂」が重なる。
「……一貴さんのライン。抵抗が……ゼロだ。計算式が、一本の線になって見える」
瓜生はマブイ0の特性を活かし、一貴が切り開いた「無」の層に、自分の機体をパズルのピースをはめるように同調させた。一貴の「無」を、瓜生の「計算」がさらに研ぎ澄まし、海面に一本の「マブイの真空地帯」を作り出す。
「今だ、速水! 突き抜けろ!」
最後尾の誠が、必殺の「チルト3.0」を全開にする。機首が浮き上がり、暴れ馬と化す39号機。だが、誠の視界には、二人が作り出した透明なトンネルがはっきりと見えていた。
「……見える。俺のマブイを……『出力』じゃなく、『潤滑剤』として流し込む!」
誠は1000のマブイを、エンジンの爆発力に変換するのをやめた。代わりに、機体と空気、機体と水の間に薄い膜を作るように、マブイを「無色透明」に引き延ばした。
シュパァァァァァァァンッ!!
三機が連なる一本の、最短にして最強のライン。誠の39号機は、一貴と瓜生が整えた真空の中を、音速に近い加速で貫き抜けた。機体が水面を叩く衝撃が消え、誠は初めて「機体と自分が完全に一体化し、世界から摩擦が消えた」ような感覚に陥った。
「……これが、山口支部の『本当の形』か!」
誠の脳裏に、かつてないほどクリアな最短軌道が、光り輝く道として焼き付いた。今まで必死に力んで探していた勝利への糸口。それが、自分を「空」にすることで、向こうから飛び込んできたのだ。
特訓を終え、汗だくでピットに戻ってきた3人。誠の手は震えていたが、それは恐怖ではなく、新たな真理に触れた武者震いだった。そこに、モニターを眺めていた菜奈が、笑いながらスマホを突き出してきた。
「誠、一貴さんの『無』を盗めたか? のんびりしとる暇はないで。香川の『暴れ馬』からメールや」
送り主は、香川支部の若き天才、平田千夏。画面には、丸亀サーキットの激しい夜景をバックに、不敵に笑う少女の動画メッセージが流れていた。
『菜奈、あんたの支部の新人が下関で生意気に勝ったって聞いたわよ。おめでとう。でも、次は私のホーム、香川・丸亀サーキットへ来なさい。ナイターの照明の下で、本当の「全速旋回」が何か、そのボロ機体と一緒に教えてあげるわ!』
「……あいつ、相変わらず気が早いな! 私の元ライバル、千夏や。マブイ量は驚異の58,000。あいつの旋回は、周囲の水をすべて吸い上げて盾にする『水神旋回』やで」
菜奈は誠の肩を力強く叩いた。
「誠、一貴さんの技術を自分のものにせえ。そうせんと、丸亀の荒波と、千夏の58,000マブイには、1マークを回る前に影も形もなく弾き飛ばされるよ!」
誠は、懐にある39号機の操作デバイスを強く握りしめた。下関で見つけた「無」の兆し。それが本物の武器になるかどうか。
次は瀬戸大橋を渡り、丸亀競艇場。そこで誠は、自分とは真逆の「圧倒的な力による旋回」を持つ者と対峙することになる。
「……やってやるよ。俺と、39号機と、シロでな」
足元で「ワン!」と短く吠えたシロの瞳には、夜の海さえも浄化するような、澄んだ光が宿っていた。
山口支部の「無」から、香川支部の「剛」へ。若きレーサーたちの戦いは、瀬戸内海を舞台にさらなる熱を帯びていく。




