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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第2章:駆け出し編

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第4話:下関の咆哮、禁断の傾斜角

 2027年5月下旬。山口県、下関競艇場。

 関門海峡の潮風が重い湿り気を帯び、潮位が分刻みで変化する「薄暮はくぼレース」の時間帯。夕闇が迫る水面は、海峡から流れ込む複雑な潮流によって、まるで巨大な獣の背中のように荒々しく波打っていた。ここ下関は、海水と淡水が混ざり合い、気象条件によって「牙」を剥く日本屈指の難水面だ。

 第12レース、優勝戦。

 ピットには、卒業したばかりの「黄金世代」が顔を揃えていた。

 速水誠は、懐から取り出したミニチュアサイズの39号機を、専用の展開台に置いた。起動スイッチを押すと、微かな蒸気音とともに、教習所で共に地獄を見たあの機体が、実戦仕様の戦闘艇へと巨大化する。

 「……よし。まだ戦えるな、相棒」

 誠の手には、特注の黄金色に輝くチルト調整レバーが握られていた。彼は一切の躊躇なく、そのレバーをカチカチと最も深い位置まで押し上げた。

 「……チルト3.0? 誠、正気なの!?」

 隣のピットで1号艇の調整をしていた實森ゆえが、悲鳴に近い声を上げた。広島出身の彼女は、波の荒い宮島などで鍛えられた「水面の猛者」だ。だが、その彼女ですら、今の誠の行動は自殺行為にしか見えなかった。

 「下関のこの荒れ水面で機首を上げたら、1マークに辿り着く前に風に煽られてひっくり返るよ! 私だって宮島でそんな無茶はしない!」

 「……ゆえちゃん、悪いけどこれが俺のスタイルなんだ」

 誠は静かに答え、足元で大人しく座っていた一匹の犬――ペキニーズのシロの頭を一度だけ撫でた。シロは誠が教習所時代から密かに可愛がっていた相棒だ。本来、ピットは女人禁制ならぬ「獣禁制」に近いが、誠のマブイを安定させる「生体デバイス」としての特例措置で同行が許されていた。

 「俊樹が作った『無』の隙間を、このチルトで突き抜ける。それ以外に、コアマブイが桁違いのアンタたちを抜く方法はないんだ」

 視線の先には、4号艇に乗り込む瓜生俊樹の姿があった。マブイ0の彼が、先行して潮流の抵抗を「計算」で無にする。その針の穴を通すようなラインに、誠はすべてを賭けるつもりだった。

 ここで、機艇レースにおける「チルト角」の重要性について再確認しておこう。

 チルト角とは、艇に対するエンジンの取り付け角度のことである。この角度を変えることで、機艇の「姿勢」と「性能」は劇的に変化する。

 現代の機艇レースにおいて、チルトは主に以下の2つの極端な性能に分類される。

 【低チルト(-0.5度から0.0度)】

 ・姿勢:機首が下がり、水面に密着する。

 ・長所:出足・旋回重視。ターンでの安定感が高く、小回りが利く。

 ・短所:直線での最高速度(伸び)が頭打ちになりやすい。

 【高チルト(3.0度)】

 ・姿勢:機首が大きく上がり、水面との接地面積が最小限になる。

 ・長所:伸び(最高速)重視。水面抵抗が激減し、直線で圧倒的な速度が出る。

 ・短所:機体が極めて不安定。旋回時に外へ膨らみやすく、転覆のリスクが激増する。

 誠が選んだ「チルト3.0」は、現代のレースでは「伸び型」特化の極端なセッティングであり、特に下関のような荒れる海水面では、制御不能の「暴れ馬」となることを意味していた。少しでも風を読み違えれば、機体はそのまま空へ舞い上がり、粉々に砕け散るだろう。

 「大時計、始動!」

 12秒計の針が回り始める。1号艇の實森ゆえが、コアマブイ3500の爆発的な出力でインコースを主張する。一方、誠の6号艇は、最も遠い大外6コースに構えていた。チルト3.0の性能を引き出すには、助走距離を長く取る「ダッシュ戦」が不可欠だからだ。

 「01、02……全開ッ!!」

 大時計が頂点を指した瞬間、誠はスロットルを床まで踏み抜いた。

 ドォォォォン!!

 39号機の排気口から、純白の蒸気と青白いマブイの火花が激しく吹き出す。チルト3.0によって跳ね上がった機首は、関門海峡の突風を孕んで今にも空へ舞い上がりそうだ。

 「ガガガガガガッ!!」

 凄まじい振動が誠の腕を襲う。歪んだ軸が千切れんばかりに叫び、金属耳鳴りが脳を直接揺さぶる。だが、誠の脳裏には、上田校長のあの傷だらけの顔があった。

 (……顔が剥がれても、ハンドルは離さない!)

 前方を走る4号艇、瓜生俊樹の動きに全神経を集中させる。マブイを持たない瓜生は、機体の物理的な形状と潮流の高度な計算だけで、水面に「抵抗の空白地帯」を作り出していた。それは、超高速で移動する目に見えない「真空のトンネル」のようなものだ。

 「……今だ、俊樹!」

 「……行け、速水」

 瓜生の声が通信機越しに響いた。

 瓜生が潮流を切り裂き、水面に「無」の隙間が生まれたその瞬間。誠は1000しかないコアマブイのすべてをボイラーへと注ぎ込み、タービンの回転数を強制的に限界突破オーバーブーストさせた。

 「なっ……消えた!? 誠くんが……!?」

 バックストレッチで独走態勢に入ろうとしていた實森ゆえの視界から、大外にいたはずの誠の機体が、一瞬にして消失した。

 いや、消えたのではない。圧倒的な「伸び」だけで、他艇を置き去りにする異次元の速度域へ到達したのだ。

 第1マーク。實森ゆえが最内を完璧なターンで回ろうとする。その後ろからは、強力なマブイを持つエリートたちが殺到する。通常、チルト3.0の艇はこの速度でターンに入れば、遠心力でスタンドまで吹き飛んでしまう。

 だが、誠は「旋回」を捨てていた。

 「曲がるんじゃない……突き抜けるんだ!」

 誠はあえて全速旋回を行わず、實森の艇とマークの間にできた、わずか数センチの「針の穴」のような隙間を狙った。直線での圧倒的な推進力を、一瞬だけ下方噴射へと切り替え、艇を強引に水面に「叩きつける」ことで方向を無理やり変える。

 上田校長直伝、最短軌道の「差し」。

 シュパァァァァンッ!!

 関門の波を切り裂く、カミソリのような一閃。實森ゆえの懐を、39号機が光の速さでブチ抜いた。

 「……これが、俺たちの初勝利だぁぁ!!」

 誠の咆哮とともに、6号艇がトップでチェッカーフラッグを駆け抜けた。電光掲示板に刻まれたのは、下関のコースレコードを大幅に塗り替える驚異的なタイムだった。

 レース後。夕闇に包まれたピットで、誠はボロボロになった39号機を愛おしそうに拭いていた。初勝利の賞金。これでようやく、39号機のパーツを念願の最高級品へと交換できる。足元では、シロが誇らしげに誠の脚にすり寄っていた。

 「お疲れ、誠。……計算以上の加速だったよ」

 瓜生が歩み寄り、静かに手を差し出した。誠はその手を固く握り返す。

 その時、誠のスマートフォンが短く震えた。差出人は、大宮機艇教習所校長・上田通彦。

 『39号機の軸、まだ少し歪んでいるな。だが……あの直線だけは、私の現役時代よりも速かったかもしれん。……浮かれるな。次からは、お前のチルト3.0を潰しに来るプロが列をなして待っているぞ』

 厳しくも温かい、師からの言葉だった。

 「……見ててくれたんだな、校長」

 誠は、シロを抱き上げると、遠く琵琶湖の方角を見つめた。今夜、下関に響き渡った咆哮は、始まりに過ぎない。

 「持たざる者」の逆襲劇は、ここから全国24箇所の水面を焼き尽くしていくのだ。



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