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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第5部:グランプリへの道

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泥を舐めた王者、白銀の産声

 2030年9月20日。岡山県、備前競艇場。

 『SG最速機兵決定戦(スプリント)』開幕第1レース。

 世紀の決戦の第1マーク。完璧に捉えたはずの旋回軸で、俺の右腕に伝わったのは、おぞましいまでの手応えの喪失だった。痛恨のキャビテーション。黄金の39号機は推進力を根こそぎ奪われ、無残にも外側へと弾き飛ばされた。

「……届かねえ。一歩も、届かねえッ!!」

 俺は歯が抜けるほど食いしばり、スロットルレバーを限界まで握り直した。あかりが極限まで調整してくれた『クロノ・スプリンター』を必死に回し、真空の泡を切り裂いて猛烈な追い上げを試みる。しかし、一度「空」を掴んでしまったボートの加速は鉛のように重く、あまりにも鈍かった。

 超短距離決戦であるスプリント戦において、第1マークでの失速は致命傷どころではない。即座に「死」を意味する。

 先頭を独走する大内胤賢の背中は、もはや追いつける距離にはなかった。それは熱波の中に揺らめく蜃気楼のように遠く、俺の手から無慈悲にこぼれ落ちていく。

「1着、大内胤賢! 圧倒的なスピードでチェッカーフラッグ!! …… asphalt、大きく遅れて6着、速水誠! 四冠王、まさかの最下位発進だぁぁ!!」

 実規の絶叫が、備前の静かな水面に虚しく響き渡る。ゴールラインを越えた瞬間、場内を包んだのは熱狂なんかじゃねえ。冷ややかな、そして残酷などよめきだった。スタンドからは、容赦のない心ない野次が雨のように降り注ぐ。

「四冠獲って天狗になったか!」「所詮は運が良かっただけじゃねえか!」「野球上がりが調子に乗ってんじゃねえぞ!」

 俺はヘルメットの中で唇を強く噛み締めた。生温かい血の味が口いっぱいに広がる。何も言い返せねえ。これが勝負の世界の、絶対の現実だ。四冠王なんていう安っぽい肩書きも重圧も、今の無様な敗北の前では何の盾にもならなかった。俺は黙って舳先を向け、沈黙に染まるピットへと戻っていった。

 昼過ぎのピット。ボートを揚降機(リフト)で陸へと揚げた俺を待っていたのは、窒息しそうなほどの重苦しい沈黙だった。

 いつもなら一番に元気に駆け寄ってくるはずのあかりが、今は力なく肩を落として俯いている。彼女の小さな手には、異常な熱を持ち、一部がどす黒く変色したプロペラが握られていた。

「……師匠、ごめんっす。あかりが、プロペラの軽さと薄さを攻めすぎたっす。スプリントの完全静水面で、あんなに真空の泡が出るなんて……完全に、あかりの計算ミスっす……!」

 あかりの声は激しく震えていた。彼女にとって、39号機の敗北は自分自身の技術の敗北と同義。俺のキャリアに泥を塗ってしまったという猛烈な自責の念が、彼女の華奢な身体を震わせる。

 だが、俺はヘルメットを脱ぎ捨てると、汗と重油に濡れた手であかりの頭を、ガシガシと力強く揺さぶった。

「違う、あかり。お前のプロペラを信じきれず、焦って無理な角度から捲りに行って、余計な負荷をかけた俺の判断ミスだ。お前の技術は、1ミリも間違っちゃいねえ」

「 wilderness、師匠……っ!」

「あかりがくれた最高の武器を使いこなせなかった、俺の修行不足だ。テメェの腕の未熟さを、お前のせいにするような男に俺を育てるな」

 俺がギラついた目でそう言い切った、その時だった。

 カツ、カツと、硬いブーツの音が静かなピットに響き渡る。勝ち誇った表情を隠そうともしない大内胤賢が、通りかかった。

「やあ、速水くん。これが本物の最速の世界だよ。野球上がりの君には、この繊細な水面はまだ早すぎたんじゃないかな? 脳筋のパワーでねじ伏せられるほど、備前の水は甘くないんだ」

 大内の放つ言葉は、冷徹なナイフとなって俺のプライドを容赦なく切り裂く。

「次のレースでは、僕に周回遅れにされないように気をつけることだね」

 大内は俺を一瞥もくれずに去っていった。山口支部の先輩たちも、かける言葉が見つからずに立ち去っていく。

 激しい屈辱のなか、俺は独り整備台の前に立ち尽くしていた。だが、その時だ。俺の足元でずっと静かに闘志を潜めていたスーが、

 ガルゥゥォォッ!!

 と鋭く、そして地響きのような力強さで吠えた。スーの黄金の瞳は、ゴミ箱に捨てられようとしていた、先ほどキャビったプロペラを真っ直ぐに射抜いていた。スーの野生の勘が、そこに眠る可能性に気づけと、俺の魂を激しく揺さぶってきたんだ。

「……スー? 何か、あるのか?」

 俺はスーに促されるように、そのプロペラを力強く手に取った。

 その瞬間、奇妙な光景が俺の目に飛び込んできた。極限の摩擦と真空の泡によって、金属の表面がただ変色しているんじゃない。俺の放った黄金のマブイと、備前の特殊な水質が、超高回転の凄まじい熱によって奇跡の化学反応を起こしていたのだ。

 プロペラの翼端には、真珠のような、いや、鈍い凶器のような光沢を放つ「白銀の皮膜」がびっしりと形成されていた。

「これ……ただの焼き付きじゃねえ。泡が、金属の表面に完全に定着してやがる……!」

 俺が指先でその皮膜に触れた瞬間、脳内に稲妻のようなイメージが流れ込んできた。泡を拒むんじゃない。発生した泡そのものをプロペラの一部として完全に固定し、水との摩擦を物理的に引き下げる究極の構造。失速の原因となった悪魔の泡が、皮肉にも金属を保護し、未知の流体性能を爆発させようとしていた。

「あかり、スー……このプロペラ、捨てちゃダメだ。キャビったおかげで、逆に『水との新しい同調』が始まってやがる。俺たちには、まだこの羽根がある!!」

 俺の瞳に、昼間の屈辱を燃料にして、マグマのように熱い黄金の火が爆発的に灯った。どん底に叩きつけられたことで、四冠王というくだらねえ慢心が完全に削ぎ落とされ、俺はただ速さだけを求める一人の修羅へと立ち戻った。

 【からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新】

 > 【波乱の幕開け】四冠王・速水誠、痛恨のキャビテーションで最下位発進! 王者の陥落にネットは騒然、大内胤賢の電撃逃げ切りにタイムラインが完全炎上!!

 夕刻、ピットの自室に戻った俺のスマートフォンが、激しく振動した。別会場で戦う守屋あおいからの通信だ。画面に映る彼女の表情は、いつになく激しい怒りと闘志に満ちていた。

「誠くん、さっきのレースは何! あんな無様な姿、私の愛した『黄金の王』じゃないわ! 私の目の前で、あの大内に好き勝手言われて、黙ってるつもり!?」

「あおい……すまねえ。俺は……」

「謝る暇があったら、今すぐその白銀のプロペラを叩き直しなさい! 岡山の水は、私の地元よ。君が這い上がってくるのを、私は水面で待ってる。大内をぶち抜いて、私の元まで来い!!」

 通信を切った俺の背後で、ずっとプロペラを凝視していたあかりが、バッと勢いよく顔を上げた。その目には、すでに涙などなく、メカニックとしての狂気の火が宿っていた。

「師匠、あかりも不眠不休で付き合うっす! その白銀の皮膜を完全安定させるための、特殊な電解液を今すぐ調合するっすよ! 次のレース、備前の水を真空の道に変えて用意するっす!!」

 俺はあかりに向かって、獰猛な肉食獣のような笑みを浮かべて頷いた。

「ありがとう、あかり。俺は……最下位から這い上がって、全ての神話をぶち壊し、五冠を獲る伝説の男になってやる!!」

 摩擦を恐れる軟弱な時代は、今日の敗北で完全に終わった。これからは、摩擦そのものを味方に引き入れ、俺たち自身が「泡」となって水面を爆進する。

 俺は再び、戦場である整備室へと全速力で向かった。時刻はもうすぐ、夜の帳が完全に降りる午後8時。ここから、世界をひっくり返す俺たちの極限の深夜整備が始まる。黄金の王が、白銀の絶対の衣を纏って、再び備前の静水面へと鋭い牙を剥く。世界に見せてやる、これが、俺たちの……どん底からの絶対の逆転劇だ!!!

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