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からくり競艇 ~黄金の波切り、魂のフルスロットル  作者: 水前寺鯉太郎
第5部:グランプリへの道

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真空の繭、超空洞航法

 2030年9月20日。岡山県、備前競艇場。

 九月の高く澄み渡った秋空の下、ついに『SG最速機兵決定戦(スプリント)』開幕第1レースの火蓋が切って落とされた。スリットラインを通過した瞬間の凄まじい衝撃波が、徹底管理された備前の完全静水面を残酷に切り裂いていく。

 1号艇、速水誠。2号艇、大内胤賢。

 コンマ00――もはや人間の細胞の反応速度を完全に超えた、両者「神域のタッチスタート」を完璧に決めた俺たちは、時速100キロを優に超える限界速度のまま、第1マークへと同時に突っ込んだ。

 俺の放つ黄金のマブイと、大内の蒼い閃光が、水面で一本の強烈な光の線となって激しく交錯する。

 【からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新】

 > 【電撃のスリット】開幕第1レースから速水誠と大内胤賢がコンマ00の神域スタート! 備前の静水面が二つのマブイで引き裂かれる歴史的瞬間に、ネット上が完全パニック!!

「誠、インから最速の旋回を狙う!! 『黄金・旋風』、ここで大内を一気に突き放すか!?」

 実況の、割れんばかりの絶叫が轟く中、俺はハンドルを鋭く、深く切り込んだ。コクピットの足元でスーが黄金の瞳を爛々と輝かせ、39号機のエンジンが狂暴な咆哮を上げる。しかし、その刹那――俺の指先に伝わってきたのは、これまで何百回、何千回と水面を走ってきて一度も経験したことのない、ゾッとするような不気味な手応えの喪失だった。

「……っ!? グリップが……ねえ!? 水を掴んでねえぞッ!!」

 俺はコクピットで思わず悲鳴を上げた。あかりが極限まで薄く、そして鋭く削り出してくれた秘密兵器『クロノ・スプリンター』。その超高回転プロペラが、この備前の、不純物も揺らぎも一切ない完全な静水面で、最悪の物理エラーを引き起こしていた。

 通常の水面であれば、わずかなうねりが自然と空気を巻き込み、プロペラの回転に適度な粘りとグリップを与える。しかし、この鏡のような水面において、超高周波振動を伴うプロペラは、水の物理的限界を遥かに超えてしまったのだ。

 プロペラ翼の背面圧力が、水の飽和蒸気圧を一瞬で下回ったその瞬間、冷たいはずの水が爆発的に沸騰し、無数の微細な真空の泡が発生する。プロペラは水を効率よく掴むことを完全に拒絶し、水中に出現した悪魔の真空の泡を、ただ無意味にかき混ぜるだけの「完全空転」状態に陥っちまったんだ。

「なっ……!? 機体が完全に制御不能だッ!!」

 ガガガガガガガガッ!!!

 金属同士が骨を削り合うような激しい異常振動が、俺の全身の骨をガタガタと軋ませる。コンマ00のロケットスタートで得た時速120キロ近い凄まじい慣性が、制御を失った俺の身体を、第1マークの遥か外側へと無慈悲に放り出した。39号機の船尾が激しく左右に暴れ、水面をバチバチと狂ったように叩きつける。

「1号艇、速水誠、痛恨のキャビテーション!! 外側へ大きく、大きく膨らんだぁぁ!!」

「……甘いね、速水くん。最高速スプリントの静水面を、君は何も理解していない」

 俺がコントロールを完全に失い、外側の消波装置ギリギリまで無様に流されたその一瞬の隙。2号艇の大内胤賢は、この絶望的な事態を最初から予見していたかのように、冷徹なまでに正確無比なハンドル捌きを見せた。

 彼の駆る「ソニック・アロー」は、俺が撒き散らした真空の泡の、わずか数ミリ内側――辛うじて残留する絶対の静水面を完璧に捉えていた。大内の艇は一切の余計な飛沫を上げず、まるで鋭利な剃刀が極上の絹を切り裂くように、俺の懐へと最短距離の「神速の差し」を突き刺した。

「抜けた!! 大内胤賢、一気に先頭! 誠は後続の波に瞬く間に飲み込まれ、5番手まで一気に後退!!」

 大内の放つ蒼いマブイの残像が、俺の無様な敗北を嘲笑うかのように、目の前を通り過ぎていく。大内はバックストレッチに出た瞬間、一切の迷いなく最高速まで加速し、俺との距離を絶望的なまでに広げていった。

 外側へ大きく流され、消波装置の鉄柵ギリギリで機体を立て直した俺。エンジンの回転数は見たこともない異常な赤色の数値を叩き出し、機体からは空転したプロペラが焼き付くような、鼻を突く焦げた臭いが漂っていた。

「くっ……スー、すまねえ! 俺が、五冠を焦りすぎて……あかりが命を削って作ってくれたプロペラの、繊細な限界を見誤っちまった……ッ!!」

 俺の心の中に、濁流のような後悔と、皮膚が焼け焦げるほどの焦燥が渦巻く。四冠王なんていうお飾りのプライドのせいで、俺は独りよがりの無様なターンをしてしまった。

 だが、その時だ。足元で踏ん張っていたスーが、俺の脚を、肉球がちぎれんばかりの力強さでがっしりと叩いてきた。

 ガルゥゥ、ウォォォンッ!!

 スーの黄金の瞳は、まだ1ミリも死んじゃいねえ。それどころか、かつてないほどの凶暴なまでの闘志で、真っ赤に燃え上がっていた。鼻を荒く鳴らし、「何下を向いてやがる誠! まだレースは終わってねえ、前を見ろ!」と、俺の魂の胸ぐらを掴んで激しく叱咤してきたんだ。

「……そうだな、スー。ここで俺が諦めたら、あおいやあかり、山口の全員に、どの面下げて会えばいいんだよ……!」

 俺の瞳に、再び猛烈な黄金の炎が宿る。たとえプロペラが水を掴めないのなら、その発生した最悪の現象そのものを、俺たちの武器として力ずくで利用してやるまでだ。

「師匠!! 聞こえるっすか!? 諦めるのはまだ、1秒早いっす!!」

 その時、俺のヘルメット内の通信機に、ピットからあかりの、通信機が割れるほどの悲鳴が飛び込んできた。

「そのプロペラ、キャビっても絶対に死んでないっす! 蔵野家の金属性パーツは、真空の闇の中でもエネルギーを何倍にも増幅させるっす! その悪魔の泡を抵抗じゃなくて、水との摩擦をゼロにする最高の潤滑剤にして回るっす!!」

「泡をクッションに……!? あかり、それじゃあ……プロペラ全体を巨大な空気の層で包み込むってことか!?」

「その通りっす! 『超空洞航法』っすよ!! 泡を拒むな、泡を全部飲み込んで、泡ごと大爆発させるっす!! プロペラが粉々に砕け散るまで、スロットルを回し切れっす、師匠!!」

「お前の魂、確かに受け取ったぞあかり!! 泡ごと、備前の海を丸ごと飲み込んでやるッ!!!」

「いくぞ、スー!! 39号機ッ! 回れぇぇぇぇ!!!」

 俺はスロットルレバーを、折れるほどの力まかせで床まで叩き込んだ。エンジンの回転数が、通常のからくり機体なら一瞬で木っ端微塵に爆発する「18,000rpm」の限界領域をアッサリと突破する。プロペラ周辺で異常発生した真空の泡が39号機の船尾全体を包み込み、まるで黄金の淡い光を放つ絶対の「繭」のようになった。

 摩擦が、消える。自ら作り出した真空の空洞の中を、ただひたすらに突き進む、異次元のロケット加速。

「な……速水誠、5番手から信じられない超絶的な伸びを見せている!! 黄金の泡を引き連れながら、前方の3位、4位を一瞬にして射程圏内に捉えたぁぁ!!」

 実況がひっくり返った声を上げる。俺の39号機は、もはや空間を滑る最速の雷鳴だ。2周目、第1マーク。先頭を優雅にひた走る大内胤賢の背中が、再び俺の視界に巨大に映し出された。

「大内……!! 最速の定義を、俺たちが今ここで、完全に書き換えてやるッ!!!」

 黄金の気泡を全身に纏った俺とスーが、再び蒼い閃光の背後へと突っ込んだ。

 ――だが、奇跡の代償はあまりにも、非情だった。

 ガガギギギギギギッ!!!

 大内の懐へ飛び込もうとしたその刹那、バイパス直結も施していない、定格限界を超えすぎたクランクシャフトが、18,000回転の異常な負荷に耐えきれず悲鳴を上げた。燃焼室から、黄金のマブイが黒煙と共に大爆発を起こして噴き出す。

「……っ、ここまで、か……!」

 エンジンが完全に焼き付き、39号機は激しく失速した。超空洞の繭は一瞬にして霧散し、俺たちの機体は、後続の艇に次々と無残に追い抜かれていく。

 トップを走る大内の背中が、今度こそ絶望的な距離へと遠ざかっていく。俺は激しい振動をあげるボートの上で、スーの身体を抱きしめながら、ただ悔しさに歯を食いしばるしかなかった。

 開幕第1レース。超空洞という未知の翼を垣間見せながらも、俺たちの39号機は、なす術なく最下位のままゴールラインを越えることとなる。だが、この大敗という名の「最悪の種火」が、深夜のピットで、さらなる狂気の逆襲劇を呼び覚ますことを、この時はまだ、誰も知る由がなかった。

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