千分の一次元、重き楔
2030年8月27日。長崎県、大村競艇場はかつてない熱量に浮かされていた。
予選第8レース、最終周回。運命の第2マーク。
カクテル光線が獰猛に反射する水面は、もはや単なる海水ではなく、レーサーたちの意志がドロドロに溶け出した魂の戦場と化していた。
先頭を駆けるのは、東京支部の不気味なベテラン、石田健太郎。彼の操る機体は、一切の音と飛沫をその場に置き去りにし、闇に溶ける影のように第2マークへと吸い込まれていく。その真後ろ、コンマ数秒の遅れで追随するのは、三冠王者――この俺、速水誠だ。瓜生俊樹が自らの機体を壊しながら濱田一翔の旋回を完璧に粉砕し、命がけでこじ開けてくれたあの黄金の航路を、俺は今、一筋の閃光となって突き進んでいた。
「石田のナイトサイレンサーか、誠の黄金マブイか! 四冠を占う運命の旋回、今、同時に飛び込んだぁぁ!!」
実況の声が枯れんばかりにスピーカーを震わせる。世界中が見守る中、二隻のボートは同時にターンマークの深淵へと吸い込まれた。
石田健太郎の走りは、まさに静寂の極みであった。
「石田のナイトサイレンサー、出口の足が速い! 大村特有の高密度な浮力をあえて反発させ、水面を滑るように加速する滑走旋回だ!!」
石田は愛犬ミヤビと完全に同期し、マブイを機体の周囲に薄い膜として展開させていた。それにより水面との摩擦を極限まで減らし、慣性だけで驚異的な立ち上がりを見せる。
対する俺は、その美技と真反対の狂暴な戦術を選んだ。
「スー、前だ! 重心を全部、一番前に持っていくぞ!!」
フゴォォォォォン!!
コクピットのフロント前縁ギリギリまで移動したパグのスーが、その小さな身体でフロント荷重を最大化させる。ここで、野田あかりが不眠不休で換装してくれた蔵野家伝来の金属性パーツが、その真価を爆音と共に発揮した。通常の軽量カーボンボートなら浮き上がって暴れてしまう大村の強烈なうねりに対し、金属性の底板が重い楔となって、水面を深く、そして鋭く噛み砕いたんだ。
「逃がさない……! 石田さんの静寂を、俺たちの執念でブチ抜く!!」
俺は自らの黄金マブイを拡散させる生ぬるい真真をやめ、金属性のプロペラシャフト一点へと超集中させた。石田が水面を滑走するなら、俺たちは水を切断する。大村の海水を黄金の刃で切り裂き、物理法則を力ずくでおねじ伏せるような驚異的な沈み込みを見せた39号機は、旋回の出口で石田のイン懐へと無理やりその舳先をねじ込んだ。
【からくり競艇公式YouTube『カササギ』Template更新】
> 【1000分の1秒の深淵】速水誠の黄金の楔が、石田健太郎の絶対の静寂を捉えた! ホームストレッチ、ハナ差のままゴールへ突っ込む両雄にネット上はサーバーダウン寸前の大パニック!!
直線に向いた瞬間、二艇は完全に並走状態となった。石田のパグ・ミヤビが放つ、周囲の音を無慈悲に吸い込む静かなる波動。俺のパグ・スーが放つ、天を衝くような黄金のマブイ。相反する二つの力がバックストレッチで激しく火花を散らし、大村の水面を黄金と銀色の閃光で真っ二つに染め上げた。
「残り100メートル! 並んでいる、完全に並んでいる!!」
石田の機体は、静かに、しかし確実にゴールラインへと伸びてくる。俺の機体は、黄金の咆哮を上げながら、一歩も引くことなくその喉笛へと食らいつく。
「50、30……並んだままゴールイン!! どちらだ!? どちらが勝ったぁぁ!!」
1000分の1秒を争う極限の攻防。肉眼では、どちらの舳先が先にラインを越えたか判別することは不可能だった。
その瞬間、大村競艇場の巨大な電光掲示板に、赤く力強い文字が踊った。
【 写真判定 】
その文字を見た数万の観客たちは、一瞬、呼吸を忘れたかのような完全な静寂に包まれた。俺は荒い息を吐きながら、ゆっくりと艇を減速させる。隣を並走する石田健太郎が、ヘルメット越しに冷徹な視線を合わせてきた。
「……速水くん、いい走りだったよ。正直、君の黄金にここまで重みが加わるとは思わなかった」
石田が少しだけ口角を上げ、寂しげに笑う。
「瓜生くんたちの、あの命がけのダンプがなければ、僕の勝ちだった。……仲間に恵まれたね」
やがて審判室からスリット写真が確定し、掲示板に勝者の番号が点灯した。
「 4 」
「ハナ差! わずか数センチ、いや数ミリの差か! 4号艇の速水誠、石田健太郎を直線で振り切りました!! 予選第8レース、勝者は速水誠!!」
ドォォォォォォォォン!! と地鳴りのような凄まじい歓声が競艇場全体から沸き起こる。
「勝ったぞ、スー!!」
俺は力強く拳を空に突き上げ、大村の夜空へ向かって吼えた。それは単なる予選の一勝ではない。瓜生が機体をボロボロに壊しながら守ってくれたチャンスを、石田という高すぎる壁を、俺自身の力で、そしてあかりの技術で超えたという絶対の確信の咆哮だった。
ピットでは、接触の凄まじい衝撃でカウルが激しく損傷した6号艇から、瓜生俊樹が降りてきた。彼は愛犬パスタを優しく抱きしめ、掲示板の「4」を眩しそうに見つめていた。
「誠……三冠王の看板、伊達じゃなかバイ。お前の黄金、大村の海にもしっかり刻まれたバイ」
瓜生の口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。パスタもまた、スーの勝利を称えるように「フガッ」と短く鼻を鳴らした。
ピットの喧騒の中、俺のスマートフォンが激しく振動した。ビデオ通話の画面には、グリスで顔を汚しながらも、満面の笑みを浮かべる野田あかりの姿があった。
「師匠!! 最高っす! 職人の意地、マジで見せつけてやったっすよ!! あかりも今、レディースクラシックで準優勝戦進出を決めたっす! でも……あかりはこれから、他会場の決戦へ向けてすぐに出発しなきゃいけないっす」
あかりの瞳に、寂しさと、それを遥かに上回る強い闘志の炎が宿る。
「だから師匠、ピットの工具箱の底を見てほしいっす。他会場へ行く前に、師匠のために『最後の贈り物』を残しておいたっすから! 蔵野家の鉄を、さらに加速させるための極秘パーツっすよ。明日の予選最終日、絶対使うっす!」
「あかり……! ありがとう。お前が直してくれたこの機体、次も最高に動かしてみせる」
通信が切れ、俺は足元で黄金の瞳を輝かせるスーを見つめた。俺の四冠への挑戦は、最大の山場を越えた。だが、明日の大村の海には、地元長崎の重鎮・新武友哉が牙を研いで待っている。
「行こう、スー。39号機。俺たちはまだ、止まらねえ!!」
三冠王から、四冠の伝説へ。あかりの残した想いを胸に、俺たちの航跡は、明日の大村の大干潮の水面へ向けて、より深く、より鋭く刻まれていく。




