第162話:爆炎の除染、神戸の静水面 ― 大宮橋右衛門杯・開幕 ―
2030年8月1日。兵庫県尼崎市。
「センタープール」の愛称で親しまれ、全国でも屈指の「静水面」を誇る尼崎競艇場は、例年であれば真夏の太陽を鏡のように跳ね返す、美しいブルーの水面を見せているはずだった。
しかし、この日、尼崎に集った万衆の観客が目にしたのは、異様な光景であった。
水面は鏡どころか、まるで半透明のゼリーを敷き詰めたかのように、粘り気を含んだ鈍い光を放っている。カササギの超高精度カメラが捉えた水面下には、大宮橋右衛門の遺産である**「マブイ糸」**が、幾重にも重なる巨大な蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
この糸は、ボートのプロペラが発する微細な振動を検知すると、生き物のように足回りに絡みつき、機体の「出力」を吸い取る。不用意にターンマークへ飛び込めば、待っているのは落水ではなく、機体ごと蜘蛛の巣に吊るされる「標本」としての死だ。
「……三冠への第一歩が、この地獄っすか」
ピットで39号機の調整を続ける速水誠は、額の汗を拭いながら、水面に漂う不気味な静寂を睨みつけていた。
「大宮橋右衛門杯、予選第1レース! 進入は枠なり、123/456! 注目はなんと言っても1号艇、『福岡ポンコツ会』会長、西野貴志!! 尼崎の静寂を、その爆炎でどう焼き払うのか!?」
実況の声が響き渡る中、1号艇の西野貴志は、ヘルメットの中で不敵な笑みを浮かべていた。
彼の視界には、水面下に蠢く「糸蜘蛛」たちのからくり回路が、熱感知センサーを通じてはっきりと映し出されている。
「……糸だの罠だの、小癪な真似は好かんバイ。虫ケラ共の巣窟ごと、まとめて消毒してやるバイ!!」
大時計の針がゼロを指すと同時に、西野の機体から周囲の気温を一気に5度上昇させるほどの凄まじい熱量が発生した。
『奥義:爆炎・業火絨毯』!!
西野が1マークへ差し掛かると同時に、ボートの底面にある特殊噴射口から、超高密度の爆炎属性マブイが水面へと叩きつけられた。
ジュッ、という凄まじい蒸発音と共に、尼崎の静水面が沸騰し始める。水面下に潜んでいた「マブイ糸」は、鋼鉄をも溶かす西野の熱量に耐えきれず、一瞬にして焼き切られ、白い灰となって霧散していった。
「なっ、糸が……跡形もなく消えた!? 西野、爆炎の力で無理やり航路をこじ開けたぁぁ!!」
通常のレーサーであれば、糸の抵抗を恐れてターンの初動を慎重にする場面。しかし、西野は全速。焼き切られた糸の残骸を、沸騰した水ごと蹴散らし、最短距離を豪快にイン逃げ。
2号艇、3号艇の選手たちが、西野の引き波に残った「焼き切れなかった端糸」にプロペラを足を取られ、機体のバランスを崩して大きく失速するのを尻目に、西野の機体だけが異次元の加速を見せる。
「ハッハッハ! 虫の巣なんぞ、焚き火の燃料にもならんバイ!」
西野はそのまま独走状態でゴール。1Rから、からくり虫の仕掛けを力技で粉砕するという、福岡支部の荒々しさを見せつけた。
ピットに戻ってきた西野は、ボートから降りるなり、待機していた誠に向かって親指を立て、真っ白な歯を見せて吠えた。
「誠、見たかバイ! これが福岡の、そして俺のやり方バイ! 搦め手なんぞ、全て焼き尽くせば解決たい!」
「西野さん、相変わらず無茶苦茶っす……。でも、あかり、今の見たっすか?」
誠は、西野の走りをモニターで何度もスロー再生しながら、メカニックの野田あかりに問いかけた。
「……見てたっすよ、師匠。西野さんの爆炎、確かに糸は焼き切ったっすけど……焼けた糸が溶けて、水が紫色に変質してるっす。あれ、多分『腐食毒』のガスっすよ。次のレースからは、機体の吸気系に影響が出るかもしれないっす」
あかりの指摘通り、西野が焼き払った後の水面からは、薄紫色の不気味な蒸気が立ち昇っていた。大宮橋右衛門の遺産は、単なる物理的な糸ではない。焼かれれば毒を撒き散らす、呪いのような防衛機構を備えていたのだ。
膝の上にいたシロは、西野の残り香を嗅ぎ、不快そうに鼻を「フゴッ」と鳴らした。シロの黄金のマブイが、周囲に漂う微細な毒素を浄化するように淡く輝く。
「フゴ、フゴフゴ(……西野は力でねじ伏せたけど、この先の『主』はもっと嫌なマブイをしてるっすよ)」
シロの瞳は、ピットの最深部、ひときわ暗いブースで、複眼のようなゴーグルを磨き続けている男――大宮家の直系、大宮忠志を捉えていた。
からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 【爆炎の開幕】西野貴志、からくり虫の罠を焼き払い完勝! しかし、焼かれた糸から謎の『腐食毒』が発生!? 後続レースへの影響は!? 累計PVは5億8,000万を突破! 尼崎は今、毒と炎の地獄と化している!!
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【予選第1R:最終結果】
| 着順 | レーサー | 支部 | 戦術・マブイ |
| 1着 | 西野 貴志 | 福岡 | 爆炎による物理破砕。 |
| 2着 | 森田 勝司 | 福岡 | 会長が作った熱い航路を耐えて追走。 |
| 3着 | 新見 航平 | 福岡 | 糸の干渉を独自のペラ形状で受け流す。 |
「次は、俺の番……!」
誠は、あかりが「対ジャミング装甲」を施した39号機のカウルを優しく叩いた。
第6レース。そこには、尼崎の主である大宮家の末裔、大宮忠志が出走する。
西野が焼き払ったことで、逆に「活性化」した水面下のマブイ糸。大宮忠志は、自らその糸を操り、誠の黄金マブイを絡め取ろうと待ち構えている。
「あおい、準備はいいか?」
「……いつでも。誠の羽を汚す虫は、私の氷で一匹残らず凍土に沈める」
あおいの冷気が、西野の爆炎で上がったピットの温度を再び氷点下へと引き戻す。
黄金の龍と、氷の女王。
そして、闇に潜む蜘蛛の王。
静水面という名の、音なき戦場が、いよいよ真の姿を現そうとしていた。
「シロ……行くぞ!」
(フゴッ!!)




