第124話:再会の堤防、兄弟の魂(マブイ) ― 健吾、江戸川に立つ ―
2030年4月1日。江戸川競艇場を包む空気は、もはやスポーツの熱狂を超え、戦場の殺気へと変貌していた。
堤防を激しく打つ「上げ潮」の飛沫。スタンドのトタン屋根を震わせる「金属耳鳴り」。そして、東京湾から吹き付ける重い潮風。そのすべてが、復帰初戦を迎えたダービーキング・速水誠を窒息させようとしていた。
「1R、江戸川選抜戦! 1マークの旋回を前に、2号艇・速水誠が動けない! 3号艇・長谷川平士郎の放った『鬼平・水縄』が、王者の機体を水底に釘付けにしている!!」
実況の絶叫が響く中、誠の視界は歪んでいた。
長谷川一族に伝わる「捕縛マブイ」は、目に見えない粘りつく鎖となってプロペラの回転を奪い、さらには脳を揺さぶる騒音が誠の集中力をズタズタに切り裂いていた。
だが、その阿鼻叫喚のスタンドの片隅、堤防の最上段に、周囲の罵声とは無縁の「静かなる闘志」を纏った一人の青年が立っていた。
「……兄貴。江戸川の波に呑まれて、何をもがいてるんだよ」
その男の名は、速水健吾。
速水誠の実弟であり、ボートレースとは異なる「地上の格闘技」――からくり競輪の世界で、今や新星として名を馳せる男だ。
からくり競輪。それは、己の肉体とマブイを極限まで同調させ、時速70kmを超える速度で疾走する鉄塊(自転車)を操る過酷な競技。健吾が纏う特殊スーツの脊髄インターフェースが、水面で苦悶する兄の乱れたマブイに共鳴し、鈍く、赤い熱を発し始めた。
「兄貴の『波切』は、宮島の凪のような綺麗な水面でしか通用しない弱点がある。……でも、俺たちが千葉の泥の中で培ってきた『根性』は、そんなもんじゃなかったはずだろ」
健吾の瞳に宿るマブイは、誠の洗練された蒼とは異なり、アスファルトを焦がすような鈍色の輝きを放っていた。彼は無言で、堤防の鉄柵を掴む。その手から、競輪選手特有の「一回転に魂を懸ける」爆発的な振動波が放たれた。
誠の意識が、江戸川の不快なノイズに沈みかけようとしたその瞬間。
耳を突く金属音の奥底から、懐かしく、そして暴力的なまでに力強い「拍動」が届いた。
「(兄貴、聞こえるか! 耳を塞ぐな、その騒音をリズムに変えろ!)」
誠がハッと目を見開く。それは現実の声ではない。マブイを介して脳に直接叩き込まれた、健吾の「声」だ。
「(自転車のクランクを回すみたいに、マブイを一定の周期で叩きつけるんだ! 荒れた水面なんて、バンクの傾斜と同じだ。バラバラな振動に合わせるな。自分の中に、誰にも壊せない『超回転』を創り出せ!!)」
「健吾……!? なんでお前が……」
誠は気づいた。
江戸川の「金属耳鳴り」が不快なのは、それが不規則だからではない。自分のマブイが、その外的な振動に抗おうとして、逆に不協和音を奏でていたのだ。
ならば、なすべきことは一つ。
この騒音を、健吾がラストスパートで見せる、あの狂気じみた「回転のリズム」へ強引に引きずり込むこと。
誠はハンドルのグリップを、骨が鳴るほどに握りしめた。
脳内で、健吾の漕ぐペダルのリズムが刻まれる。1、2、1、2。
不規則だった誠のマブイが、螺旋を描いて収束していく。
「っ!? 速水誠の39号機、エンジンの振動が……変わった!? 何だ、この規則正しい重低音は!!」
実況が声を裏返す。
誠は、耳を突く「キィィィィン」という高周波を、あえてマブイの加速点に設定した。不快な音が響くたびに、機艇の「発条」へ、健吾がペダルを踏み込むような爆発的な負荷を叩き込む。
「喰らえ……! これが、俺たちの『根性』だ!!」
『新奥義:速水流・螺旋波切』!!
プロペラが物理的な限界を超えた「超回転」を開始した。
それは水面を切り裂く刃ではなく、水そのものを螺旋の竜巻へと変えるドリル。
機体を縛り付けていた長谷川一族の「水縄」が、その圧倒的な回転のエネルギーに耐えきれず、パキン、パキンと音を立ててズタズタに引き裂かれていく。
それだけではない。
螺旋状に放出された誠の衝撃波は、水中に絡みついていた長谷川の捕縛マブイを逆流し、逆に長谷川の3号艇を激しく揺さぶった。
「なっ……水縄が、引き千切られた!? バカな、あの出力……競艇選手の出すマブイじゃないぞ、まるで競輪のラストスパート、死の淵の『もがき』だ!!」
驚愕する長谷川。彼の機体はマブイの逆流によって制御を失い、大きく外側へ膨らんだ。
2030年4月1日 11時30分:からくり競艇公式YouTube『カササギ』PV更新
> 「【共鳴】誠、覚醒! 謎の青年とのマブイ共鳴で、江戸川の捕縛を粉砕! 累計PVは7,500万! 堤防に立つあの男は誰だ!?」
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【江戸川・選抜戦:1マーク情勢】
| 順位 | レーサー | 状態 |
| 1位 | 大倉 理恵 | 悠々と旋回に入るが、後ろから迫る誠の「熱気」に、愛犬・りんが怯えて吠え始める。 |
| 2位 | 速水 誠 | 捕縛を脱出し、超回転で大倉のインへ強引に突っ込む! |
| 3位 | 長谷川 平士郎| マブイの逆流に遭い、一時操縦不能。泥水を啜り後退。 |
誠の機体は、江戸川の濁流を味方につけた。
螺旋の波紋が周囲のうねりを平伏させ、大倉の「浄化」の凪さえも飲み込んでいく。
「速水くん……貴方のそのマブイ、もはや『綺麗』ですらないわ。なんて……なんて泥臭くて、熱いのかしら!!」
大倉は恐怖しながらも、その未知なるエネルギーに頬を染めた。
しかし、誠の視線はすでに1マークの出口、勝利という一点に向けられていた。
堤防の上で、健吾は兄の鮮やかな逆転劇を見届けると、不敵な笑みを浮かべて特殊スーツのエネルギーをオフにした。
発熱していた脊髄インターフェースが冷えていく。
「……後は兄貴次第だ。俺も、甘えてられないな」
健吾は背を向け、スタンドの喧騒から離れていく。
「俺は俺の戦場で、また魂を削ってくるよ。……負けるなよ、兄貴」
一方、水面では誠が「螺旋波切」の余韻を全身に感じながら、加速していた。
江戸川の荒波は、もはや彼を拒む壁ではない。
それは、彼がさらなる高みへと昇るための、重く力強い「踏み台」へと変わっていたのだった。
この話で出てくる速水健吾は現在執筆中であるからくり競輪の速水健吾とは同姓同名の別人です




