消された記憶
「ーーさあ、どうぞ。お召し上がりください」
お屋敷のメイドが食事を運んで来た。テーブルの上には可愛らしい食器の上にパンケーキが置かれた。小さな小瓶に入った蜂蜜。四角いバター。イチゴのスムージー。
女性はナイフでパンケーキを一口大に切って、フォークで少しずつ食べる。パンケーキの生地がふわふわで、蜂蜜が甘くて美味しそうだ。
「ーーうん、安心した。テーブルマナーとか人間の基本的なことは覚えているみたいだね」
シリウスは彼女の真向いの椅子に座り、彼女がパンケーキを食べている様子を観察していた。
「……美味しい?」
彼女は首を縦にして頷く。なら、良かったと、彼は微笑んだ。
ーーこの人、どうして、わたしにこんなに優しくしてくれるのだろう。としは二十代半ば……くらいだろうか。身に着けているアクセサリーが高そうなものなので、すごく大人な感じがする。
シリウスはラビィを見つめながら、大きく口を開けて言った。
「ーーあ?」
ーー????
ラビィも同じく口を開ける。
「ーーい?」
ーー????
ラビィも同じく口を動かす。
「ーーうん、了解した」
ラビィが食事を終え、食器を下げると、シリウスは紙とペンを持ってきた。
「声が出ないんだね」
ラビィは、頷く。
「文字は書くことができる?」
ラビィはペンを握ると、その返事を紙に書いた。
『ありがとうございます。シリウスさん』
ラビィは紙にすらすらと返事を書いて見せた。
「ーー僕の名前だね」
ーーシリウスさん?
「ーーそうだ、これは僕の……名前だよ。そうだね、君は知りたいことがたくさんあるよね」
ラビィは安堵した。自分のことも、全く覚えていない状況で、知らない場所で、一人だけ頼ってもいい人を見つけたような気がした。
「ーーいいかい? 知りたいことがあれば、まずは僕に聞いてね。僕が少しずつ教えてあげるから」
ラビィはにっこりと微笑んだ。
「ラビィ? 一つだけ、お願いがあるんだ」
ーー????
「僕以外の人間と会話をしないで欲しい」
ーー!?!?!?
ラビィはその唐突なお願いに驚いた。
ーーーなぜ?
「ーー君の記憶と声を奪ったやつに、これ以上何かされるのが怖い……」
シリウスの表情は暗く、声は震えていた。
ラビィは、目の前で手を振った。
ーーわたしならだいじょうぶ!
口をぱくぱくと動かし、両手でガッツポーズを取って見せた。
ーーそんなに心配しなくても平気、平気。さっきも強いお酒? をのまされそうになったけれど、頬で払いのけたら意外と回避できたし!!! わたしは強いから。心配いらないって!
「……できるだけそばにいろよ」
シリウスの瞳は青く潤んでいて、空は今にも雨が降りそうだった。
トントン。部屋の扉が誰かの手によってノックされた音が聞こえた。
「……取り込み中悪いんだけどさ」
部屋の扉の前にシリウスと同じくらい背が高い男性が立っていた。やわらかな赤髪にオレンジダイヤモンドの宝石のような瞳。
「ラビィちゃん、はじめまして。私の名前はベテルギウスです。星の琥珀に狩人との契約をした魔法使いです」
ラビィは戸惑いながら軽く会釈をした。
ベテルギウスは紳士的なシリウスの服装とは違ってだいぶカジュアルな服装をしている。白のTシャツと深緑色のズボンに茶色のブーツ。肩まである髪をゆるく一つに結んでいて、瞳の横に泣きぼくろがある。ややたれ目の優しそうな眼差しが爽やかなお兄さんという雰囲気だった。
「……どうかしたか、ベテルギウス」
シリウスは会話を邪魔されてやや不機嫌そうに尋ねる。
「……昨日のことなんだけれど」
ベテルギウスはシリウスが座っている椅子の横まで歩み寄り、耳元でこっそりと囁いた。
「ーー理解した」
耳打ちされた言葉にシリウスは椅子から立ち上がる。彼の表情から先ほどまでの笑顔は消えていて、凍てついた表情になっていた。
「ーーちょっと、今から友人と話したいことがあるんだ。ラビィはこの部屋でゆっくり休んでて欲しい」
ーーだいじなはなし?
「ーー貴女はなにも心配しないで」
シリウスとベテルギウスはラビィを一人部屋に置いて、二人で廊下を歩いて行った。扉はゆっくりと閉められた。
☆
〈☆シリウスのお屋敷。一階会議室。〉
シリウスは深いため息をついた。彼は大きな窓のそばの椅子に座っている。テーブルに両肘をついて、悩まし気な表情とさり気なく両手で口元を隠している。
「ーーじゃあ、どうしてラビィが王国騎士団から恨みを買ったと言うんだ?」
「これは相手側の勘違いだと思います」
「勘違いだと!? 間違いで大切な人の命を狙われてたまるか!」
「……こちらとしては、人違い……で、ありたいのですが」
大きなテーブルを囲むように十二の椅子が並べられており、上座にシリウス、シリウスの近くにベテルギウスと、もう一人の男の子が座っていた。
シリウスと会話をする男の子は他の二人よりも随分と幼い印象を受ける。灰色の髪、オパールの瞳。青のフード付きパーカーと膝が出るショートパンツを履いている。
「ワイングラスの持ち手の細工、星の模様は我らの国の国章です。こちらは国に許可なく、刻むことは、許されていません」
テーブルの上には、真っ白な布の上に昨日の割れたワイングラスが置かれている。
「昨日、ラビィさんを襲ってきたのは間違いなく王国騎士団です」
「ーーっ。そんな話しがあっていいワケないだろう」
シリウスは牙をむき、自分の歯をギリリと噛み締めた。
「一つの証拠に昨日ラビィさんが捕らわれていた場所は、騎士団の教会の近くの空き家でした。男らは全身を真っ白なローブで姿を隠していましたが、あの声には聞き覚えがあります。ぼくは耳が良く、一度聞いた声はわすれませんから」
「……プロキオンが聞いたのは、間違いなく王国騎士団の声だった……と、言いたいんだな」
ベテルギウスの声にプロキオンは頷く。
「……だから、せめてもの救いが、人違いでありたいと願います」
「ーー最悪だ」
シリウスはぼやく。
二人の会話を静かに見守っていたベテルギウスが口を開いた。
「今回の問題は、この状況からどうやって元のラビィさんに戻ってもらうかじゃないか」
「ーーそうだな」
シリウスは口元を隠していた手をぎゅっと握りしめる。
「俺は元々王国騎士団の一員だったから、今も元仲間に連絡を付けることもできる。俺が、直接出向いても問題ないか?」
「ーー……」
シリウスは横目でベテルギウスを見た。
「ーーそうですね。シリウスさんは相手側にも正体を見られていますし、今回はベテルギウスさんにこっそりと事情を探って来て貰えますか?」
シリウスは視線をもとに戻す。彼は随分と不満そうな表情をしている。
会議室の扉はゆっくりと閉まった。