もう、君を苦しめたくない
白いお花と男性の横顔。
ーーあの、泣きそうな表情をしていた彼はいったいだれなのでしょうか? わたしはいったい何を忘れてしまったのでしょうか?
〈☆シリウスのお屋敷。自分の部屋。〉
ラビィはゆっくりと目を覚ました。
「ラビィ様、ご体調はいかがでしょうか? 今、お医者さまをお呼びいたします」
お屋敷のメイドは部屋から出て、医者を呼んできた。ラビィは診察を受けた後、どこにも異常がないことを確認すると、身なりを整えて食事を取った。シリウスは外出していた。メイドはいつもと変わらず、屋敷の掃除や食事の準備をしていた。
手持無沙汰なラビィは魔石を作ろうと思い、シリウスの書斎のドアの前に立った。ドアノブに手をかけた瞬間、プロキオンに止められた。
「ラビィさま」
ーーな、なに!?
「ーーーーっ!! ぼく怒っています」
ーーえ!? 私、なにかした!?
プロキオンはムッとした表情で廊下を歩いて行く。ラビィもそのあとを追った。
「ラビィさま? あら、プロキオンさま!」
廊下をすれ違うメイドが声をかける。
「ご一緒にお出かけですか?」
プロキオンは屋敷の玄関を出て、庭先を通り、裏の林の中をどんどん歩いて行く。道はだんだんと険しくなり、大きな岩の隙間を通って、しばらく歩いた先に岩陰から流れる滝と泉があった。その前でプロキオンは立ち止まる。
「あなたは全部忘れてしまった。もう半年もたつのにシリウスさんは本当のことを何一つ話そうとしない」
ーーほんとうのこと?
「あなたは聖女で、シリウスさんの元婚約者です」
ーー婚約者?
ーー婚約者って、わたしとシリウスさんが? どういうこと?
ラビィの頭の中ではじめてシリウスと出会った日のことが思い出される。窓が割れ、割れた窓からシリウスは血相を変えてやって来た。腕や頬に傷を作り、それでもラビィの名前を何度か強く呼んだ。
ーーあの時、わたしは彼の手をとらなかった。
『ーーははっ、その様子だとすっかり僕のことも忘れてしまったようだな』
ラビィの胸が締め付けられる。
『僕の名前はシリウスです。星の琥珀に狼との契約をした魔法使いだよ』
ーーだって、私は元聖女だから。聖女だから守ってくれているって思ってて。
「……ラビィさん?」
ラビィは泉にうつった自分の姿を改めて見た。
背中まで伸びた長い髪。小さな女の子の手のひら。まだどこか幼い容姿。
ーーわたしはここまで聞いても、やはりなにも思い出せなくて。
『ーーいいかい? 知りたいことがあれば、まずは僕に聞いてね。僕が少しずつ教えてあげるから』
ーー彼の言葉を思い出した。
『ラビィ? 一つだけ、お願いがあるんだ』
『僕以外の人間と会話をしないで欲しい』
ーーそうだった。
ラビィは自分と同じくらいの背のプロキオンを見て深く頷いた。
プロキオンは星の魔法使いの一人とはいえ、まだ十五歳と若い。ウルフカットの灰色の髪から覗く、大きく揺れるオパールの瞳からは全く悪意を感じない。
ラビィの潤んだ瞳でにっこりと微笑まれて、プロキオンは頬を赤らめる。
「ーーこんなに言っても、ぼくのことも思い出さないんだな!」
ーー!?!?!?
ラビィの体がふわりと浮き、前方に押し倒され、その小さくともがっちりとした骨付きの男の子の腕の中に落ちた。体を強くぎゅううっと抱きしめられ、お互いの沈黙が続く。
岩から泉に落ちる水の音が聞こえる。
「記憶を失ってしまったあなたに、もう一度伝えよう。ぼくは君が好きだ」
泉の光を反射したオパールの瞳がきらきらと輝いている。水面は揺れて、不安そうな瞳。小さな口元からちらっと見える八重歯。ラビィを抱き抱える腕なんて、細く、気をゆるめたら泉の中に落ちてしまいそうなのに、その視線はまっすぐ彼女を向いていて。
彼女に魔法をかけた時に一緒に浮いてしまった花びらがゆっくりと時間をかけて泉の中に沈む。
「ーーこれで二度目の告白だからね」
ラビィは突然の告白に顔が真っ赤になった。
ラビィの足はしずかに地面に着地する。
両足を地面につけ、彼女の片手を頬にあてた、プロキオンはまだ彼女と同じ時間をゆっくりと過ごす。
「ぼくはこれから騎士団に加勢して火竜を倒しに行く。今回の討伐対象の竜は強いから、もうここには戻れないかもしれない。こうやって、君の手を握ることも」
「ーーごめんね」
泉の中にぽつりぽつりと水滴が落ちた。
その雨はしだいに強くなり、どしゃぶりの雨に変わる。
そのあと、プロキオンの魔法で二人はお屋敷に戻った。プロキオンはお屋敷に着くまで、ラビィの手を固く握り離さなかった。
お屋敷のエントランスにはシリウスとリゲルが立っていた。
「シリウスさまはラビィさまのことをお探しだったようで」
メイドがタオルを持ってきてラビィの体を拭う。
「プロキオンが一緒だから、心配ないと言いましたのに」
絵画のすぐそばの壁にもたれ掛かったリゲルは呟いた。
シリウスは眉間にシワを寄せながら、プロキオンに詰め寄る。彼は目をそらして逃げようとした。
「ーーラビィにどこまで話した?」
「ーー婚約者のことだけ!」
見る見るシリウスの表情が強張る。メイドは驚いた表情をし、リゲルは長いため息をついた。
「じゃあ、ぼくは火竜の討伐があるから! 騎士団に戻るから!」
「待て! プロキオン!」
シリウスは手を伸ばして魔法の中に消えるプロキオンの腕を止めようとしたが逃げられてしまった。
重くきまずい雰囲気になる。
気をきかせたメイドがラビィを浴室へと案内した。
ーーシリウスさん。
二人の目線があう。
ーーわたしとあなたが婚約者というのは本当ですかーー?
メイドはドアノブに手をかけて、ラビィを廊下へと誘導しようとした。ラビィはその隙間からシリウスを目で見つめていた。
「ラビィ」
シリウスは自分よりもだいぶ小さなラビィの体を軽々と持ち上げた。
「シリウスさま、お召し物がーー」
ラビィの体はふわりと浮き、上から背の高いシリウスを見下ろした。
ーーシリウスさま。きれいなお顔。すてきな色のひとみ。
気がつけばシリウスはラビィをお姫様だっこしていた。
「浴室まで僕が運ぼう」
「わ、わかりました」
メイドたちはシリウスのあとを追って慌てて歩いて行く。
☆
☆
〈☆お屋敷。シリウスの部屋。〉
テーブルの花瓶には真っ白な薔薇とかすみ草がそえられている。
ラビィとシリウスはテーブルの二人掛けのソファに座り、メイドが入れた紅茶を静かにのんでいた。
ラビィは湯で体をあたためたあと、あたたかなパジャマを着ている。
天井から吊るされたランプのオレンジ色の光が二人を照らしていた。
「ーーたしかに僕とラビィは婚約していた」
シリウスは組んだ両手を握り、静かに呟いた。
「星の魔法使いである僕と聖女の君が婚約することによって、君を聖女の役割から降ろそうとした」
紅茶のカップが揺れる。
ーーなぜ?
「気にすることはない。もともと聖女一人の力に頼って保てる魔法の世界なんて終わりに近いんだ。だから、僕は新世界を提案した。そのせいで、今も僕を恨んでいる人間も大勢いる。僕たちはここでそれらから君を守っている。それを君にも知ってもらわないといけない」
ーーわたしの記憶が奪われたのもそれが原因?
「君を襲った奴らは国王騎士団の中にいた。君に手を出されたのは僕の誤算だ」
カップにシリウスの影がうつる。表情は見えない。
「ーーお願い。もう僕から離れないで」
ラビィは息をのむ。
「誰の言葉も信じてついていかないで」
彼女の心臓の鼓動が速くなる。
彼の震えた声に、彼女は自分の唇を噛んだ。
ーーごめんなさい。
白い薔薇とかすみ草の花の影から、眉を下げ反省している彼女が見えた。
「ーー他には?」
ーーんん???
シリウスの声色が変わる。
「ーープロキオンは他に何か言ってたか?」
だんだんと高圧的な声に変わる。
ーーええええ!?!? 何か怒っているんですけど!?!?
遠くで岩から流れる滝の音と泉から水が湧き出る音が聞こえる。
『ぼくは君が好きだ』
ウルフカットの灰色の髪。オパールの大きな宝石。ラビィは泉の前でプロキオンに告白を受けたことを思い出した。
『ーーこれで二度目の告白だからね』
まっすぐな瞳で見つめられて、目が離せなくなって。ラビィの顔は一気に耳まで赤くなる。
「ーー気が変わった」
ーーえ?
「ーー火竜の討伐には加勢しないと決めていたが、僕も今から向かうことにする」
ーーはい??
顔を上げたシリウスは怒った表情をしていた。
ラビィはなんのことかさっぱりわかっていない。
「ーー早いとこ、あいつも討伐しないと」
そう言って、シリウスは戦闘服に着替えた。