第043話 - 旅の華、命の華。
―あ~ぁ、本当に旅に出ちゃったなぁ…
「旅の主人公」は、今の家族のいる京都を離れてそうそう、こう思い放った。
記憶は無くなっても、「場所」というものはその者の「印象」として脳に残される。
でも、瞼を閉じても印象しか残らず、記憶が蘇ることはない。
試験前に教科書を少しだけ見て、「分かるのだけど分からない」と言う学生のその言葉の意味に似ている。
博多に行ったとき、サヤはほんの少しだけであったが、「懐かしさを感じる」言葉を発して自らが混乱していた。
でも、今日この日々まで未だにそれがどんな真実だったか、それは彼女にとっても分からない事である。
彼女は、あの後西日本の各地へ出向いては「本当の自分」を捜し歩いた。
記憶のほんのひとかけらでも分かれば、直ぐに帰ろうと彼女は考えていた。
名古屋、美濃、富山、輪島、山口、出雲、岡山…
本州を離れて、高松、高知、新居浜、松山…
結局、どこへ行っても自分の記憶はつかみきれなかった。
結局、なんの''手がかり''となるものの一欠けらも見いだせることなく…
ただただ時間だけを費やし、気が付けば2年半も京都へ戻っていなかった。
―壁から、おおよそ43km。
夕刻 長野県、松本市。
かつて長野の中核都市として大いに栄えていた、ここ松本市。
人口25万人を誇っていたこの街もまた東西紛争で大打撃を受け、大きな被害が及んだ市街お一つである。
紛争により失われた人名は15万人以上とも言われ、紛争では東西双方の内でも一番被害が大きかったとされる街だ。
現在の人口は約2万人。
彼女が旅の真っ最中だった1年前に市内を流れる梓川が氾濫し、松本駅より西側は水浸しのままとなって、自然を取り戻しつつあった。
そんな街のはずれの山を少し登った麓にある小さな、本当に小さな旅館。
長い髪を結んだ彼女は、ロビーの窓の外に佇む市街をぼんやりと眺めている。
「お客サン、どうかされましたか?」
女将さんがそんな彼女に一言話しかけた。
「…あ、いえ。ついついぼボーっとしちゃって。ここの景色見ると、ちょっと気分が高まるんです…」
「そうでしたか…」
女将は壁にかかる大きな古時計を見ると、彼女にこう告げた。
「―もうまもなく、おもしろいものが見れますよ。」
時刻は午後6時半手前を指していた。
夏も終わりつつあるこの街に、ヒグラシの鳴き声がこだまする。
日没も終わりという頃になると、町はすっかり暗闇に包まれようとしていた。
カチャ…
6時30分。
遠くからサイレンの音がする。
―眼下に広がり始めたのは、一面の光の海だった。一瞬だった。
「…ここは人が出てったり、亡くなったりしても、昔の電灯とかはそのまま残ってまして。」
「―私たちが管理してる''華''でも、今はほとんど見る人いなくって。」
森の中の公園の街灯も、水没してしまった西松本の家々も、会社のビルも…
実用ではなく…ただ、本当にただ、光る為だけに光っている。
かつての25万人の営みの光と、その中で亡くなった15万人の尊い命が一粒の光となって現れて見せた。
見入った。
この長旅の道中の中で、これほど彼女が釘付けになったことは無かっただろう。
知らない間に、彼女の頬には一滴の涙が垂れ落ちていた。
小さな旅館の女将は、それに気が付くと彼女の頭をそっと撫でて、奥の方へと消えていった。




