21 哀しみの中に
シアーズは甲板につながる階段近くまで、ローランド卿をおびき寄せた。そして突然身を翻し、とっさのことに振り向いたローランド卿を階段の下へ蹴飛ばした。ローランド卿は足を踏み外し、なす術もなく背中から落ちた。勢いで軍帽が飛び、甲板へふわりと落ちた。
シアーズは容赦なく階段の一番上の段から飛び降りた。そして仰向けになっているローランド卿の首筋に剣先を当てた。ローランド卿は横目で自分の剣を探した。しかし、とても手の届く位置に無かった。額から流れた血が目に入ったのが分かった。
二人は無言で、大きく口を開けたまま荒い息をして睨み合っていた。双方の部下も、戦うのをやめて見入っている。
「殺せ!卑怯者!」
ローランド卿が苦々しげに声を絞り出して叫ぶ。目に憎しみを湛えていた。シアーズは少し間をおいて応えた。
「馬鹿野郎、俺はたしかにお前を殺したいが、こんなところでじゃない!もっとちゃんと、海の上でお前を殺す!お前が以前にやったようにな!」
そう言ってシアーズは剣を振り上げ、両手で持ち、ローランド卿の左腕めがけて振り下ろした。わざと利き手でない方を狙った。ローランド卿が目を見開き、押し殺した悲鳴を上げた。身体が大きく痙攣する。
甲板に、真っ赤な色が派手に飛び散る。周りにいた兵たちは、息を飲んでそれを見た。
シアーズはそれを見て、ゆっくりと立ち上がった。こいつも、血は赤かったのか。
そして彼は階段を一気に駆け上がり、舵輪を握って冷たく海軍へ言った。
「去れ。俺の船だ」
ローランド卿は部下に支えられ、左腕をかばいながら立ちあがって言った。傷口を押さえている象牙色をした右手は、紅く汚れていた。雫が滴る。部下が軍帽を渡した。
「いいだろう……」
後ろで部下の戸惑いが感じられた。ローランド卿は視線でそれを制して続けた。
「但し、お前は必ずこの手で仕留める」
そして、間を置いて続けた。
「俺が、海だ。どこへ行こうと、必ず……」
シアーズはにやりと笑った。
「ああ、待ってるぜ」
ローランド卿は、少しの沈黙の後に言った。僅かに眉をひそめている。
「なぜそうまでして守る?お前にとっては海の魔物など災厄の種にすぎない」
シアーズはきょとんとした顔をして、優しく微笑んだ。
「敵対するには理由があるが……守りたいのには理由なんていらないだろ?」
シアーズは、自分の後ろでセイレーンが笑うのが分かった。ローランド卿は、なぜこんな時にメアリーを思い出すのか、自分が分からなかった。ただ、胸が、刺された左腕よりも痛かった。いつの頃からか、この痛みは快楽に変わった。幼い頃はもっと味わいたかったがために、孤独を好んだ時期もあった。痛感する、というのがふさわしいのだろうか。その痛みは、中毒性を持ったように辛い快感だった。
去り際に、ローランド卿は呟いた。
「安心しろ、お前をあの世へ送ってやる時には、その女も付けてやるさ」
そして、夕日を背に立っているシアーズとセイレーンに対して、見ている方が切なくなる程目を細め、眉根を下げて、悲しみとも諦めともとれない表情で、軍帽を取った。
眩しい。光が?空が?それとも--?
太陽はいつも残酷だ。赤みがかった黄金色の光を放ち、そのせいで二つの人影は場違いのように黒く浮かび上がった。空は、どこまでも突き抜けるように広く感じられた。遠い。俺には手が届かない。掴めない、永遠に。太陽は白く見えた。あの光の中に手を突っ込めば、掴めるのだろうか。空よりも底なしの空間に。きっと、永遠に生まれ変わり、この命を差し出そうとも、俺には得られないのだろう。胸が痛くて息が詰まりそうだ。熱い。
一瞬だったが、長かった。何かが胸から全身に、波紋のように広がった。
軍帽を胸の前に持ってきて、目を閉じて二人に向かって一礼した。優雅な礼だ。ローランド卿の部下や、シアーズ達ももちろん驚いたが、シアーズは無言で帽子を取って胸の前に持っていった。しかしローランド卿を真っ直ぐ見つめたまま、礼はしなかった。ローランド卿は何も言わなかった。彼はそのまま背を向けて、部下に支えられて去って行った。
血が、甲板を赤く染めた。
二隻の船は、黄金色に輝く水面を、反対の方向へ滑っていった。
やっと完結です。ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございます。




