第一話 肉が決める
初めてエマの実家へ行った日、僕は午前十一時半に着いた。
昼食に招かれたのだから、十二時より少し早いくらいがちょうどいいと思ったのだ。車の
時計を確認し、助手席の花束が倒れていないことを確かめる。襟の付いたシャツを
選んだのも、前夜のうちに車を洗ったのも、エマの父親に会うのが初めてだったからだ。
エマから届いていたメッセージは短かった。
『パパ、ちょっと怖く見えるけど大丈夫だから』
大丈夫な人について、わざわざそう書く必要があるだろうか。
僕はエンジンを切り、バックミラーで髪を直した。テキサスへ来て三度目の春だった。
マサチューセッツの実家では、この時期に半袖で庭に立っていると母に上着を着せられた。
ここでは日なたに車を止めただけで、ハンドルが温かくなった。
家の横に、黒いピックアップが止まっていた。
僕の車より、何もかも一回り大きい。タイヤも、ドアも、フロントガラスも。その隣を
通ると、自分のシャツの襟が急に頼りなく感じられた。
庭から煙が上がっていた。
白髪交じりの口ひげを蓄えた男が、大きな黒い筒の前に立っていた。テンガロンハットに
サングラス、赤いチェックのシャツ。ベルトのバックルは、僕が持ってきた花束の札より
大きかった。
腹の前を覆う黒いエプロンには、白い文字が三段に並んでいた。
KISS THE COOK.
僕は花束を持ち直した。
男はトングを二度鳴らし、僕の車を見た。
「いい車だな」
「ありがとうございます」
「お父さんのか?」
質問の意図を考える前に、僕は正直に答えた。
「高校の時に、父と半分ずつ出しました。こっちへ来る時、持ってきたんです」
男はもう一度車を見た。
「遠かっただろ」
「はい。途中で二泊しました」
男は頷き、僕を見た。
その瞬間、家の裏口が開いた。
「パパ。まず名前を聞いて」
エマが僕の横へ来た。
エマは父親の頬へキスをしてから、僕の腕に触れた。大学で見る彼女と同じ顔なのに、
この庭では少し幼く見えた。
「ベン。前から話してたでしょ」
「覚えてる」
男は右手を差し出した。
「フランクだ」
「ベンジャミン・ミラーです。お招きいただいて、ありがとうございます」
大きくて、温かい手だった。
握手が終わるまで、僕は持ってきた花束を誰に渡すべきか決められなかった。
*
花はエマの母親が受け取った。
「まあ、ありがとう。マーガレットよ。ベンでいいの?」
僕が頷くと、マーガレットは台所へ花瓶を取りに行った。
ふくよかな人だった。花柄のブラウスに明るい色のエプロン。フランクと違って、僕が
何を答えても採点されている感じがしなかった。
台所にはパイが置いてあった。
格子状の生地の隙間から、濃い赤色が見えていた。
「チェリーですか?」
「そう。好き?」
「はい。母も焼きます」
「そう。じゃあ、あとで感想を聞かせてね」
僕はそこで初めて、少し肩の力を抜いた。
エマが庭のテーブルへ皿を運び始めたので、僕も手伝った。家の中を横切る時、暖炉の上
に掛かったショットガンが目に入った。
暖炉脇の棚には、鴨の剥製が一羽いた。銃床の木には小さな傷がいくつもあった。銃身に
は、拭いたばかりみたいな艶があった。
僕が一瞬足を緩めたのに、エマは気付いた。
「飾りよ」
「何も言ってないよ」
「顔が言ってた」
エマは笑った。
庭へ出ると、フランクが黒い筒の蓋を開けたところだった。肉があった。僕が考えていた
昼食の量を、ずいぶん超えていた。
「大きいですね」
「ブリスケットだ」
その単語は知っていた。食べたことはあったが、こんな形で見るのは初めてだった。
フランクは肉の表面を見て、温度計を見て、それから蓋を閉じた。
「あと六時間だな」
僕は皿を持ったまま止まった。
「六時間?」
「早ければな」
僕は自分の時計を見た。
フランクは、蓋の閉まったスモーカーを指した。
「肉が決める。俺たちじゃない」
テーブルの上には、まだ何もなかった。
僕はエマを見た。
エマは僕の手から皿を受け取り、フランクの後ろで口だけ動かした。
「言ったでしょ」
大丈夫だとは聞いた。
昼食が夕食になるとは、聞いていなかった。
*
フランクは古いクーラーボックスの蓋を開けた。
角の塗装が剥がれ、取っ手の付け根に補修の跡があった。中には氷と、茶色い瓶が何本も
入っていた。
「飲むか?」
僕はエマを見た。
彼女は車の鍵を軽く振った。
「帰り、私が運転するから」
フランクはそれを聞いてから、一本を僕へ渡した。
僕たちは木の椅子へ座った。日陰には風があり、冷えた瓶を持っていると、さっきまでの
緊張が少し薄れた。
「大学は、あとどのくらいだ」
「卒業まで一年少しです」
「仕事は決めてるのか」
「まだです。こっちで働くことも考えてます」
フランクは頷いた。
その顔から、良い答えだったのか悪い答えだったのかは分からなかった。
僕は会話を続けようとした。
「フランクさんは、よくBBQされるんですね」
「時間があればな。君の家でもやるのか」
「ええ。夏になると。ハンバーガーとか、ホットドッグとか」
フランクは瓶を置いた。
サングラスを外した。
「それはグリルだ」
僕は頷いた。
「ああ。呼び方が違うんですね」
フランクは、僕を見た。
それから立ち上がり、積んであった薪を一本持ってきた。
「呼び方だけじゃない」
裏口から出てきたエマは、フランクの手にある薪と、僕の顔を交互に見た。
「始まった?」
僕には、何が始まったのかまだ分からなかった。
*
木は、どれも同じように燃えるわけではなかった。
少なくとも、その日のフランクの説明によると、そうだった。
乾いていれば何でもよい、というわけでもなかった。太さも、置き方も、火室の扉を
開ける時間も、それぞれ理由があった。
僕は最初、失礼にならない程度に聞いているつもりだった。
けれどフランクは、僕が分からない顔をすると言葉を変えた。薪を持たせ、切り口を見せ、
煙突から出る煙を指した。
「この色だ」
僕は空を見上げた。
「あまり見えませんね」
「それでいい」
フランクは少し笑った。
僕の父も、何かを直す時にはよくそういう顔をした。
車のオイル交換を教わった日を思い出した。面倒な説明だと思っていたのに、初めて
一人でできた時、すぐ父へ電話した。
そのことを話すと、フランクは頷いた。
「道具は、持ってるだけじゃ分からんからな」
僕はもう一度、手の中の薪を見た。
エマが飲み物を持ってきた。
「退屈してない?」
僕は首を振った。
「面白いよ」
本当にそうだった。
エマはフランクを見て、笑った。
「よかったね、パパ」
フランクは返事をせず、温度計を見た。
その時の僕には、彼女も嬉しそうに見えた。
*
午後三時頃、マーガレットがサンドイッチを出してくれた。
僕が礼を言うと、マーガレットは庭の男二人を順番に見た。
「この家に初めて来た人を、お腹を空かせたまま夕方まで
座らせるわけにはいかないでしょう」
フランクは自分の分へ手を伸ばした。
「俺は平気だ」
「食べてるじゃない」
エマは僕の隣へ座り、サンドイッチを半分に切った。
「来週、大学の近くで映画やってるの。前に話してたやつ」
「観たい」
「土曜の午後、空いてる?」
僕が頷くと、彼女はスマートフォンへ何かを入力した。
フランクが立ち上がった。
肉を包むらしかった。
僕はつい、その手元を見た。
エマは僕の視線を追った。
「見てきたら?」
「いい?」
「うん」
僕は席を立った。
彼女は、そのままサンドイッチを食べていた。
*
肉がテーブルへ出た時には、庭の明かりが点いていた。
フランクはよく研いだ包丁で肉を切った。表面の黒い部分と、その内側の色がきれいに
分かれていた。
僕は思わず、体を前へ寄せた。
フランクが一切れを僕の皿へ置いた。
「まず、そのまま食ってみろ」
テーブルの端に、ずいぶん大きなケチャップの瓶があった。
僕はそちらへ伸ばしかけた手を戻し、フォークを取った。
香ばしい匂いがした。
口へ入れると、表面の歯触りのあとに、肉がほどけた。
僕はすぐには喋れなかった。
フランクは黙ってこちらを見ていた。
飲み込んでから、僕は言った。
「こんな柔らかい肉、食べたことないです」
フランクは何も言わなかった。
次に切った一切れが、少し厚くなった。
エマがマーガレットを見た。
マーガレットは笑っていた。
「パパ、嬉しそう」
「腹が減ってそうだからな」
フランクの耳は赤かった。
それがビールのせいだけではない気がした。
肉をもう一切れ勧められた時、僕は断らなかった。
その次も、断らなかった。
四度目で、ようやく両手を上げた。
「もう、お腹いっぱいです」
フランクは頷いた。
「そうか。じゃあパイだ」
エマが僕の顔を見て、声を出して笑った。
*
パイにはアイスが付いた。
マーガレットが「少し?」と訊いたので、僕は「少し」と答えた。
皿が戻ってきた時、その言葉がこの家では違う意味を持つことが分かった。
「おいしそうですね」
「食べきれなかったら、残していいのよ」
マーガレットはフランクを見ながら言った。
僕は一口食べた。
酸味があって、甘くて、生地の端は香ばしかった。
「これも手作りですか?」
マーガレットが答えるより先に、フランクが口を開いた。
「生地が大事なんだ」
エマが僕を見た。
「また質問した」
フランクは椅子を少し引き寄せた。
僕はフォークを置き、続きを聞いた。
後で知ったことだが、パイを作る時にフランクが担当するのは、冷蔵庫からバターを
出すところまでだった。
それでもマーガレットは、その夜は何も言わなかった。
*
遅くなったので、泊まることになった。
エマがマーガレットと顔を見合わせ、「私の部屋でもいいのに」と言った時、フランクは
ちらりと暖炉の上に目をやった。それから僕を見た。
「きゃ、客間があるなら、そちらで大丈夫です」
マーガレットが頷いた。
「タオルを用意するわね」
エマは笑いながら僕の腕を叩いた。
部屋へ入ると、窓から庭が見えた。フランクは一人で後片付けをしていた。
僕はシャツの袖をまくり、もう一度外へ出た。
「何か手伝えますか?」
フランクは僕を見た。
「疲れただろ」
「座って話を聞いてただけですから」
少し間があった。
それから、フランクは布巾を一枚差し出した。
僕たちは作業台を拭き、道具を洗い、冷めるのを待ってから火のまわりを片付けた。
昼間より、話は少なかった。
僕は、その静けさも悪くないと思った。
家へ入ろうとした時、フランクが言った。
「来週はリブだ」
僕は足を止めた。
「また来ても?」
「薪を運ぶ手があると助かる」
僕は頷いた。
翌朝、エマを抱きしめてから、フランクと次の土曜の時間を確認した。
「朝六時だ」
「分かりました」
エマが僕たちを見た。
「その日の午後、映画の約束だけど」
僕は彼女へ向き直った。
映画の約束を思い出した。
彼女は少し笑っていた。
「間に合うの?」
僕はフランクを見た。
フランクは答えなかった。
今なら分かる。
あの時、答える相手を間違えていた。
*
次の土曜、僕は五時四十分に着いた。
庭の明かりが、まだ暗い道から見えた。
フランクは門を開け、時計を見た。
「早いな」
「遅れないように」
「コーヒーは?」
僕は頷いた。
フランクは家へ入り、二つのカップを持ってきた。
僕たちは薪を運んだ。
初めて来た日には触らせてもらえなかった扉を、今度は僕が開けた。薪を一本入れると、
フランクが少しだけ位置を直した。
「空気を通す」
僕はその言葉を覚えた。
大学では、自分が何をできるのか分からなくなる日が多かった。
周りはインターンの話をし、履歴書の書き方を知っていた。僕は求人の条件を読んでは、
自分に足りないものを数えた。
ここでは、薪を運べば薪が減った。
温度計を見て知らせれば、フランクは頷いた。
「助かる」
その一言で、また何か手伝いたくなった。
昼を回る頃、エマが庭へ来た。
彼女は着替えていた。
普段より少しきちんとした服に、小さな鞄。
「そろそろ出る?」
僕は火室の扉を閉じた。
フランクは時計を見た。
「行ってこい。あとはやる」
そう言ってくれた。
僕が頷きかけた時、煙突の付け根から、煙が細く漏れた。
フランクが眉を寄せた。
「こいつか」
僕もしゃがんだ。
金具が少し緩んでいた。
「工具、どこですか?」
エマが一歩近づいた。
「ベン」
「すぐ終わる」
本当に、そのつもりだった。
でも工具はすぐには見つからなかった。金具は思ったより奥にあった。手を入れるには
少し冷ます必要もあった。
エマは椅子へ座った。
僕はフランクと煙突を見ながら、彼女を一度振り返った。
彼女はスマートフォンを見ていた。
「もう少し」
僕が言うと、彼女は頷いた。
映画の上映時刻は、僕たちが手を洗う前に過ぎた。
フランクは作業台へ工具を戻し、エマを見た。
「悪かったな」
彼女は首を振った。
「パパが引き留めたわけじゃないでしょ」
僕はその意味を、ちゃんと聞かなかった。
「次の回、調べるよ」
エマは鞄を持ち直した。
「もういい。また今度にしよう」
僕は、それで解決したと思った。
*
毎週、通ったわけではなかった。
試験があり、課題があり、僕たち二人だけで過ごす日もあった。
それでもフランクから写真が届くと、僕はよく返事をした。
肉の写真。
新しい温度計の写真。
割った薪の切り口だけが写った、説明のない写真。
何を伝えたいのか分からない時は、僕から訊いた。
返事は短かったが、次に行くと説明が続いた。
エマと大学のカフェにいる時、スマートフォンが震えたことがある。
僕は画面を見て、笑った。
「何?」
「お父さんから。ケチャップの新しい容器を見つけたって」
彼女は僕が見せた写真を見た。
「大きいね」
「給油できそうだよね」
僕は返事を打った。
打ち終わって顔を上げると、エマはストローの紙を細く折っていた。
「さっき、何の話してたっけ?」
僕が訊くと、彼女は少し黙った。
「夏の予定」
「ああ。そうだった」
僕はスマートフォンを伏せた。
彼女はもう一度、同じ話をしてくれた。
僕は聞いた。
けれど、最初の一度ほど熱心に話していなかったことには気付かなかった。
*
別れ話も、大学のカフェだった。
夏に入る少し前で、テラスの席には日陰を作る布が張られていた。
エマは先に座っていた。
いつもなら僕が来ると隣の席の鞄をどける。
その日は、向かいの席が空いていた。
僕はそこへ座った。
「何かあった?」
彼女はカップを見ていた。
「別れたい」
僕は、返事をしなかった。
聞こえなかったのではない。
次に何か続くだろうと思った。
けれど、彼女はそのまま待っていた。
「僕が、何かした?」
言ってから、あまりよくない訊き方だと思った。
彼女は、少しだけ笑った。
「最近、パパと付き合ってるみたい」
僕も笑おうとした。
彼女は笑うのをやめた。
そこで僕も、笑ってはいけないのだと分かった。
「一緒にいても、次に実家へ行く話ばかりするでしょ」
「そんなことは」
言いかけて、止まった。
映画のことを思い出した。
火室の前で待っていた彼女の、鞄。
「お父さんと仲良くなるの、駄目だった?」
彼女は首を振った。
「嬉しかったよ。最初は、すごく」
僕はカップへ手を伸ばした。
何かを持っていないと、落ち着かなかった。
「じゃあ、ちゃんと時間を作る。映画も」
エマは唇を結んだ。
僕は続けようとして、やめた。
彼女の顔を見ていると、ここへ来る前に何度も考えたのだと分かった。
僕が何を言えば戻ってくれるのかではなく、彼女が何を伝えようとしているのかを
考えるべきだった。
そう思えるまで、少し時間がかかった。
「……分かった」
僕が言うと、彼女は頷いた。
しばらくして、僕はとても場違いなことを口にした。
「土曜、お父さんと約束が」
彼女は目を閉じた。
そして、少しだけ笑った。
「それは二人で相談して」
*
金曜の夜、フランクから連絡が来た。
『朝五時。ビールを持ってこい。』
僕は寮のベッドに座って、その文字を見ていた。
何度か返事を打ち、消した。
『エマと別れました。』
『だから、行かない方がいいと思います。』
その二つを続けて書くと、何かが決定してしまう気がした。
僕があの庭へ行っていた理由は、エマだった。
初めは、そうだった。
今はどうなのか、うまく説明できなかった。
あの家のことを考えると、まずエマの顔が浮かんだ。
次に、椅子へ深く座っているフランクと、窓から「何人分食べるつもり?」と呼ぶ
マーガレットが浮かんだ。
全部、同じ場所にあった。
僕はスマートフォンを置いた。
しばらくして取り直し、短く返した。
『分かりました』
*
土曜の朝、僕は門の前にいた。
助手席にはビール。
後ろには薪。
家の明かりは点いていた。
僕は車を止めたが、すぐには降りられなかった。
エマがいたら、何と言えばいいのだろう。
フランクが知らなかったら。
知っていて、僕が来ないと思っていたら。
窓を叩く音がした。
フランクが立っていた。
僕は急いで窓を下ろした。
フランクはサングラスをかけていなかった。
「……お前、娘と別れたんじゃなかったのか」
僕は頷いた。
「はい」
フランクは助手席を見た。
それから後ろを見た。
「でも、今日やるって約束したんで」
口に出すと、ずいぶん子どもっぽい理由に思えた。
約束をしたのだから来る。
それ以外を、考えたくなかっただけかもしれない。
フランクはしばらく僕を見ていた。
やがて車から一歩離れた。
「……薪はあっちだ」
僕はエンジンを切った。
*
庭には、二人分には大きすぎる肉が用意されていた。
僕は何も訊かなかった。
フランクも、何も説明しなかった。
薪を運び、クーラーボックスへ氷を足した。
瓶を沈めている時、フランクが言った。
「お前なら、息子になってくれると思ったんだがな」
僕は瓶を握ったまま止まった。
冷たさが、手の中へ広がった。
「……すみません」
フランクは首を振った。
「謝ることじゃない」
僕は瓶を氷へ沈めた。
フランクは椅子へ座った。
いつもなら、ここから肉の話が始まる。
どこで買ったか。
前の肉と何が違うか。
今日は、始まらなかった。
僕も隣へ座った。
空が少しずつ明るくなっていた。
フランクが訊いた。
「娘の、どこが好きだった」
僕は考えた。
いろいろな場面が浮かんだ。
眠そうに講義へ来る顔も、僕のマフィンを半分取る手も、車の助手席で知らない歌を歌う
声も。
最後に、一番よく覚えている顔が残った。
「笑った顔です」
フランクは頷いた。
今度も、一度だけだった。
*
マーガレットがコーヒーを持ってきた。
僕が立つと、肩へ手を置いて座らせた。
「おはよう、ベン」
前と同じ声だった。
僕は礼を言って、カップを受け取った。
家の中から、ドアの開く音がした。
エマが顔を出した。
髪が少し跳ねていた。
僕を見つけ、足を止めた。
「……本当に来たの?」
僕は思わず笑った。
彼女も、困ったような顔のまま少し笑った。
フランクは立ち上がった。
「肉、焦げるぞ」
僕はスモーカーを見た。
まだ、火もついていなかった。
マーガレットは何も言わず、フランクのカップをテーブルへ置いた。
その日は、いつもより静かに肉を焼いた。
エマは昼前に出かけた。
僕は行き先を訊かなかった。
フランクも、訊かなかった。
夕方、帰り支度をしていると、マーガレットが包みを持たせてくれた。
肉と、パイだった。
「多くてごめんね」
僕は首を振った。
車へ運ぼうとすると、フランクが裏の門を開けた。
僕はその横を通り、足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
フランクは頷いた。
僕は少し迷ってから、続けた。
「次に来る時は、先に連絡します」
フランクは門の取っ手から手を離した。
「次から、玄関を叩かんでいい」
僕は顔を上げた。
フランクは庭を指した。
「裏から入れ」
この物語のきっかけは、娘と付き合う男への心得が並んだ、一枚のTシャツでした。そこからテンガロンハットとピックアップが加わり、気が付けば親父が庭でブリスケットを燻していました。昼食に呼ばれたはずのベンは、なかなか食べられません。代わりに、薪の話をたっぷり聞くことになります。
好きなことを面白がって聞いてくれる相手がいると、つい喋りすぎてしまう。フランクにもベンにも、その嬉しさがあります。二人が仲良くなる様子は、書いていて楽しい場面でした。その横で映画を待っているエマの時間も、同じように進んでいます。
初めての一口を褒められて、次の一切れが厚くなる。そういう不器用な歓迎が、この家らしいと思っています。最後の「裏から入れ」には、まだうまく言葉にできない親父の気持ちを預けました。
肉の焼ける匂いと一緒に、この庭の居心地を少しでも感じてもらえたら嬉しいです。




