第34話 ある魔女の願い
「今日中に、この山を降りてちょうだい」
それはめずらしい下山命令だった。アルシノエの弟子達には守らなければならない決まりごとがいくつかあったが、うちひとつが許可なしにこの山から出てはいけない、というものだった。
先に去っていった者たちは、許可を得たのだろうか。今更思い当たったが、質問する暇はなさそうだ。
「さあ早く。こんなことを急に言って悪いのだけど、ここから去るには今日が一番いいの。支度をしてちょうだい」
「僕がお邪魔でしたか? もっとお役に立てるよう努力します。ですからどうかお側に……」
「いいえトアン。これは命令よ」
アルシノエは掛布をのけ、細い足で立ち上がった。やつれてはいるが、偉大なる魔法使いに相応しい落ち着きと品がある。
「皆の苦しみを解決する方法を、私はとうとう見いだせなかった。情けないことだけど、紛れもない事実よ。それに今となっては、バルタザールもいなくなってしまった。もう、あなたに師匠と呼ばれる資格さえもない」
膝をついたトアンは、アルシノエにすがった。
「そのようなことはありません! 僕にとって、生涯師匠はあなた一人です!」
心からの断言だったのに、魔女は寂しそうに目を閉じる。
アルシノエは弟子の手に自らの手を重ね、繰り返した。
「トアン、お願いだから今日中に下山してね。今までありがとう。あなたのことは、決して忘れないわ」
陽が天空高く世界を照らすなか、トアンは歩いていた。
この山に戻ることはもうないのだ。現実感がなく、足取りもどこかふわふわしている。
立ち止まり、小屋の方を振り返る。見送りなどあるはずもないのに、アルシノエの姿がないかと期待してしまう自分がいる。
「下山するまで足跡のついた道を引きかえしてはいけない。そうでしたね、師匠」
その手に握られているのは蒼蘭光石。アルシノエが作った数々の魔法具のうちのひとつだ。
青や紫など様々な光を反射するそれに、そっと口づけた。
おだやかな風が吹き抜け、己の心に固く誓う。
「僕はあなたの息子を探し続けます。どうせ呪われた身です。どんなことがおこるのかは知りませんが、もし老いることも死ぬことも出来ない身体であるのなら、時間はたっぷりある。希望など一かけらも残されていなくても、僕は必ず成し遂げてみせます」
再び、トアンはゆっくり歩き出した。
頭上でしなる樹木が、これからの運命を教えたそうに揺れる。
暗くした小屋の中で、アルシノエは長い呪文を唱えていた。
目の前には青白く光る魔方陣。そこに置かれているのは、数個の蒼蘭光石だ。
これまで創り上げたものの中でも、これらは最高傑作と言ってよかった。いずれ魔力を継いだ息子に受け渡すつもりだったが、それも夢となり果てた。
いや、偉大な魔女はまだ、諦めてはいなかった。
輝きを放つ蒼蘭光石から、青色の煙が流れ出る。額に大粒の汗が流れるが、彼女は続けた。
「時の女神をここに称えん。愚かしき、死すべき定めの人の子らに、奇跡の片鱗をのぞかせたまえ。御業のひとかけらを賜ることを赦したまえ!」
両手を魔方陣の中心へとかざす。魔力の波がおこり、風が渦巻いた。青の煙は天井へと舞う。風圧に押され体が後ろへ下がるが、アルシノエは歯を食いしばって耐えた。
力と力のぶつかり合いの果てに、石はすべて白色に変わった。
「……よかった」
座り込んだとたん、魔方陣も消失する。彼女は数度咳き込んだ。
押さえた手のひらに、血がついている。
「まだよ。最後の仕上げを、あの子のために」
石の元まで這うようにして進み、今度は別の魔法を発動させる。
「バルタザール、こんな母親でごめんなさい」
再び風が起こり、彼女の髪がなびいた。
「あなたを守ることも、教えることも導くことも。それどころかそばにいてあげることすら、私はもうできない」
部屋の隅で見ていた摩李沙は、思わず「え」と声をあげた。
(それって、つまり)
アルシノエがその人生を終えるまで、息子とはついに再会できない――彼女はそれを、現段階で知っているというのだろうか。
「だからせめて、あなたがこの石のひとつでも見つけることが出来るように、祈っているわ。他の人では扱えないはずよ。私の血をひいたあなただからこそ、この石を媒介に時間魔法を操れる。それが皆にとって幸となるか不幸となるか、すべてはあなた次第だけど」
魔方陣から、いくつもの光の柱が立ち上がった。石が宙へと浮かぶ。
そしてそれぞれが渦を巻いて上昇し、忽然と消えた。
光の柱の喪失と共に、部屋に静寂が広がる。
母は、涙を流していた。
「どうか石を見つけてちょうだい。そしてあなたの魔力を利用しようとする、ありとあらゆるものに気をつけて。特に私の弟子の誰かが、あなたを害するかもしれないわ」
摩李沙は震えた。まるで予言だ。
稀代の到達者アルシノエはどんな混乱が起こるか、この時点で分かっていたのだろうか。
ならばなぜ、バルタザールを失うことを阻止できなかったのだろう。彼女の魔力も所詮は不完全、ということなのか。
アルシノエはゆっくりと振り向いた。摩李沙の立つ方へと。
「え?」
目が合った。どうしてか、直感的にそう思った。
その唇が動く――どうか、あの子をお願いね。




