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境界線の向こう側

外気は、想像よりも粗かった。


都市内部の空気は、均質で、軽く、どこか無機質だ。それに慣れた肺にとって、外縁区の空気はわずかに重く、わずかに湿っていて、そして――不確かだった。


私は走るのをやめ、ゆっくりと呼吸を整えた。


遠くで警報が鳴っている。だが音は壁や構造物に吸われて、ここまで明確には届かない。都市の外縁は、内側ほど整然としていない。通路は広く、無駄な空間が多く、監視の密度も落ちる。


逃げるには、都合がいい。


だが同時に、ここは“設計の外側”だ。


私は足を止め、振り返った。背後には閉じた通路と、白い構造体が続いている。そこが私のいた世界だ。安全で、合理的で、連続性が保証されている場所。


そして今、私はそこから切り離されている。


それだけで、胸の奥に奇妙な浮遊感があった。


――私は、いま何回目の私なんだろう。


ふと、そんな思考が浮かぶ。


答えはない。だが、もしかすると重要なのは回数ではないのかもしれない。重要なのは、“いまの私が何を選ぶか”だ。


私は前を向いた。


通路の先には、低い金属扉がある。都市外縁区画からさらに外へ出るための最終ゲート。通常、一般職員が通過することはない。だが、先ほどの座標は、その外側を指していた。


私は扉に近づく。


認証パネルは無機質な黒だった。指をかざす。


《認証不可》


予想通りだ。


だが次の瞬間、パネルの表示がわずかに揺れた。


《暫定権限を検出しました》


心臓が跳ねる。


暫定権限。そんなもの、私が持っているはずがない。


《外部系列からの上書き認証を確認》


私は一瞬、息を止めた。


外部系列。


あの“声”。


つまり――。


「……君が?」


答えはない。


だがパネルは続けた。


《通過を許可します》


扉がゆっくりと開く。


冷たい風が、真正面から吹きつけてきた。


その向こうに、世界があった。


灰色の空が、途切れずに広がっている。都市の内部では、空は必ず建築物によって区切られていた。だがここには境界がない。風は自由に流れ、光は拡散し、遠くの地平線がかすかに歪んで見える。


そして――。


海。


視界の先に、広がっていた。


私は立ち尽くした。


波が動いている。絶えず形を変えながら、同じ場所にあり続けている。寄せて、返して、砕けて、また戻る。一定でありながら、決して同じではない。


その光景に、言葉が追いつかなかった。


そして同時に、強烈な既視感があった。


――私はこれを知っている。


知らないはずなのに。


胸の奥が、ゆっくりと締め付けられる。


「遅かったね」


背後から声がした。


私は振り向いた。


そこに立っていたのは――私だった。


右の眉の上の、ごく薄い傷の跡まで同じだった。寒いときに左肩をわずかに引く癖も、焦点の置き方も。違っていたのは目だけだ。私の目がまだ世界に追いつこうとしているのに対し、その目は、もう何度も追いつくことを諦めたあとの静けさを持っていた。


「……誰」


喉が乾く。声は自分のものとは思えないほど頼りなかった。


その人物は波打ち際へ視線を投げたまま、小さく笑った。


「毎回そこからだ。私が誰か、ここがどこか、何がどこまで消されたのか」


その声音は、自分の録音を半拍ずらして再生したみたいに、聞き慣れていて不気味だった。


「言ったでしょ。消す前の君だよ」


理解は追いつかない。だが否定する材料もなかった。目の前の存在は、顔だけではなく、私がまだ言葉にできていない疲労の置き方まで知っているように見えた。


「……どういうこと」


彼――いや、“私”は海の方へ視線を向けた。


「更新されるたびに、君はここへ来る」


私は何も言えなかった。


「まず怯える。次に、自分の記録を確かめる。それから、自分が一つでないことを知る」


海風の冷たさより先に、その言葉が皮膚の内側へ入ってくる。


「記憶は毎回きれいに消えるわけじゃない。痛みの強いもの、制度にとって都合の悪いものだけが薄くされる。匿名化区間に押し込められて、次の君には触れにくくなる」


「……そんなはずない」


「あるよ」


彼は私と同じ調子で言った。ただ、そこにはもう迷いがなかった。


私は息を呑んだ。


あの十一分。


あれが――。


「連続性は事実じゃない。都市が人を扱うための形式だ。君も、私も、その形式に毎回戻される」


私は海を見た。


波が砕けて、消える。


だが完全に消えるわけではない。次の波が来る。


同じようで、同じではない。


「じゃあ……私は」


「いま立っている、その都度の私だよ」


胸の奥が、空洞になる。


だが同時に、どこかで納得している自分もいた。


朝の涙。


思い出せない夢。


違和感。


全部が、一本の線で繋がる。


「でも」


私は言った。


「それでも私は、“私”だって思ってる」


「思うことで保ってる」


“私”は、少しだけ笑った。


優しくも、残酷な笑いだった。


「でも、それは悪いことじゃない」


「……え?」


「そうしないと、愛も責任も、明日の約束も持てないから」


彼は海に向かって歩き出す。


波が足元まで来る。


私はその背中を見つめた。理解できるようで、できない。だが、ここに来る前の私には絶対にたどり着けなかった場所まで、いま自分が来てしまっていることだけはわかった。


「じゃあ……どうすればいいの」


問いは、自然と出た。


“私”は振り返る。


「選ぶんだよ」


「何を」


ほんの一瞬、沈黙。


風と波の音だけが響く。


「連続性に従うか」


彼の目が、まっすぐこちらを見た。


「それとも、壊すか」


その言葉は、静かだった。


だが、逃げ場はなかった。


遠くで、追跡ドローンの音が聞こえ始める。


時間がない。


更新まで、あと四十時間。


私は海を見た。


同じであり続けるために、同じではないものを受け入れる世界。


その中で、私は何を選ぶのか。


答えはまだない。


だが、選ばなければならない。


それだけは、確かだった。



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