逃走
監査官が来るまで、あとどれくらいあるのだろう。
通知の時刻から逆算すれば、早くて十分、遅くても三十分。閲覧室の外には常に監視がある。だがこの空間自体は、皮肉にも“思考の自由”を前提に設計されている。音は漏れず、外からの直接介入も最小限に制限される。だからこそ私は、ここで自分の系列に触れることができた。
そして同時に、ここは“逃げ場”にもなり得る。
私はゆっくりと立ち上がった。足の裏に感じる床の硬さが、やけに現実的だった。逃げるという選択肢を、これまでの人生で一度も真剣に考えたことはなかった。逃げる必要がなかったからだ。この都市では、逃げる理由そのものが設計上、ほとんど発生しない。
だが、いまは違う。
私は端末にもう一度向き直った。未参照記憶片、匿名化区間、そして先ほどの“外部系列”。すべてが異常で、すべてが繋がっているように思えた。
――あと四十七時間。
あの声が言っていた。
更新までの残り時間。
更新。
その言葉が何を意味するのか、私はまだ知らない。だが直感的に理解していた。それは単なる生体リズムの再調整ではない。もっと根本的な何か――“私という存在の継続”に関わる処理だ。
もし、その更新のたびに“私”が別のものへと置き換わっているのだとしたら。
もし、いまここにいる私が、その更新の直前にある“束の間の個体”にすぎないのだとしたら。
私は、ここで何を選ぶべきなのだろう。
逃げるか。
待つか。
あるいは――。
視界の端で、監督AIの光球が一瞬だけ強く明滅した。通常よりも明らかに強い。監査の準備が始まっている。時間はない。
私は端末を閉じた。
規定違反だとわかっていながら、ログの自動同期を手動で一時停止する。通常なら警告が出るはずだが、いまは静かだった。あるいは、すでに何らかの例外処理の中にいるのかもしれない。
閲覧室の出口に向かう。扉は認証で開く。だが、その認証履歴は当然記録される。監査官が来れば、私がここを出たことも、どの経路を通ったかも、すべて追跡されるだろう。
それでも、出るしかない。
扉の前で、私は一瞬だけ目を閉じた。
昨日の私なら、ここで立ち止まっていた。規定に従い、監査を受け、異常は処理され、また同じ日常に戻る。そうするのが合理的で、安全で、正しい。
だが、その“正しさ”が、何かを消しているとしたら。
私は目を開いた。
指を認証パネルに押し当てる。
扉が開いた。
外の廊下は、いつもと同じ無機質な白だった。だがその白さの奥に、見えない視線が無数にあるような気がした。私は歩き出す。速すぎず、遅すぎず、あくまで“通常の職員の速度”で。
曲がり角を一つ、二つ。途中ですれ違った職員は、誰も私を気に留めない。あるいは、気に留める必要がない。すべての個体は、適切に管理されているという前提があるからだ。
だからこそ、そこにわずかな逸脱が混ざると、それは目立つ。
私は意識的に呼吸を整えた。心拍が上がりすぎないように。視線が泳がないように。自分が“異常な個体”として検出されないように。
エレベーターホールに出る。
上層行き、下層行き、外部接続用。私は一瞬迷い、外部接続用のパネルに手をかけた。通常業務ではほとんど使わない。だが都市外縁区画へ出るには、ここを通るしかない。
指をかざす。
《利用目的を入力してください》
一瞬だけ躊躇したあと、私は打ち込んだ。
《外部資料参照》
嘘ではない。
端末は数秒沈黙し、やがて扉が開いた。
内部は静かだった。金属の壁に自分の姿が映る。青白い顔。見慣れたはずの自分が、少しだけ他人のように見えた。
――君は何回目の“君”なの?
あの声が、また蘇る。
私は、いまここにいる私が何回目なのか知らない。だが、もしこれが何度目かの“試行”なのだとしたら、前の私は何を見て、何を選んで、そしてなぜ消えたのだろう。
エレベーターが動き出す。
下降。
階層表示が数字を減らしていく。心臓の鼓動がそれに合わせるように早まる。
途中で一度、停止した。
扉が開く。
そこに立っていたのは、黒い制服の監査官だった。
目が合う。
ほんの一瞬のことだったが、その時間は引き伸ばされたように感じられた。監査官の目は感情を持たない。いや、正確には“感情を表に出さないように訓練されている”。だがその奥に、確実に“認識”があった。
私を見ている。
私を識別している。
N-20731。
逸脱個体。
そのラベルが、空気の中に浮かんでいるような気がした。
「中央アーカイブ局、第二照合課所属、識別個体N-20731」
低い声で、監査官が言う。
「はい」
私は応じた。声は驚くほど安定していた。
「心的安定監査のため、同行を――」
言い終わる前に、私はボタンを押していた。
緊急閉扉。
エレベーターの扉が即座に閉じる。規定上、緊急操作は優先される。監査官の手がわずかに伸びるのが見えたが、間に合わなかった。
扉が閉じる。
密閉された空間に、私一人だけが残る。
次の瞬間、警告音が鳴り響いた。
《不正操作を検出しました
現在位置のロックダウンを開始します》
遅い。
私は次の階層ボタンを連打した。外部接続層。数字が点滅し、エレベーターが再び動き出す。だが速度が落ちている。制御が介入しているのがわかる。
間に合うか。
四十七時間。
座標。
海。
頭の中で断片が高速で繋がる。
このまま捕まれば、私はまた“整合される”。異常は修正され、記憶は再編成され、連続性は維持される。私は再び、何も疑わない私になる。
海の匂いはただの誤作動として洗われ、昼休みにミナセと交わした問いは疲労由来の逸脱として丸められ、いま胸の奥で脈打っているこの恐怖だけが、心的安定の名で平らに均されるのだろう。
そしてそのとき、“いまの私”は消える。
それだけは、はっきりと理解できた。
私は歯を食いしばった。
「……私は、私だ」
声に出してみる。
だがその言葉は、どこか空虚だった。
本当にそうか?
私は本当に“同じ私”なのか?
答えはまだない。
それでも――。
それでも私は、この疑問を手放したくなかった。
エレベーターが大きく揺れ、停止した。
表示は、外部接続層。
扉が開く。
外気が流れ込んできた。
初めて吸う、都市の外縁の空気。わずかに塩の匂いが混じっている気がした。
私は一歩を踏み出す。
背後で、警報音がさらに大きくなる。
遠くで、誰かの足音。
追跡が始まる。
それでも、私は振り返らなかった。
前方に広がる通路の先に、薄く開けた空が見える。
灰色の空。
その向こうに、きっと海がある。
私は走り出した。




