野良猫とスピーカー
放課後、佳織が能楽部の部室へ行くと、既に城之内と由梨が顔を揃えていた。二人の前には、コードが繋がった、小さめの丸い物体が置かれている。
「かおりん先輩、朗報なのですぅ」
由梨が、両腕でガッツポーズを作る。よく見れば、両手の甲から手首にかけて、細かい切り傷が多くできている上に、まだ新しいはずの制服が、全体的に草や葉、土で汚れている。
「どうしたの、由梨ちゃん」
「スピーカーが見つかったのですぅ。ネコさんのおかげなのです」
由梨の言葉に、佳織は頭の中にはてなマークを量産した。言いたいことがわからない。
「ええっと……ゆりりんさんが昼休みに、校庭で野良猫を見つけたそうです。それで、お弁当を分けたところ、すり寄って来たので撫でていたら、突然走り出した。そうですよね」
城之内が説明しながら、確認するかのように由梨を見る。由梨は、笑顔で頷いた。
「思わずゆりりんさんが追いかけたところ、花鏡庵の裏道から、塀の中に入ってしまった。そこで花鏡庵の正面から裏庭に入ったところ、このスピーカーにじゃれついている野良猫を見つけたそうです」
「その通りなのですっ」
「それで、何とかその野良猫から、スピーカーを譲ってもらった、と」
「ネコさん、お気に入りだったみたいで、なかなか手放してくれなかったのです。後で、お返ししないといけないのです」
結局、全てを城之内が説明し、当事者である由梨は、ほとんど笑顔で座っているだけであった。結局説明したのは、このスピーカーを野良猫に返すということだけである。
「それで、これがどうしたのよ」
「だからですね、おそらくここから聞こえていたんですよ、謡が」
「え、でもこれ、スピーカーだけよね。本体は?」
スピーカーであることは見ればわかるが、何らかの音を発生する機会がなければ、意味がないのではないかと、佳織は訝しむ。
「これは、ワイヤレススピーカーです。庭において置けば、隣の家くらいからでも、音を流すことができるんです。もっとも、障害物があったり、離れ過ぎると使えませんが……」
城之内の説明に、佳織はようやく朗報の内容を理解した。
「つまり、誰かが花鏡庵の近くに潜んでいて、謡を流すことができるのね」
「そうです。本当にこのスピーカーなのかどうか、確かめてみます。ところで、箏曲部はどうでしたか、榛木先輩」
佳織は、朝の貴子との会話やその様子を、出来る限り思い出した。
「教頭先生、と仰ったのですね。松波先輩は」
城之内は強い口調で確認する。あまり言われると、逆に自信が揺らいでしまいそうだが、確かに「教頭先生」だったと思い返す。
「なるほど、これでわかりました。ありがとうございました」
城之内は、パソコンのディスプレイに一枚の写真を表示させた。それは暗闇の中、暗視カメラで撮影されたもののようであった。肩を露出している女性が、スーツらしき服装の男性から、何かを手渡されているようであった。
「何、この写真」
「この女性が、根岸優美です。そしてこれは、新川さん曰く『際どい店』の裏口です。四月の撮影ですから、まだ働いていたんですね」
城之内の指が、肩を露出した女性を指し示す。仮にも高校の部活動に携わるコーチが、コーチ就任前ならまだしも、同時にこんな副業をして許されるのだろうか。
「こっちは人は誰なのですか」
由梨は、もう一人の男性を指さした。
「おそらく、教頭先生のご子息です。仕事は確か……何もしていませんね」
「教頭先生の?」
「顔がはっきりとは写っていませんので、裏付け調査が必要ですが……背格好からして、それほど年配の男性には見えないんですよね。校長先生とは体格が異なりますし、教頭先生にしては、背が高い。実は、根岸さんには、峰雀在学中にある噂があったんです。当時英語教諭であった、楠木時雄と交際している、と」
「校長先生って、結婚してるわよね」
佳織は、確かに時雄の左薬指に、プラチナのリングがあったことを思い出す。
「当時から既婚者ですね」
「じゃ、じゃあ、ダメじゃないですかぁ。そんなの……」
城之内の言葉に、由梨は悲鳴にも似た声を出した。不倫疑惑は、かなりのショックを与えてしまったようだ。そのまま由梨は、頭を抱え込んでしまう。
「人それぞれですから。それで僕は最初、校長先生の接点で調査しました。しかし、当時ならともかく、今になっては全く接点がない。学校長と部活の代理コーチ、ただそれだけです。ですが、ある男性が、頻繁に根岸さんに接触していました」
「それが、この人なの?」
「はい。これが誰なのか、はっきりわからなかったのですが……似たような背格好の候補者が、何人もいましてね。絞り切れずにいたんですよ。候補者のだれもが、校長先生と根岸優美の間を取り持つには、どうにも関係が希薄で……ですが、教頭先生となれば、ご子息がいます」
城之内は城之内なりに、根岸優美の周辺を調べていたのだ。
「それって、根岸優美と教頭先生の間に、何かあるとか」
「あるいは、教頭先生が、校長先生の隠れ蓑になっているのかもしれません。とにかく、これで根岸優美の代理コーチは、校長先生と教頭先生の意向であることがはっきりしました。コーチには報酬が支払われますから、彼女に便宜を図りたかったのでしょう。そのためにはまず、コーチの座を空席にする必要がある」
城之内は、岡上の事故にも学校が関わっている可能性を示唆した。