プロローグ オネェ、異世界に迷い込む
鳥の声がする
それも一羽や二羽じゃない
ピィ、チチチと頭上のあちこちから聞こえてくる鳴き声に橘雅樹はゆっくりと目を開けた
「…………どこよ、ここ」
第一声がそれだった
視界いっぱいに広がったのは見知らぬ森
高く伸びた木々と、その隙間から差し込む柔らかな光
湿った土の匂いに頬を撫でる少し冷たい風
少なくとも自宅の天井ではない
というか屋外だ
しかも森だ
「…………」
雅樹は無言で目を閉じてもう一度開ける
森だった
「いやいやいやいや」
勢いよく身体を起こす
「なんでよ!?」
昨日は普通に仕事をしていた
いつも通り会社へ行って仕事をして帰宅した――はずだ
ここで軽く自己紹介しておこう
橘 雅樹、三十二歳
独身で職業は会社員
大学を出てから十年ほど
多少の転職は挟みつつもごく普通のサラリーマンとして働いてきた
趣味は買い物と料理
それから美容やファッションも好きで可愛いものや綺麗なものにはついつい目がいってしまう
新作コスメを見れば気になるし休日に服を見て回れば平気で一日が潰れる
別に特別な力があるわけでもなければ武道の達人でも天才でもない
仕事をして給料をもらって休みの日には好きなことをする
ちょっと口調と趣味に特徴があるだけの――
どこにでもいるただのオネェよ
そんな雅樹には昨日の夜に森へ出かけた記憶なんて当然ない
「夢……にしてはリアルすぎるわよねぇ」
試しに頬をつねる
「痛っ」
夢ではなさそうだった
そこで雅樹はもう一つおかしなことに気づいた
「……ん?」
手を見る
妙に綺麗だった
三十二年間使ってきた自分の手より明らかに若い
慌てて頬に触れる
「…………え」
すべすべ
もう一度触る
つるつる
「ちょっと待って」
雅樹はポケットを探った
あった
使い慣れたスマートフォン
ロックを解除してカメラを起動しインカメラへ切り替える
画面に映った顔を見た瞬間――
「…………若っ!!」
森中に声が響いた
「えっ、ちょっと待って!? 何これ!? 肌めっちゃ綺麗なんだけど!?」
頬を触る
目元を見る
画面へ顔を近づける
右を向いて左を向いて前髪を上げる
「毛穴どこ行ったのよ!?」
先ほどまで見知らぬ森に放り出されたことを心配していたはずなのに今やそれどころではない
「二十代前半……? 二十三くらいかしら」
どう見ても十歳近く若返っている
しかもよく見れば着ている服にも見覚えがなかった
身体に合ったシンプルなシャツとパンツ
変な装飾こそないものの妙に仕立てがいい
雅樹はもう一度画面に映る自分を見る
「……待って。この身体なら昔諦めた服、また着られるじゃない!」
年齢を重ねてからは「これはさすがに若すぎるわね」と諦めてきた服がいくつもある
あの色も
あのデザインも
今なら――
「――じゃなくて!」
我に返った
「ここどこなのよ!」
まずはスマホを確認する
時刻表示はある
バッテリーは百パーセント
電波は――ない
「まあ森だものねぇ……」
嫌な予感を覚えながら地図アプリを開く
現在地を取得できません
「でしょうね」
電話は繋がらない
メッセージも送信できない
「……これはちょっと笑えないわね」
さすがに声の調子が落ちた
家族や友人の顔が一瞬頭をよぎる
けれど今はどうしようもない
雅樹は小さく息を吐いて何となくブラウザを開いた
「…………は?」
ページが表示された
試しに検索する
表示される
動画サイトも開く
ニュースサイトも普通に読める
「ネット繋がってんじゃない!!」
なのに電話は繋がらない
メッセージも送れない
地図も使えない
「何なのよ、この中途半端な親切設計!」
思わずスマホに文句を言ったその時だった
視界の端に妙なものが浮かんだ
【《鑑定》を使用できます】
「…………」
雅樹は瞬きをする
消えない
「いや待って」
嫌な予感がする
ものすごく嫌な予感がする
雅樹は恐る恐る近くに生えていた大木を見る
「……鑑定?」
【ルーグの木】
【アストリア大陸の温暖な地域に広く分布する樹木。建築材や薪として利用される】
「…………アストリア大陸?」
知らない
少なくとも雅樹の知る地球にそんな大陸はない
すぐにスマホを開いて「アストリア大陸」と検索する
出てこない
「…………」
見知らぬ森
若返った身体
聞いたこともない大陸
目の前に突然現れた謎の表示
ここまで揃えばさすがに答えは限られてくる
「……異世界?」
口にした途端に急激に現実味がなくなった
普通ならもっと取り乱すところなのかもしれない
だが雅樹は三十二歳
十年以上サラリーマンをやってきた
突然の仕様変更
無茶な納期
昨日と言っていることが違う取引先
機嫌で指示を変える上司
休日に鳴る仕事用携帯
数々の理不尽を乗り越えてきた
「…………」
雅樹は少し考える
「いや、異世界転移の方がおかしいわね」
さすがに会社員経験では処理できなかった
とはいえここで座り込んでいても仕方がない
まず必要なのは水と食料
そして人里
幸いネットは使える
「……そういえば」
雅樹はスマホに入っていた通販アプリを開く
普通に開いた
「まさかねぇ」
試しにミネラルウォーターを一本カートへ入れる
購入画面まで進むと見慣れない表示が出た
【配送先:現在地】
「住所ですらないじゃない」
完全におかしい
おかしいのだがここまで来たら試すしかない
購入を確定する
【配送時間を指定してください】
「……今すぐ」
【配送地点を指定してください】
「地点?」
画面を動かすと目の前の地面に半透明の印が表示された
試しに少し離れた場所へ動かす
動く
どうやら自分から見えている範囲ならある程度自由に指定できるらしい
「じゃあ……そこ」
【注文を確定しました】
次の瞬間――
ポンッ
「…………」
地面に一本のペットボトルが現れた
雅樹はそれを拾い上げてラベルを見る
どう見ても日本で売っているミネラルウォーターだった
「…………届いちゃった」
恐る恐る蓋を開けて一口飲む
普通の水だ
もう一口
「便利すぎない?」
それから数分
雅樹は通販サイトを色々と確認してみた
食品――買える
服――買える
化粧品――買える
「そこ大事よ!」
調理器具も工具も日用品も問題ない
どうやら日本で普通に通販を利用して自宅まで届けてもらえる物ならかなり幅広く購入できるらしい
「これ……異世界生活、なんとかなるんじゃない?」
水も食料も手に入る
必要なら服だって買える
野宿用品も揃えられる
最悪人里が見つからなくてもすぐに死ぬことはなさそうだ
そう思ったところで雅樹は購入履歴に表示された金額を見た
「…………」
そして口座残高を見る
「…………」
もう一度購入履歴を見る
「私の口座から普通に引かれてるじゃない!!」
当然と言えば当然だった
通販なのだからお金はかかる
そして日本の銀行口座に入っている金には限りがある
「危なっ! 調子乗ってコスメ買い漁るところだったわ!」
すでにカートには何点か入っていた
そっと削除する
その瞬間――
【固有スキル《スマートフォン》を確認しました】
「……今度は何?」
【専用アプリケーションをインストールします】
「勝手に!?」
ホーム画面に見覚えのないアイコンが追加された
鞄と硬貨を組み合わせたようなマーク
恐る恐るタップする
【異世界サポート】
【チャージ】
【機能拡張】
表示されたのはそれだけだった
「……何よこれ」
まずは《チャージ》を押してみる
【チャージ可能な通貨がありません】
「通貨?」
当然今の雅樹は異世界の金など一枚も持っていない
「こっちのお金でも入れろってことかしら……?」
続いて《機能拡張》
【現在利用可能な機能拡張はありません】
「…………」
雅樹は画面を睨む
「何もできないじゃない!!」
どうやら今の段階ではそれ以上のことは分からないらしい
「まあいいわ。後で考えましょ」
その時さらに新しい表示が現れた
【《無限収納》を使用できます】
「まだあるの?」
試しに先ほど購入したペットボトルへ手を伸ばす
「収納……とか?」
ペットボトルが消えた
「…………」
取り出すことを意識すると再び手元に現れる
もう一度収納
消える
取り出す
出てくる
「…………便利ねぇ」
水も食料も確保できる
必要な道具も通販で取り寄せられる
それを持ち運ぶ心配までない
「少なくともすぐ死ぬことはなさそうね」
そこまで分かれば今は十分だ
問題はこの先である
ここが本当に異世界なら何が危険なのかすら分からない
動物だけならまだしもゲームや小説みたいに魔物なんてものまでいる可能性だってある
何より自分はこの世界のことを何一つ知らない
「まずは人を探さないとね」
ここがどこなのか
近くに街や村はあるのか
何が危険で何が安全なのか
そして帰る方法はあるのか
知りたいことはいくらでもある
雅樹は立ち上がって服についた土を払う
どうしてここに来たのか
なぜ若返ったのか
このスマホは何なのか
分からないことだらけだ
家族や友人のことを考えれば不安だってある
それでも――
知らない世界
知らない街
知らない料理
知らない服
知らない人々
これから自分が何を見ることになるのか
ほんの少しだけ楽しみだと思ってしまった
「せっかく異世界に来たんだもの」
雅樹は口元を上げる
「楽しまなきゃ損じゃない♡」
この時の雅樹はまだ知らない
この森での出会いが自分のこれからを大きく変えることを
知らない土地を巡り知らない人々と出会い
やがて自分がこの広い世界を旅することになるなんて――今はまだ想像すらしていなかった
「…………で」
雅樹は周囲を見回す
右を見ても木
左を見ても木
前を見ても木
振り返ってみてもやっぱり木
「人里って、どっちよ?」
スマホを開いてみるが当然日本の地図アプリは現在地を取得してくれない
「…………」
雅樹の眉がぴくりと動く
「こういう時こそ地図が必要でしょうがぁぁぁ!!」
驚いた鳥たちが一斉に木々から飛び立っていく
異世界生活開始、およそ十分
橘雅樹、三十二歳
肉体年齢、およそ二十三歳
元サラリーマン
どこにでもいるただのオネェ
現在――絶賛迷子である




