9 堕ちる(終)
私が結社に入ってから一年が過ぎた頃、この支部でのプロジェクトが完了しました。
平和だった王国は見る影もなく、王位継承をめぐって各地で争いが起こっています。
資金と資源、優秀な人材、そして捧げもの。
結社はその全てを手に入れ、もうこの地に用はありません。
痕跡を完全に消してから支部は閉鎖されるとのことですがが、ベルナエル様と腹心のミケーレさん、そしてリーチェさんのような優秀な部下は、一足先に次の任務地へ赴くことになりました。
……当然のように私も一緒に行くことになっています。
一年前はほとんど私物を持っておらず、カバン一つでこの支部にやってきたというのに、ベルナエル様にたくさんのものを買い与えられていた結果、引っ越しの準備が大変になりました。
贅沢な話です。
せっせと荷造りをしていると、後ろから声がかかりました。
「無理に全部持っていかなくてもいいんだよ。向こうでまた買ってあげる」
「でも……もったいないですし、その、記念というか」
「記念?」
「……思い出が、あるじゃないですか」
「ふーん。このリボンも?」
「それは、初めてくださった花束の……覚えてないでしょうけど」
「いや、覚えてるよ。フィアの瞳の色に近いものを選んだから。こんなものまで取っておいてくれていたなんて、嬉しいな」
貧乏性なんです、と小声で言い訳して、私は手を動かすことに集中しました。
早く終わらせて、指令室に戻らないと。
プロジェクトの終盤ではトラブルも多くなり、目が回るような忙しさでした。まだ片付け切れていません。
ほとんどの問題は、ベルナエル様がふらっといなくなって帰ってくる頃には解決していました。
五十年も王国に真摯に仕えた文官を寝返らせ、国宝の強奪を手伝わせたのもベルナエル様とのことです。
一体どのような方法を使ったのか、いろいろな意味で恐ろしいですね。
私も、少しは役に立てるようになった気がします。
あのミケーレさんが「フィアさんがいてくれてよかった……」と疲れ切った目で呟いてくださったくらいなので。あと、リーチェさんにも理不尽に怒られなくなりました。
世間一般的に頑張って良い仕事なのか分かりませんが、個人的にはこれからも頑張っていきたいと思います。
「そうだ。明後日にはここを発つけど、行っておきたい場所はある? 後悔がないようにね」
「…………」
すぐに私は手を止めてベルナエル様を振り返りました。
ずっと、心の隅に引っかかっていた場所があります。
「連れて行ってあげるよ? どこへでも」
「……では、お願いいたします」
翌日、日の出前の早朝、ベルナエル様に空間転移で連れてきてもらったのは、支部のある国の隣国――私の生まれ育った故郷でした。
薄闇の中、私は一人でその墓標の前に立ちました。
「良かったです……お墓、そのままで。ずっと来られず、申し訳ありませんでした。おじい様、おばあ様……」
かつて私の家が治めていた領地の墓地、歴代領主が葬られている場所に変わらず祖父たちの墓標が残っていました。
今は別の貴族が治めていますが、ここには手を加えないでいてくれたようです。
花を供えて、目を閉じて祈りました。
おじい様が残してくれた遺言と遺産のおかげでなんとか生きてこられました。
そして、これからも生きていけるかもしれません。
ありがとうございます。
おじい様以外のご先祖様はきっと許してくださいませんね。
私は天空神を裏切って、悪魔の手を取り、邪神を復活させようとしています。
一族随一の悪人となってしまうでしょう。
ごめんなさい。どうかお許しください。
没落してからというもの、一度も姓を名乗っていません。
これからはフィアンメッタという名すら捨て、ただのフィアとして生きていきます。
もう二度と、この地を踏むことはないでしょう。
「さようなら。お世話になりました」
最後に淑女の礼をして、私は墓標に背を向けました。
墓地の入り口で待っていてくださったベルナエル様に駆け寄ります。
「お待たせいたしました。貴重な時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。もう大丈夫です」
「いいよ。せっかく来たんだから、もう少しこの辺りを歩かない? 思い出の場所とかあるでしょ?」
もう二度とこの地に帰るつもりがないことを見透かしているのでしょうか。
私はベルナエル様の優しい言葉に甘えることにしました。
「洞窟……にはもう何もありませんね。えっと、では東の崖に。新年に家族で初日の出を見に行ったことがあって、まだ夜明けに間に合うかも……あ」
「……何?」
「いえ、あの、そういえば、ベルナエル様はどうして“夜明けの悪魔”と呼ばれているのですか?」
「夜明けの戦場で目撃されて絵画にされたからだよ。ずばりその絵画のタイトルが“夜明けの悪魔”だった」
「……さぞ美しい絵なのでしょうね」
「残念。もう残ってないよ。捧げものにしちゃった」
少し、いえ、かなり見てみたかったです。
「絵なんかより、これから実物を見ればいい。朝日の中の俺はそれはそれは美しいだろうから」
「……そうですね」
「心がこもってないなぁ」
「そ、そんなことは……ベルナエル様はいつでもお美しいですし」
「ありがとう。フィアもいつでも美しいけど、夜はさらに輝きを増すよ」
これ以上話しても羞恥心を刺激されるだけなので、私は黙々と崖の上を目指すことにしました。
転ばないようにか、ベルナエル様が手を引いてくださいます。
開けた場所に出たのと、ちょうど山々から朝日が顔出す瞬間は同時でした。
「うわ、眩しい」
「ですね。でも、綺麗……」
ふと隣を見れば、清廉な朝日に照らされたベルナエル様は宣言通り美しく……絵画にしたくなる気持ちも分かります。
朝日が似合う悪魔というのは、どうなんでしょうか。
「そういえば、両親の墓はここにないんだよね? そちらは行かなくていいの?」
「……いえ、さすがに合わせる顔がありません」
「そう? 強く成長した娘の顔なら見たいと思うけど」
私は首を横に振りました。強くないし、何も成長していない。恥ずかしい限りです。
そもそも両親にちゃんとしたお墓はありません。
お金がなくて用意できず、教会の片隅にある貧民用の共同墓地に遺灰をまきました。いろいろな意味で居たたまれなくて会いにいけません。
「たくさん与えてもらったのに、親不孝なことばかりしてしまいました」
「たいていの子どもはそうなんじゃないかな。俺もそうだよ」
「え? えっと、それはどういう……悪魔に血のつながった家族はいないんじゃ」
ベルナエル様は肩をすくめました。
「思いもよらなかった? 俺も元は人間だったんだよ。母親は俺が幼い頃に死んで、父親はずっと空の上だから、親と言えるのか微妙だけどね。この見た目の年齢まで、一応人間として生きていた」
「……なんだか、いろいろと納得できた気がします」
いつも思っていました。ベルナエル様は人間の心を分かりすぎていると。
もともと人間だったから、いろいろと見透かすことができるのですね。
「どのような経緯で悪魔になったのか、聞いてもいいですか?」
「んー、ちょっと恥ずかしいな。詳しいことは省いていい?」
「はい」
「……とても嫌な目に遭ったんだ。この世界も人間も嫌いになって、もう死んでもいいやって時に、今の結社の総裁に出会って『じゃあ邪神の捧げものになれば?』と勧められてね。ほら、俺は人間だった頃から美術品のように美しかったから、その資格があった。それで、自分から底も見えない深淵に飛び込んだんだ」
なんでもないように軽い調子で語られましたが、私は口を挟めませんでした。
「深淵の中で邪神に会って、俺は悪魔にされた。死にたいって言ったのに、意地悪な女神様だよね。でも、人間だった頃に感じていた煩わしいものからは解放されたから、一応感謝はしている。やることもないし、人間の命で遊ぶには楽しかったし、悪魔として真面目に働くことにした。邪神に強制されたわけじゃないよ。選択肢はたくさんあったのに、俺は自分でこの道を選んだんだ。最悪だと思う?」
問われても、私には分かりませんでした。
自ら死を選び、悪魔であることを受け入れるなんて、きっと壮絶な体験をしてきたのでしょう。
想像もできません。
「がっかりした? 嫌いになった?」
黙っていると代わりの問いが投げられ、私はやっと首を横に振りました。
「いいえ。話してくださってありがとうございます。ベルナエル様のことを知ることができて、嬉しかったです。失礼かもしれませんが……」
「そんなことないよ。良かった」
話してもらった内容を反芻しながら、私ははっとなりました。
「あの……人間が嫌いということは、私も人間なんですけど、本当は嫌いなんですか?」
私の不安を吹き飛ばすように、ベルナエル様は肩を震わせて笑いました。
「ふっ、そんなわけないでしょ。この世の全ての人間を嫌っているわけじゃない。そもそも俺、人間の作るものは割と好きだしね。特に服や音楽、酒を造ってくれている人間には感謝してるよ」
「……そうですか」
「もちろん人間の中ではフィアが一番好きだよ。今まで出会った誰よりも」
いつも通り、隙あらば私に甘い言葉をくれます。
まだ出会ってからたった一年なのに、どうしてここまで優しくしてくれるのでしょうか。
でも何百年と生きる彼の長い生の中で、私が一番なのだとしたら、こんなにも光栄なことはありませんね。
彼の言葉全てが嘘偽りかもしれない。
結社の計画も、過去の話も、私への愛の言葉も、全て存在しないものだったらどうしよう。
……もしそうなら、今度こそ絶望の中で死ぬしかありません。
少しでも真実があることを願って、私は繋いだままだった彼の手を握り返しました。
怖くてたまらない。
彼の悪性を恐れているのではありません。手を振りほどかれるのが怖いのです。
でも、言わないと。
私にたくさんのものを惜しみなく与えてくれる彼に、一つも返せないままなんて、そんな不義理なことはありません。
喜んでもらえるか、自信がないですけど……。
「ベルナエル様……あの」
「うん」
「私、あなたのことを、お慕いしています。愛しています。……結構前から」
本気で好きにならないように気をつけていたのに、やっぱり無理でした。
でもこれに関しては仕方がないと思うのです。
ベルナエル様のような方に毎日優しい言葉をかけられて、体の隅々まで愛され、完璧なメンタルケアを施されて、幸せを感じないはずがありません。誰だって好きになってしまうはず。
私は悪くない。自分でそう思える唯一のことです。
恐る恐る顔を上げると、ベルナエル様はいつも通り優美な微笑みを浮かべていました。
「やっと言ってくれた」
「ごめんなさい……なかなか言い出せず」
「いいよ。知ってたから。フィアはね、考えてることが全部顔に出てるんだ」
私が思わず空いている手で自分の顔に触れようとすると、その前に両腕で思いきり抱き締められました。
いつも優しい彼らしくない、少し強引で力強い腕に私はいつも以上にドキドキしました。
「分かっていても、直接言ってもらえるのは嬉しいよ。口にするのは怖かっただろうに、頑張ってくれてありがとう」
「わ、私の方こそ、いつもありがとうございます……」
「ふふ、ご褒美に、なんでもフィアのお願いを聞いてあげる」
「……なんでも?」
「ああ、なんでも。きみのためならどんなことでも成し遂げて見せよう」
いつになくご機嫌な様子に私も嬉しくなって、だけどやはりいつか失ってしまうのではないかという恐怖が追いついてきて、だから、縋りつくように彼の背に腕を回しました。
「……前に、捨てる時は優しくお願いしますって言ったと思うんですが」
「言ってたね」
「その願いは変わらないんですけど、できれば……できればずっと捨てないでほしいです。ずっとベルナエル様のそばにいたい。いつか、私が一番じゃなくなってもいいから」
なんてみっともなくて、惨めなことを言っているのでしょうか。
こんなお願い、困らせてがっかりさせてしまうかもしれないのに。
私は流されやすくて、意思が変わりやすく、心も捨てられない、逃げてばかりの弱い人間です。
私が一番、私自身に嘘をついてきました。
合理的になんて生きられない。利己的に生きようとして危険を引き寄せる。
生き延びるためにもがいた結果、ベルナエル様なしでは生きられないようになってしまうような愚か者です。
よりにもよって悪魔の愛に依存するなんて、本当にどうしようもないですね。
「分かった。その願いを叶えよう」
「本当ですか……?」
「ああ。俺も同じことを思っていたんだ。フィアとずっと一緒にいたい。フィアの心と体だけじゃなくて魂も手に入れたい。代わりに俺も魂の一部を贈ろう。……意味分かるかな?」
「……私も、ミケーレさんみたいに?」
悪魔の魂の一部を分け与えられることで、人ならざる者へ至る。
そうなれば、寿命を気にせずに彼とずっと一緒にいられる。
「そうだよ。一緒に永遠の時を生きよう」
きっと人生における最も重大な選択だったというのに、私は悩みもせずいともたやすく差し出された手を取っていました。
「はい」
いつか破滅を迎える時が来ても、この選択を後悔することはないでしょう。
悪魔に強制されたからではなく、私が心の底から望んで選んだのですから。
――数年後。
その夜、この世界に無数の星々が降り注ぎました。
禍々しい光の尾が夜空を切り裂いていきます。
ここは秘密結社〈妖精幻翅〉の現在の本部――歴史ある王国から奪い取った城の一室。
傍らには愛しい我が主。
怯える私をなだめるように抱きしめてくれています。
部屋の隅には、従魔の先輩であるミケーレさんも控えていました。リーチェさんたち他の構成員も、今頃別室で同じ夜空を眺めていることでしょう。
腐食の隕石の一つが空で爆ぜると、夜空に赤い稲妻が走り、雷鳴が轟きました。
それはまるで低い唸り声のようで、男性の断末魔のようにも聞こえました。
「さよなら、父上」
雷光が鳴り響くことは二度とありません。
私はベルナエル様の横顔を見上げて、しかし何も言うことができませんでした。
地面が大きく揺れています。
しかしこの地に隕石が落ちることはなく、選ばれた人間だけが妖精女神を崇める国の民となって生き残ります。
あるいは、幸運にも結界を維持できた都市があれば……。
おじい様、本当に隕石群が落ちましたよ。
天空神は死にましたが、人類が滅亡することはありませんでした。
少なくとも、今はまだ。
新しい世界が始まります。
お読みいただきありがとうございました。




