プロローグ
王都の大通りに面した小さな石畳の広場。お付きの侍女が向かいの店へと買い物に出ているあいだ、私は一人で木陰のベンチに腰かけていた。
退屈するかと思ったけれど、そんな心配はすぐに消えてしまった。目の前を行き交う人々も、軒を連ねる店々も、普段は目にすることのないものばかり。眺めているだけで胸の奥がそわそわと浮き立った。
いつもなら「はしたない」と叱られてしまうけれど、宙ぶらりんになった足をこっそりぱたぱたと揺らしてみる。そんなことまで、今日はなんだか楽しい。
まるで絵本の中に迷い込んでしまったようで、次は何が目に入るのだろうと、夢中になって通りを眺めた。
ふと、視界の端で何かが動く。何気なくそちらへ目を向けた瞬間、浮き立っていた胸がすっと冷えた。
野犬だ。
ひどく痩せこけた犬が、ぎらつく目でじっとこちらを見据えていた。わずかに開いた口から荒い息が漏れるたび、浮き出たあばらが上下する。
(いつの間にこんな近くに!)
低く唸りながら、野犬は一歩、また一歩とこちらへ距離を詰めてくる。
喉の奥がひゅっと鳴った。逃げたほうがいいのか、それとも動かないほうがいいのか。そんなことすらわからない。ただ、目の前にいるものが恐ろしいということだけは、幼い私にも十分すぎるほどわかった。
(どうしよう……侍女はまだ戻ってこないし……)
助けを求めようにも、声が出なかった。膝の上で両手を握りしめ、できるだけ身体を動かさないよう息を潜める。けれど、耳の奥では心臓の音がうるさく鳴り響いていて、この音まで聞こえてしまうのではないかと思うほどだった。
じっと耐えていたけれど、犬が低い唸り声とともに大きく口を開き、その奥に鋭い牙が覗いた瞬間、とうとう恐怖が我慢を上回った。私は弾かれたようにベンチから立ち上がると、一目散に駆け出した。
人通りの多い大通りから、細い路地へ、さらにその奥へ。どこへ向かっているのかなど考える余裕もなかった。ただ怖くて、少しでも遠くへ逃げたくて、背後を振り返ることさえできないまま、ひたすら走った。
「きゃっ!」
角を曲がったところで何かに躓き、そのまま石畳へ倒れ込む。咄嗟についた手のひらに鋭い痛みが走り、膝を打った衝撃に顔をしかめた。汚れてしまったドレスの裾も、じんじんと痛む膝も、そのときばかりは気にしている余裕などなかった。
(どうか、もう追ってきていませんように!)
祈るような気持ちで、恐る恐る顔を上げる。けれど願いも虚しく、視線を上げた先で、待ち受けていた野犬の鋭い眼光とぶつかった。犬は先ほどよりもさらに低い唸り声を響かせながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。途端に、身体からすっと力が抜けた。
(もう逃げられない……)
立ち上がらなければと思うのに、足が地面に縫い付けられたように動かなかった。野犬が迫ってくるにつれ、視界がぼやけ、頬を温かなものが伝っていく。
「だれ……か……」
どうにか絞り出した声は小さく掠れ、とても誰かに聞こえるとは思えなかった。けれど、その声が消えるより先に、鋭く短い声が路地に響く。
「大丈夫だ。動くな」
突然ぐいっと腕を掴まれ、引き起こされた。身体が後ろへ下がったかと思えば、誰かが私と野犬との間に立ちはだかる。目の前にあったのは、見上げるほど大きな青年の背中だ。
広い肩も太い腕も、これまで私の身近にいた男性たちとはまるで違う。私などすっぽりと隠してしまえるほど逞しい身体が、盾のように野犬から私を遮っていた。
青年が何か言った気がしたけれど、よく聞こえなかった。私はその背中に隠れるように身を縮め、ぎゅっと目を瞑って耳を塞いでいたから。それでも、この人の後ろにいれば、もう大丈夫。不思議とそう思えた。
やがて、大きな手がぽんっと頭に乗せられる。
「もう去ったぞ」
その声に私は恐る恐る目を開けた。青年の背中の陰からそっと顔を覗かせると、言われたとおり野犬の姿はもうどこにもなかった。そこでようやくほっと息を吐き出す。
「怪我はないか?」
青年が振り返り、私の前に屈み込んだ。それでもまだ彼を見上げていることに少し驚いたが、こちらを覗き込む彼は心配そうに眉を下げていて、それだけで私を安心させるには十分だった。
(もう怖くない)
そう思った途端、それまで必死に堪えていたものが一気にほどけた。答えようと口を開いたものの、声の代わりにしゃくり上げるような息が漏れ、あとからあとから涙が溢れてくる。
「お、おい……」
青年がぎょっとしたのがわかった。どうにか泣き止もうとしたけれど、一度溢れ出した涙はなかなか止まってくれない。しばらく困ったように私を見ていた彼は、やがて何かを思い出したらしい。手にしていた紙袋をがさごそと探り始める。
「ほら」
そう言って青年が取り出したのは、丸いパンだった。そのまま、むぎゅっと私の口へ押し込まれる。
「これやるから。泣くな」
あまりに突然のことで、あれだけ出ていた涙がぴたりと止まった。
知らない人から物を受け取ってはいけません。それは幼い頃から何度も言い聞かされてきたことだった。本来なら、たとえ親切から差し出されたものであっても、きちんと断らなければならない。
けれど、これはどうしたものか。自分から受け取ったわけではなく、気づいたときにはもう口の中に入っていたのだから。
そうしているうちにも、口の中には甘い香りがふわりと広がっていく。吐き出すこともできずおそるおそる噛んでみると、もっちりと柔らかな生地の中から、とろりとしたクリームが溢れ出した。卵とミルクの優しい甘さが舌の上に広がって、強張っていた身体が少しずつほぐれていく。
「クリームパン。うまいだろ?」
青年が、少しだけ得意そうに笑った。
「お気に入りの店のなんだ」
私は口いっぱいにパンを頬張ったまま、こくりと頷く。彼に気をつかったのではない。本当に、そう思ったのだ。青年がくれたクリームパンは、今まで食べたどのパンよりも、甘くて優しい味がした。
(おいしい……)
遠くから侍女が私を呼ぶ声が聞こえる。青年も気づいたのだろう。声のするほうへ顔を向け、すっと立ち上がった。
(お礼を言わなくちゃ!)
慌てて口の中のパンを飲み込もうとしたけれど、青年はくるりと背を向けて歩き出してしまった。
後ろ姿がだんだんと遠ざかっていく。あの角を曲がれば、もう見えなくなってしまうだろう。それでも私は引き留めることもできないまま、ただ黙ってその背中を見つめていた。
野犬から私を守ってくれた、大きな大きな背中を。




