第一部完ていう感じ
ナーガとの戦いが終わった後の事は、正直あまり覚えていない。
アビスヒュドラが倒れた瞬間、周囲は大騒ぎになった。
第三王子の部下たちは勝利を叫び、冒険者たちは互いに肩を叩き合い、セルティは呆然と白銀の剣士が消えた場所を見つめていた。
そして俺は、そのどさくさに紛れてラムゼールへ帰って来た。
逃げたのだ。
いや、戦場から逃げた訳ではない。敵は倒した。倒したのはレベル百の俺であって、俺ではない気もするが、とにかく倒した。
だが、俺は逃げた。
あの場にいた全員の視線から。
白銀の鎧をまとい、巨大なアビスヒュドラを当然のように斬り伏せた、理想の俺から。
そして何より。
そんな俺を見つめていたセルティの目から。
「……死にたい」
宿のベッドの上で、俺は毛布にくるまったまま呟いた。
いや、死にたくはない。
死んだら終わりだし、俺にはまだセルティと結婚するという大いなる野望がある。
だが、気分としては死にたい。
枕に顔を埋めて、うごうごと芋虫のように動く。
情けない。
世界を救ったかもしれない男の姿ではない。
しかも世界を救ったのは俺ではなく、レベル百の俺である。
このややこしさよ。
「お兄ちゃん……ご飯、置いとくね」
扉の向こうから、リナの声がした。
宿の少女リナである。
普段なら、俺はここで明るく返事をする。
「おう、ありがとう。今日も可愛いな。将来は俺の嫁になるか?」
などと言って、リナに「ならないよ!」と怒られるまでが一連の流れである。
しかし今の俺には、その元気すらなかった。
「ああ……ありがとう」
返事が湿っている。
干し忘れた梅雨時のタオルみたいな声だった。
扉の向こうで、リナがしばらく黙り込む。
「……お兄ちゃん、どこか痛いの?」
「痛くはない」
「じゃあ、お腹壊した?」
「壊してない」
「じゃあ……心?」
宿屋の娘が、妙に核心を突いて来た。
俺は毛布の中で、ぐっと息を詰まらせる。
「……まあ、そんな感じだ」
「お薬、いる?」
「心に効く薬は、たぶん高い」
「じゃあ、甘いお菓子持って来るね」
リナは真面目な声でそう言った。
優しい。
優しさが痛い。
俺はますます毛布に沈んだ。
その翌日、ノノが来た。
情報屋でもあり、冒険者でもある少年ノノ。
俺の秘密をかなり知っている、面倒で頼りになる奴である。
「入るぞ」
「入るな」
「じゃあ入る」
「会話の意味!」
扉が開き、ノノがひょいと顔を出した。
相変わらず遠慮というものがない。
ノノは部屋の中を見回し、俺を見るなり、何とも言えない顔をした。
「うわ、腐ってんな」
「腐ってねえ」
「腐りかけだ」
「熟成と言え」
「熟成肉なら価値もあるけど、お前じゃな」
「言い方!」
ノノは俺の前まで来ると、椅子に腰掛けた。
そして少しだけ沈黙する。
その目が、いつもの軽薄なものではなく、少しだけ探るような色を帯びていた。
「見たんだろ」
俺が言うと、ノノは短く答えた。
「見た」
「……どう思った?」
「意味が分からなかった」
「正直だな」
「でもまあ、お前絡みなんだろうなとは思った」
ノノは肩をすくめる。
「白銀の鎧、あの化け物じみた強さ、セルティ様の召喚。それで、お前がこの有様。分かりやす過ぎるだろ」
「俺はそんなに分かりやすいか」
「看板立ててるようなもんだな。『僕は今、理想の自分に心を折られています』って」
「やめろ。的確に言語化するな。死ぬ」
「死ぬな。面倒が増える」
ノノは立ち上がった。
慰めに来たのか、からかいに来たのか分からない。
いや、たぶん両方だ。
扉の前まで行ったノノは、振り返らずに言った。
「適当に復活してくれよ。でないと使い辛ぇや」
「人を道具みたいに言うな」
「便利な奴は、だいたい道具だ」
「ひどい」
「でも、使えないお前はもっとひどい」
そう言って、ノノは出て行った。
何だあいつ。
優しいのか優しくないのか、はっきりしてほしい。
それからさらに一日。
俺は相変わらず部屋に閉じこもっていた。
飯は食った。
リナの持って来た菓子も食った。
落ち込んでいても腹は減る。
人間とは悲しい生き物である。
そんな時、また扉が叩かれた。
「お兄ちゃん、お客さん」
「ノノなら追い返してくれ」
「違うよ。えっと……すごく偉そうな人」
嫌な予感がした。
扉が開いた。
そこに立っていたのは、粗末な外套を羽織った青年だった。
だが、隠せていない。
顔立ち。姿勢。目の強さ。
第三王子ヴィクトルである。
「邪魔するぞ」
「殿下!?」
「声が大きい」
ヴィクトルは素早く部屋に入り、扉を閉めた。
お忍びである。
お忍びの王子が、落ち込んだ冒険者の宿部屋に来るな。
心臓に悪い。
「な、何しに来たんですか」
「礼を言いに来た。それと、渡す物がある」
そう言って、ヴィクトルは懐から鍵を取り出した。
小さな鍵だった。
だが、ただの鍵ではないらしい。装飾が施され、妙に重そうな存在感がある。
「ラムゼールに屋敷を用意した。使用人も付く」
「……は?」
「お前の屋敷だ」
「いやいやいやいや!」
俺は思わず毛布を跳ね除けた。
久しぶりに大きな声が出た。
「屋敷って何ですか! 俺、宿暮らしで充分ですよ!」
「お前は、それだけの事をしたのだ」
ヴィクトルは静かに言った。
「ナーガの巣での働き。アビスヒュドラ出現時の対応。狼仮面の件も含め、私には借りがある」
「でも、あれは……」
レベル百の俺が。
そう言いかけた俺を、ヴィクトルは手で制した。
「あれは知らん」
「知らん?」
「レベル百のあれは知らん。あれは私の理解を超える」
きっぱりと言い切った。
王族らしい判断力で、理解不能なものを理解不能と切り捨てた。
「だが、理解を超えるものが出て来る前にも、お前はそこにいた。戦っていた。逃げなかった。少なくとも、私はそう見ている」
「……」
「だから受け取れ」
鍵を押し付けられた。
俺はそれを受け取るしかなかった。
重い。
鍵が重いのか、期待が重いのか分からない。
たぶん両方だ。
「それと、酒はあるか」
「王子が宿部屋で酒を要求しないで下さい」
「あるのか、ないのか」
「ありますけど」
インベントリに。
なぜかある。
以前、勢いで買った高そうな酒である。
こういう時に限って役に立つのだから、インベントリとは恐ろしい。
俺はコップを二つ出し、酒を注いだ。
ヴィクトルは特に驚かなかった。
いや、少し驚いたかもしれないが、王子の矜持で見なかった事にしたのだろう。
「乾杯だ」
「何にです?」
「生き残った事に」
それは、悪くないと思った。
コップを合わせる。
安っぽい宿の部屋に、澄んだ音が響いた。
酒は強かった。
喉が焼ける。
しかし、嫌な熱ではなかった。
ヴィクトルはぽつぽつと戦いの後始末について話した。第三王子としての立場。ブランゼール公爵への牽制。セルティが白銀の剣士について何度も尋ねて来た事。
最後の話題で俺は机に突っ伏した。
「やっぱりですか……」
「鑑定結果にかなり興味を持っていたな」
「ぐうっ」
「だが、今のお前にも興味はあるようだったぞ」
「本当ですか!?」
「たぶん」
「たぶんで人を生かすな!」
ヴィクトルは笑った。
王子らしからぬ、年相応の笑い方だった。
俺も少し笑った。
不思議だった。
王子と平民。
いや、俺の場合は異世界人だが、とにかく身分も立場も何もかも違う。
それなのに、狭い宿の部屋で酒を酌み交わしていると、妙な友情めいたものが胸の中に生まれて来る。
たぶん、共に死にかけた者同士の雑な連帯感だ。
あるいは、互いに面倒なものを背負ってしまった者同士の、諦めに近い共感かもしれない。
「リョウマ」
「はい」
「お前は、もう少し胸を張れ」
「胸を張るには実績が足りません」
「屋敷を貰った男が何を言う」
「それ、実績というより事故みたいなものでは」
「事故で屋敷は貰えん」
言われてみればそうかもしれない。
いや、異世界なら事故で屋敷を貰う事もあるかもしれない。
分からない。
だいぶ酔って来た。
「殿下こそ、もっと休んだ方がいいですよ」
「私に休めと言える者は少ないぞ」
「じゃあ、今のうちに言っておきます。休め」
「無礼だな」
「今さらです」
「違いない」
二人で笑った。
その時、扉が勢いよく開いた。
「お兄ちゃん! うるさい!」
リナだった。
腰に手を当て、完全に怒っている。
その目がヴィクトルに向かい、少しだけ止まる。
偉そうな客だとは思っているのだろう。
しかしリナにとっては、宿で騒ぐ酔っ払いは全員等しく迷惑客であるらしい。
「夜なんだから静かにして! あと、お酒臭い!」
「す、すまない」
第三王子が宿屋の少女に謝った。
俺はそれを見て、思わず吹き出した。
「お兄ちゃんも!」
「はい」
「明日はちゃんと顔を洗って、ご飯を食べて、外に出ること!」
「はい」
「返事だけじゃダメだからね!」
「はい……」
リナはふんと鼻を鳴らして出て行った。
扉が閉まる。
しばらく沈黙。
そしてヴィクトルが呟いた。
「強いな、あの娘」
「ええ。宿の支配者です」
俺たちはまた笑った。
笑いながら、俺はふと思った。
いつまでもこんな事をやっている訳にはいかない。
レベル百の俺は遠い。
セルティの目に映った白銀の剣士は、たぶん今の俺よりずっと輝いていた。
それは悔しい。
情けない。
逃げ出したくもなる。
だが、逃げた先の宿部屋にも、心配してくれるリナがいて、使い辛いと文句を言いに来るノノがいて、屋敷の鍵を押し付けて来る王子がいる。
なら、まあ。
渋々でも、復活するしかないのだろう。
俺は手の中の鍵を見た。
ラムゼールの屋敷。
使用人付き。
意味が分からない。
だが、俺の異世界生活は最初から意味が分からない事だらけだった。
「……明日、見に行くか」
「そうしろ」
ヴィクトルが満足げに頷く。
俺は深くため息をついた。
第一部完。
そんな言葉が頭に浮かんだが、もちろん俺の人生にそんな便利な区切りはない。
ただ、落ち込んで、怒られて、酔っ払って、少し笑った。
それだけで、ほんの少しだけ前を向けた気がした。
そしてその直後、飲み過ぎた俺と第三王子は、そろってリナに水を飲まされる事になった。
かっこいい主人公への道は、まだまだ遠い。
読んでいただいて、ありがとうございます。
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