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この世界を救うために、もう一度戦ってほしい  作者: 細川晃
第7章 ハンバーグには、ケチャップソース
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5 きず




「……?」

 ふと気がつくと、僕は鶺鴒館の自室で呆然と立ち尽くしていた。

 現在の時刻は午後十一時過ぎ。すでに窓の外は真っ暗で、わずかな月明りの下、先の見通せない闇夜がどこまでも広がっている。


 あれ? おかしいな。僕はいつ、どうやって、賽原基地から帰ってきたのだろうか。

 ここ数時間の記憶がごっそりと抜け落ちていて、なにも思い出せない。

 たしか暴動の鎮圧を確認して、派遣した部隊を横須賀から引き揚げさせて……。

 ええと、それから――。


「…………」

 別に、どうでもいいか。

 なんだか面倒になってきたので、僕は思考を放棄した。手足が異様に重く、全身がもやもやとした倦怠感に包まれていて、どうにも気分が優れない。


「はぁ」

 心の中が異様なまでに空っぽで、なんの感情も浮かんでこないのに、ため息ばかりがこぼれ落ちてしまう。クローゼットを前にしながらも、今朝から着用中の軍服を脱いで、パジャマに着替えることすらも億劫になって、僕は近くの椅子に座り込んだ。


「…………」

 夕食もまだ済ませていないから、お腹が空いているはずなのに、胸のあたりがムカムカとしていて食欲がない。眠気も来ない。今日はいろいろとあったし、体も疲れていて、とても眠いはずなのに目だけが妙に冴えてしまっていた。


 こうした食欲不振と不眠は、アリス様が居なくなってから、ずっと続いていた症状だったけれど、今はそれが一段と悪化しているように感じられる。


 どうしよう。眠れはしないだろうけど、とにかく横になるべきだろうか。

 でもその前に、昨日入れなかったお風呂に今日こそは……。

 いや、やっぱりやめておこう。面倒くさい。


 もう何日もお風呂場の掃除をしていないから、きっと水垢とかで大変なことなっているに違いない。

 でも、それもある意味で当然だ。


 毎日欠かすことなく、あの広い浴室を隅々まで掃除していたのは、すべてアリス様のためだった。彼女が居ない今となっては、自分自身の入浴のためだけに、浴室をあそこまで徹底的に磨き上げる気力はどこにもない。


 それに僕はサイボーグだから老廃物がほとんど出ない。

 本来は入浴する必要なんてないのである。


「…………」

 じゃあせめてシャワーだけでも浴びておこう。そう思い立ち、重い腰を上げてクローゼットの下段を覗き込む。


「ああ、そうだった。洗濯しないと、綺麗なバスタオルがないんだった」

 普段からバスタオルを収納している下段の引出しは、こういう時に限って空っぽだった。


 またしてもため息がこぼれる。出足を挫かれた気分になって、その場に座り込んでしまいそうになったが、なけなしの気力を振り絞って耐え抜いた。


 どこかに予備のバスタオルがあっただろうか、そんなことを考えていた直後だった。


「入っていいか?」

 ひかえめなノックが数度響くと、廊下からマコトの声が聞こえてくる。


「……どうぞ」

「よっと、お邪魔しまーす。小春、はいこれ」

 肩を使ってドアを押し開け、のっそりと室内に入ってきたマコトから、大量のバスタオルを手渡された。どれも丁寧に折りたたまれていて、ほのかに洗剤の香りがする。


「あ、タオル……。いったいどうして」

「どうしてもなにも、さっき洗ったんだよ。脱衣所の隅で山積みになっていたから、洗濯機に突っ込んで、洗剤入れて、ボタンをぴっぽっぱっ。あとは二時間くらい放置するだけで、この通りふかふかだ。やっぱり乾燥機能付きの高い洗濯機はいいね。仕上がりがまるで違う」


「すみません、助かります」

「いいってことよ」

 マコトは白い歯を大きく見せてにんまりと笑った。


「よいしょっと、はー、疲れた」

 てっきりそのまま部屋を出ていくのかと思いきや、彼女は僕のベッドに腰を下ろし、どこか落ち着かない様子で、あちらこちらを眺めつつ、両足をぷらぷらと揺らしている。


 視線は室内をぐるりと一周し、最終的に僕が愛用している枕へと向けられた。


「……えいっ」

 いそいそと靴を脱いだマコトは、ベッドの上に座り込むと、奇妙な掛け声と共に僕の枕へと顔面から飛び込んだ。


「あの、マコト?」

「んー?」

 名前を呼んでも、枕に顔をうずめたマコトからは、気のない返事しか返って来ない。


「汚いですよ、その枕」

「なんで?」

「もう三日くらい枕カバーも変えてませんから。だからその、恥ずかしいので、そうやって顔をうずめるのはやめてほしいというか……」

 そうやってぐりぐりと顔を押しつけるのも禁止です。


「別にクサくないぞ? ただ、ちょっと濃いかな?」

「濃い?」


「焦がしたキャラメルみたいな匂いがする。もしかして香水でも使ってる?」

「いえ、使ってません」

「へー。やっぱり同じ型のサイボーグでも、結構こういう個人差が出るんだよな」


 しばらくうつ伏せの体勢で僕の枕に顔を押しつけていたマコトは、まるで誘惑を断ち切るかのように、がばっと勢いよくベッドから跳ね起き上がった。


「そういえば小春、夕食はどうした?」

「食べてません。そういうマコトは?」

「あるもので適当に済ませた。今からでもなにか作ろうか?」

「平気です。どうにも食欲がなくて……」

「そっか」


 小さく頷いたマコトは、それっきり口を閉ざしてしまう。

 彼女の琥珀色の瞳は、なにかを決意したかのような澄んだ光を湛え、まっすぐ僕へと向けられていた。彼女から注がれるその視線には、強い憧れと尊敬の念が、とても濃密に混じり合っている。


「……っ」

 それがなんだか無性にこそばゆくて、同時にものすごく死にたくなる。彼女から向けられる憧れと尊敬に値しない自分が、言葉では表せられないほどに情けなさけなかった。


 その視線から逃れたい一心で、僕は軍服の上着のボタンに手をかける。


「マコト、そろそろ着替えたいので……。その、お願いします」

 彼女を部屋から追い出す口実が、なんでもいいから欲しかったのだ。


「部屋から出てくれませんか?」

「…………」

「あの、退出を……」


 何度退出を願っても、マコトは僕を見つめたまま微動だにしなかった。


「もうっ! 勝手に着替えますから、変なもの見たって悲鳴を上げないでくださいね」

 仕方がないので、彼女が見ている前で軍服の上着を脱ぎ、詰襟のボタンを外してネクタイを抜き取ると、革靴を脱いで、ベルトを緩めた。


 軍服のスラックスが、すとんと床に落ちる。

 肌に密着するタイプのパンツが、ワイシャツの裾の隙間から見え隠れしていた。


「…………」

 マコトに対して下着を晒したところで今更恥ずかしいとも思わないけれど、自ら進んで下着を晒す行為が、正常だとは到底思えない。


 自分はいったい何をしているんだろう。


 そんな疑問を感じつつも、義乳パッド入りブラジャーのホックを外し、ワイシャツの下からするりと抜き取った。上半身はワイシャツ一枚、下半身は下着しか身に着けていない半裸になるまで、黙々と脱衣を進めていく。


「いい加減に部屋を出てくださいよ。お願いしますから」

 そう言いながら身を屈めて、いそいそと靴下を脱いでいると。


「小春、小春」

 マコトが僕の名前を何度か呼ぶ。それは彼女らしからぬ、子猫が甘えるような声音だった。


「あのさ」

「?」

「……今日は、一緒に寝ないか?」


 えっ。


「ダメ?」

 耳まで赤く染めながら、心底恥ずかしそうにマコトはうつむいている。

 顔が熱い。なんだかこっちまで恥ずかしくなってきた。


「い、いきなり、そんなこと言われても……」

「やっぱりダメか?」


「え、えーっと。……僕はもう何日もお風呂に入ってませんから汚いですよ? 嫌じゃありませんか?」

「それは全然気にならない。サイボーグは老廃物を出さないから体臭だってほとんどしない。だいたい今のご時世、民間人は一週間くらい体を洗わないのがふつうだよ」


「そうなんですか?」

「うん。統合軍の軍人が、訓練終わりにシャワーを浴びることだって、もの凄い贅沢なことなのに。毎日湯船につかって体を隅々まで洗ってる物好きなサイボーグなんて、この地球上でも小春くらいだよ、きっと」

「それでも、きっと汚いです。だから――」


 だから今日はダメ。

 そうきっぱりと断って、マコトを部屋から追い出そうと決意した直後だった。


「――っ」

 もの凄い速度でマコトが飛びかかってくる。

 表情のわずかな変化から、彼女は僕の拒絶を察知したのだろう。それを封殺するべく先手を打ってきたのだ。


「きゃあっ」

 油断していたから、避けようとしたけど間に合わなかった。


 かなり強い力でがっしりと羽交い絞めにされ、軽々と持ち上げられると、半ば引きずられるようにしてベッドへと運ばれた。そこで仰向けにさせられ、覆いかぶさるようにして抱きしめられる。


 髪が乱れて露わになった首筋や、はだけた胸元に、荒い吐息が繰り返し当たっていた。

 ベッドに両手を突いて、上半身を起こしてもそれは変わらなかった。

 向かい合った僕らの顔は、鼻先十センチも離れていない。


「汚くない、小春は綺麗だよっ!」

 太ももの上で馬乗りになったマコトは、僕の両肩を上からゆっくりと、けれど絶対に逃げられたくないのか、痛いくらいに押さえつけて、胸に秘めた感情を叩きつけるかのような叫び声を上げた。


 そのまま体勢で、僕らは一言も発することはなく、時間ばかりが刻々と過ぎていく。

 時間の感覚が曖昧になっていて、瞬く間に三分ほどが経過していた。


 上から押さえつけられている両肩が、にわかに痺れ始めている。僕がもし生身の人間であったなら、そこにはくっきりと青あざが浮かんでいたことだろう。


「痛いです」

「……ごめん」

「いきなりベッドに押し倒すなんてひどいよ。マコトのヘンタイ、ケダモノ」

「ごめんなさい」


 あっという間にうるんだ二つの瞳が頭上で輝いていた。

 その顔は今にも火を噴かんばかりに、より赤々と染まっていく。


「……僕が綺麗だなんて、口ではいくらでも言えますよ」

「小春は綺麗だよ。汚くない」


「汚いんですっ! 血塗れで! これはもう一生洗い流せやしないんですよっ!」

「たとえ汚くても気にしない」

「……あ」

 僕のおでこに、淡いキスが二度三度と降り注ぐ。


 周囲にふんわりと漂う白桃のような甘い香りと共に、空っぽだった心の中に、温かな感情がゆったりと流れ込んでくる。


 自然と涙が零れ落ちた。

 僕らは熱に浮かされたように、うるんだ瞳でただただ見つめ合う。


「……マコト」

「小春、綺麗だよ。俺が心から憧れてしまうくらい、小春は本当に綺麗なんだ」


 そう囁きながら、マコトは再び僕を優しく抱きしめてくれた。

 湯船に浸かっているみたいに温かくて、心地がいい。

 彼女の温もりに包まれていれば、朝まで安心して眠れるかもしれない。

 たしかな期待と、ほのかな胸の高鳴り。


 ――鶺鴒館での夜のひと時がすぎていく。




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