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キミに恋する青い鳥  作者: 細川晃
第7章 ハンバーグには、ケチャップソース
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1 朝日

 



 戦闘から翌々日、五月三十一日。鶺鴒館。

 それでも、今日もまた日が昇る。


 天候は快晴。にわかに明らんだ東の空から淡いオレンジ色の陽光が差し込み、朝露に濡れた深緑の草木が爽やかに光り輝いていた。


 窓を押し開けてみると、ひんやりとした新鮮な空気が、そよ風に乗って入ってくる。

 古い空気と新しい空気がゆっくりと循環して、およそ誰もが心地よいと感じる草花と樹木の温かな香りが、ふんわりと室内に満ちていく。


 ああ、なのにどうしてだろう。


「なにも、感じない」

 こんなにも美しい自然が広がっているというのに、まるで心が動かない。


 感情の振れ幅が、あまりにも乏しいのである。心という器に、大きな穴が開いてしまったかのようだ。どんなに素晴らしい景観が目の前にあったとしても、心は満たされず、いつまでも乾き続けている。


 そうして乾いた心は次第に萎縮して、周囲の些細な物事から感動を得る力を、その柔軟性を失っていく。


 固く萎縮した心は傷つきやすく、壊れやすい。心的外傷は肉体の欠損と同義であり、一度でも傷ついた心は、熱したタンパク質のように変性し、不可逆だ。変わり果てた心は、もう二度と、以前までの感性を取り戻すことはないだろう。


「……アリス様」

 一昨日の戦闘を終えてから、ここ三十時間ほどで、僕の感情は壊死する寸前だった。

 怒りもなく、悲しみもない。


 心の奥底に残されたのは、むなしさだけであった。

 ただひたすらにむなしいのである。


「……どうして」

 アリス様の死について思いを巡らせる度に、無性に自分の頭を拳銃で吹き飛ばしたくなる。


 なぜあの時、僕は彼女を一人にしてしまったのか、せめてマコトを警護役として側に置いておくべきではなかったか。


 そもそも僕は、キメラの正体が元人間であることを事前に知っていたんだ。


 そして人間に擬態したキメラが、賽原基地に潜入している可能性についても、随分と前から把握できたはずなのである。


 防ぐチャンスは無限にあった。なのに僕は、その可能性のすべてをありえないものとして、考えもせずに一蹴した。


 最悪の想定から目を背け。

 最悪の想定から逃げ続けた。

 平和な日常を無邪気に謳歌するという安易な選択をしてしまった。


 どうしてもっと頭を使って、注意深く、慎重に行動できなかったんだ。

 ああしていればよかった、こうしていればあの結末も回避できたのではないかと、むなしい後悔ばかりが際限なく降り積もっていく。


「……ごめんなさい」


 五月二十九日の戦闘以降、人類を取り巻く状況は、想定を超えて最悪なものであった。

 はっきり言って、人類はもう詰んでいる。


 事実上の敗北だ。


 依然として沈黙を続ける統合軍総司令部。壊滅した世界各地の統合軍基地。


 これらは共に、人間に擬態していた大量のキメラが、重要施設の内部で一斉に蜂起したことでもたらされた被害であった。つまりキメラは、軍の高官に成り代わることで、人類統合軍の中枢へと浸透し、組織を内部から掌握するという極めて高度な潜入工作を秘密裏に推し進めていたのである。


 今にして思えば、アリス様に重要なポストを与えて賽原基地から引き離そうとしたり、大規模な会議を開くための調整というもっともらしい理由をつけて、多くの人々が世界中の基地を行き来したりと、予兆のようなものはいくつかあった。


 軍上層部によるキメラの正体の隠蔽もそのひとつだろう。


 上層部は軒並みキメラ化していたに違いない。


 現在までに、世界中の指揮官クラスの軍人、もっと具体的に言えば、准将以上の階級を得ていた者は、ほぼ全員が、その正体は擬態したキメラであったとの報告が上がっている。


 そうでなかった者は、アリス様を含め、二十九日の戦闘でことごとく戦死し、今や統合軍は全世界規模で指揮官を欠いた状態にある。


 すでに人類が詰んでいる最たる理由はまさにこれで、もはや統合軍には、組織的抵抗を行うだけの力が残されていない。長きに渡るアルバトロスとの闘争で疲弊し切っていたところに、ダメ押しも同然に発生した全世界での同時多発的な強襲によって、統合軍は完膚なきまでに叩き潰されてしまったのだ。


「ごめんなさい。……ごめんなさい、ごめん、なさい」


 ああ。本当に、むなしいばかりでキリがない。

 もう嫌だ。もうたくさんだ。

 なにもかもがどうでもいい。

 消えたい。ただただ、この世から消えてしまいたい。


 絶望という名の谷間へと転がり始めた思考は、すぐに制御を逸脱し、加速しながらどこまでも転がり落ちていった。


「…………」

 そういえばアリス様の寝室には、護身用の拳銃があったはずだ。

 場所はたしか、施錠された机の引き出し。鍵はたぶん近くにあるはずだ。

 あれを使えば、僕もすぐにアリス様のもとへ――。


「ダメだ。あれじゃ死ねない」

 けれどそこまで考えて、あの拳銃があくまでも護身用であることを思い出す。


 発射可能な弾丸の口径は小さく、至近距離からいくら発射したところで、脳核の装甲を貫通できない。脳核を破壊できなければ、どれだけ身体が損壊しようとも生き続けるのが、全身が機械化されたサイボーグである。


 量産品の軍用装甲義体カササギと比較して、一千倍は高価な僕の義体も、当然軍用品であるから、非常時に備えて予備のパーツが備蓄されている。手足の一本や二本を失ったところで、一時間もしないうちに修理されてしまうだろう。


 僕という意識をこの世から完全に削除するためには、それこそ頭部を一撃のもとに吹き飛ばしでもしない限り――。


「はいッ! どーんッ!」


 その時だった。

 突如、マコトが現れた。

 奇声を上げながら、ドアを勢いよく押し開けたのである。

 もちろん、ノックなんて上品なものは一切聞こえてこなかった。


「……?」

 頭を一撃で……。なんだっけ……。


「おはようございますッ!」

「……おはようございます」


 元気に挨拶しながら半ば押し入るようにズカズカと部屋の中に入ってきたマコトは、ベッドに腰を下ろしていた僕の正面へとやってくる。


 彼女は軍服の上に、なぜかエプロンを着用していた。

 きっとそのエプロンは、マコトの私物なのだろう。

 ブサイクな柴犬のワッペンが、胸元に縫いつけられていた。


「さあさあ、もう七時半だぜ? 早くパジャマから着替えて――って、なんだもう着替え終わったのか」

「…………」

「あとは眼帯だけだな。どこにあるんだ?」

「うしろの、机の上に置いてあります」


「おっ、これか」

 マコトは軽快にくるりと半回転すると、机の上に置かれた眼帯入れのケースを優しく開いてそっと中を覗き込む。


「たっくさんあるけど、今日は何色にするんだ?」

「黒で、お願いします」


「黒って、この黒一色のやつか? でもこれって戦闘用だろ? どうせならカラフルなやつににしないか? ほら、このストライプ柄とか、あとはこの花柄とかも小春によく似合っていていいと思うけどな」

「気分じゃありませんから」

「そっか」

 一言断ると、マコトはそれ以上何も言ってこなかった。


 彼女から手渡された眼帯を装着する。特殊な金属を加工して作られたそれは、化学繊維の物よりもわずかに重かったが、一度着けてしまえば気にはならない。非戦闘時においても十分に実用的であった。


「よし! 身支度は終わったな」

「…………」

「早くリビングに行こうぜ。さっそく朝食だ」


「すいません、朝食の準備はまだなんです。今日はなんだか気分が優れなくて」

「それなら心配ないぞ、もう出来上がってる。俺が作ったからな」


「マコトが、ですか?」

「うんっ!」

「本当に?」

「なんだよー。俺が朝食を作っちゃ悪いのかよー」


 驚きのあまり何度も聞き返してしまった僕に対して、マコトは唇を尖らせ、心外だと言わんばかりに顔をしかめた。彼女はたしかに怒っていた。けれどもそのコミカルな仕草のせいで、まったくもって怒っているようには見えなかった。


 それが無性に可笑しくて、ふとした瞬間に頬がゆるんでしまいそうになる。


「いえ、悪いとか、そういうわけでは……」

「そりゃあ、小春の手料理に比べれば味は数段劣るかもしれないけど、そこそこ上手くできたつもりだから一緒に食べようぜ。早くしないと冷めちゃうからさ」


「……はい」

 これはいったいどういうことだろうか。ついさっきまで僕は朝食を断るつもりだったのに、いつの間にかマコトの背中を追いかけてリビングへと向かっていた。


 今朝は胃のあたりが痛いくらいにムカムカしていて、とても固形物なんて食べられる気分ではなかったのに、テーブルの上に並べられた食器が目に入った瞬間、胃痛は強烈な空腹感へと変わってしまった。


 まるで魔法にでも掛かったかのようだ。


「飲み物はどうする?」

「紅茶でお願いします」

「あいよ」


「あの、僕がやりますよ」

「いいって、いいって! 小春はおとなしく座ってろ」


 タタっと小走りでキッチンへと駆けていくマコトを眺めつつ、僕は言われた通りおとなしく席に座った。綺麗に磨き上げられたテーブルの上には、二枚の大皿が置かれ、そこにそれぞれ朝食が盛りつけられている。


 献立は、トースト、目玉焼き、ウィンナー。

 ここまでは朝食の定番であったが、急に見慣れない物体が視界に映り込む。


「?」

 これこそがメインディッシュだと言わんばかりに、大皿全体の三分の一ほどを占領し、山盛りになっているそれは、味つけされていないプレーンのマッシュポテトにそっくりな、しかし似て非なる半固形物であった。


 さながら半練りタイプとでも表現すべき、ペースト状の甲型配給食である。


「紅茶、お待たせー。じゃあ、食うか」

「……ん?」


 僕の手元に置かれたマグカップの底には、まだ葉も開き切っていない最高級茶葉が無残にも沈んでいた。

 当然、茶こし用のネットなんて手元にはないし、明らかに茶葉の入れすぎでもあった。


 四杯分は入っているだろうか。水を吸ったヒジキのように膨張した茶葉から、凄まじい速度で抽出されていく大量の赤い色素が、カップの底をどす黒く染めていく。


「いただきますっ!」

「……いただきます」


 僕と向かい合わせに座ったマコトは、さっそく甲型配給食を頬張って、幸せそうにもごもごと口を動かしている。


 それを眺めていると、紅茶が真っ黒なことくらい別に気にしなくてもいいか、と思えてくるから不思議だった。カップに口をつけてみると、予想通り凄まじく苦い。でも飲めないほどではなかったので、ちびちびと飲み進めていった。


「お皿に盛りつけられたこの白いのは、甲型配給食ですよね?」

「そうそう。戸棚の奥にあったから使ってみた」

「よく見つけましたね。かなり奥のほうに、まとめて押し込んであったと思いますけど」


「どうにも使い慣れていないキッチンだったから、いろいろと物を引っ張り出したり、並べたりしたら偶然な。もちろん散らかしたわけじゃないぞ。ちゃんと全部もとの場所に戻しておいたから、そこは安心してほしい」


 別に責めてるわけでもないのに、急に早口で弁明し始めたマコトが面白くて、思わず笑ってしまった。


「ほ、ほんとだぞ」

「はいはい、僕はマコトを信じますよ」


「あ! また笑った! 絶対信じてないだろ!」

「そんなことないですって。まあ念のために、後でキッチン周りの確認はしておきますけど」

「ほら、やっぱり!」

「あはははっ」


 トースト、目玉焼き、ウィンナー、それから無味無臭の甲型配給食と、それぞれをゆっくりと味わいながら食べ進める。昨日は丸一日、水の一滴すらも口にしていなかったから、食事はじつに三十時間ぶりだった。


 僕らはサイボーグであって、完全なロボットというわけではない。だからどうしてもお腹が空いてくる。それは当たり前のことなのに、ここ数日間、自分がその当たり前をどれだけ疎かにしていたのか痛感させられる。


 胃袋が満たされるのに比例して、ほんの少しずつだけれど、心と体に活力が取り戻されていくのを確かに実感した。


「ごちそうさまっ」

「ごちそうさまでした」


 気がつけば、絶対に残してしまうだろうと思っていた山盛りの甲型配給食も、残さずに完食してしまっていた。甲型配給食は味がないからこそ、オートミールみたいな感覚で食べられるので、朝食には適しているのかもしれない。


「なあなあ、小春」

「なんですか?」


「食べ終わった後で聞くのもあれだけどさ。俺が淹れたその紅茶、大丈夫だったか? 紅茶と言えばティーバッグだとばかり思ってたら、いまいち茶葉の分量がわからなくて適当にやったんだけど……」


「少し飲んでみますか?」

「飲む。香りがすごくよかったから、気になってたんだよね」


 マコトは好奇心に満ちた顔で僕が差し出したマグカップを受け取ると、とくに疑問も持たなかったのか、その濃縮された紅茶エキスに口をつけた。

 直後、彼女の表情は大きく歪んで、眉間と額に深いしわが刻まれる。


「にがい」

 マコトはカップを突き返して短くうめいた。


「今度、おいしい紅茶の淹れ方を教えますよ」

「頼む。そんでもって、ごめん」


 僕は苦笑しながら席を立ち、ひとまず後片づけを済ませてしまおうと、食器を持って流し台へと向かう。後ろから着いてきたマコトと一緒に分担して食器を洗っていると、時刻は八時を過ぎていた。


「小春。今日は、どうする? 賽原基地に行けそうか?」

 泡立つスポンジを握りしめたマコトは、こちらを不安げにうかがっていた。


「行きますよ、必ず。だって僕は、あの基地の司令官ですからね。この非常時に司令官が留守では、基地全体の士気に関わります」


「わかった。迎えを寄越すように連絡を入れておく」


「……念のために言っておきますけど、いくら非常時だからって、戦闘ヘリコプターや軍用の装甲車とかを賽原基地から呼び寄せないでくださいね。そんな仰々しいものを用意する必要はありませんから」


「はいよ、ちゃんと伝えとく。――CP、CP、こちらパックス・ツー。基地司令官の送迎は装甲リムジンで行う。戦闘員を随伴させる必要もない」


 さっそくマコトは、器用に食器を洗いつつ賽原基地の臨時司令部へと通信を入れていた。


 つい半日前、緊急的に立ち上げられた臨時司令部は、従来の司令部と比較して五分の一ほどの規模と能力しか備わっていない。最前線での激しい消耗戦を強いられた実働部隊と並んで、先の戦闘における被害の深刻さが、もっとも表面化している箇所でもあった。


 ここから賽原基地をどう立て直すべきだろうか。


「……っ」

 そう悩んだ瞬間、存在しないはずの右目に鈍い痛みが走る。洗剤を洗い流しばかりの濡れた手で、空っぽの右目を覆う黒い眼帯を上から押さえつけても、脈打つようなその痛みが消えることはなかった。


 それでも思考は手放さない。


 賽原基地における最高戦力である僕自身を、どのように効率よく使い切れば、この危機的状況を脱することができるのか。そしてそれは、人類生存のための打開策となりえるのかを必死になって考え続ける。


 今の僕には、それ以外に生きる価値などないのだから。





次の投稿は土曜日です。

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