3 パンツ
僕は毎日、水回りの掃除に多くの時間を費やしている。
「よいしょ、よいしょ、あと少し」
とくに鶺鴒館の一階にある共用の浴室は、銭湯の大浴場とまではいかないまでも、一般家庭のものよりは格段に広いため、掃除にもそれなりの時間がかかる。
少しでも早く次の仕事に取りかかるべく、石造りの浴槽をデッキブラシでゴシゴシと、ひたすら無心でこすり続けた。
鶺鴒館には使用人が僕一人しかいないため、日々行うべき仕事が山積みだった。
もっとも性別を偽って働いている身としては、同僚がいない労働環境というのは非常に都合がいい。アリス様からも無理をする必要はないと言われているので、僕はできる範囲での清掃を心がけていた。
「うん、つるつる。今日も完璧だね」
だからもちろん無理はしていない。
この程度の肉体労働であれば、毎日続けようとも体力的にはなんら問題はなかった。
重たい荷物を抱えながら階段を上り下りしても息切れ一つしないし、翌日の筋肉痛とも一切無縁、僕の体は丈夫かつ、驚くほど疲れ知らずだ。
こんな細い体のいったいどこに、これほどのパワーがあるのか不思議ではあるけれど、頑健な肉体と無尽蔵の体力のおかげで日々楽しく働けている。
記憶を失う前は体を鍛えていたのかもしれない。
そんなこんなで、最近はメイドとしての仕事ぶりもだいぶ板についてきたと自負するところではあるけれど――。
「うーっ、うぅーっ!」
衣類の洗濯と、その収納に関してだけは、どうしたって冷静ではいられない。
浴室の掃除を終えた後、僕はアリス様の寝室で悲鳴に近い唸り声を上げながら、女性用下着であるショーツ、もといパンツを丹念に折りたたんでいた。
「アリス様ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
脱衣所で無造作に脱ぎ捨てられていたご主人様の下着類。
それらをすべて綺麗に洗濯し終えてから、一つずつ丁寧に折りたたんで寝室のタンスに収納するのも、来栖野家唯一の使用人である僕の役目なのである。もちろん、ちゃんとブラジャーの収納方法だって心得ている。たとえそれがAAAカップであろうとも、強引に小さく折りたたんでカップの形状を押し潰すなんていう初歩的なミスは絶対にしない。
すべてのブラジャーは余裕をもって、全体的にふんわりと優しく収納するべきなのだ。
「それにしてもどうして、勝負下着ばかりがこんなに……」
普段物静かなアリス様からは想像もできない、やたらと布面積の小さい攻撃的なフォルムの下着たち。その色も赤や紫など派手な色合いのものが多く、ぞくに勝負下着と呼ばれるものをアリス様は好んで着用しているようだ。
人の内面は、見かけによらないということだろうか。
などと、どうしようもないことを考えながら、手元の洗濯カゴから妙にふかふかとした下着を手に取る。それは淡いピンク色で、デザインもシンプルなパンツだった。
「あ、よかった。アリス様もたまには普通のやつを履くんだ」
その可愛らしいパンツをいそいそとたたみながら、僕は微笑み、そして安堵する。
ただ冷静になって考えてみると、ブツブツと呟いて女性用のパンツを掴み取り、一喜一憂しながらそれらを入念に観察するなんて、まぎれもない変態の所業だった。
「そうか。もう引き返せないところまできてしまったんだね」
僕は黄昏ながらも、滅私奉公の精神でもって、自らに課せられた業務を完遂するべく雑念を消し去ろうとした。
「あれ、ちょっとまてよ?」
ところが、タンスの下段に広がる色とりどりの勝負下着の海に、いざパンツを収納しようとすると、突然ある疑念が脳裏をよぎった。
「ま、まさか……」
僕は手を震わせながら、今さっき丁寧に折りたたんだばかりの淡いピンク色のパンツを再度広げ、ウエスト部分に縫い込まれたラベルを覗き見る。
そこには黒い太文字で〝こはる〟と書かれてあった。
「ああああッ! これ僕のパンツじゃん!」
絶叫がアリス様の寝室にこだまする。
な、なんで!? どうして自分の下着がここにあるのっ!? 僕とアリス様の着衣は必ず分けて洗っているから、混ざることなんて絶対にないのにっ!
いや、まてまて、冷静になれ。
これは単純なミスだ。起きてしまったことは仕方がない。再発防止に努めるしかない。
それに今の僕は一応女性なんだ。アリス様だって、僕のことを女性だと認識している。
たとえ、これまでに何度も洗濯物の中に自分の下着が混ざっていたのだとしても、僕が男性だと露見しない限り大事にはならないのだから、焦る必要なんてないんだ。
「バレなければ問題ないか。うん」
僕は神妙な面持ちで何度かうなずくと、握り締めていた自分のパンツを足元の洗濯カゴに投げ入れた。
「でも、もし、もしも僕が男だってアリス様に知られてしまった時は、どうすればいいのだろう。土下座なんかで許されるのかな?」
自分は命の恩人を騙し続けたんだ。
なにもかもが露見した場合は、日本男児として、潔くケジメをつけるべきだろう。
「やっぱり、切腹?」
でも、それはそれで結局アリス様の迷惑になってしまうだろうし、もう少し穏便な方法で済ませるとなると。
「……もしくは手術を、受けるしかないのかな」
自分の下腹部を見つめながら、僕はただただ震えるしかないのであった。
それから数時間、僕は湧き上がる様々な不安を頭の中から消し去るために、鶺鴒館の清掃に延々と没頭した。
リビングとダイニングとキッチン、書斎、サンルーム、エントランスホール、お屋敷二階の空き部屋、屋根裏部屋に至るまで、全力で掃除し尽したのである。
ふと気づいたころには日もだいぶ傾いていて、淡い黄金色の西日が、長く伸びた影を伴いながら、無点灯の照明に代わって薄暗い室内をぼんやりと照らしていた。
「はぁー、休憩しよう」
体力は無尽蔵にあるので肉体面での疲労は一切感じていなかったものの、精神面の疲労が凄まじい。僕は掃除を終えたばかりの二階の空き部屋を出ると、すっかり使い慣れた掃除用具を片手に持ちながら、西日に彩られた廊下をとぼとぼと歩く。
歩くたび、身体の奥底で、錆びついた機械部品が軋みを上げたような気がした。
掃除用具を片づけてから階段を降り、一階の自室へ向かう。ほこりがついて汚れてしまったメイド服を自室で予備のものに着替え直すと、そのままベッドに背中から倒れ込む。
「んーっ、疲れた」
靴を履いたまま、床に足裏をつけた状態で、ベッドの上で大きく伸びをする。
肩から余分な力が抜けて、なんとも心地いい。
目を閉じて、そのままジっとしていればすぐにでも寝てしまうだろう。
けれど、午後五時にはアリス様が帰ってくるので、このまま寝つくわけにもいかなかった。
睡魔の誘惑を振り切って起き上がると、あっちこっちに広がってしまった長い髪を簡単に整えてから立ち上る。
僕の髪の毛は淡い金色で、癖もなくて綺麗ではあるのだけど、とても長いから頬にかかったり口の中に入ったりして鬱陶しいことこの上なかった。
「この髪、長くて邪魔だし、いっそのこと切っちゃおうかな?」
なんとなく耳のあたりを指ですいてみると、軽い手触りと共に、肩にかかる髪の束が指先からこぼれ、金砂のようにさらりと流れ落ちていく。特別な手入れをしているわけでもないのに絹さながらの手触りだ。
「やっぱり、やめておこう。髪は長いままのほうが安全だよね。なにが切っ掛けになって性別を追及されるかわからないし」
さて、これからどうしたものかと呟きながら、僕はベッドの枕元に置いてある目覚まし時計に目を向ける。時間は、午後四時の少し前。夕食の仕込みならすでに完了しているので、早急に片づけなければならない仕事はもうなかった。
「ひさしぶりにクッキーでも焼こうかな?」
じつはキッチンの戸棚の奥に、メーカー不明かつ生産国も不明、そして異様に溶けにくいという怪しげな板チョコレートが大量に保管されているのだ。少し食べてみたが、カカオの風味が乏しく砂糖の塊かと疑うほど甘ったるいので、おそらく外国製のものに違いない。
ただ栄養補給には最適なので、小腹が空いた時のおやつとして、切れ込みにそって半分に割ったものをメイド服のポケットに忍ばせてある。異様なまでに保存性の高い板チョコなので、きっと溶けはしないだろう。
そのままかじっても、まったくおいしいとは思えないメーカー不明かつ生産国不明の怪しいチョコレートだが、細かく砕いてクッキー生地に混ぜてしまえば、あの甘ったるさもちょうどよいアクセントになるだろう。
僕は何種類かのクッキーを思い浮かべながら自室を後にする。
アリス様が帰ってきたのはその四十九分後だった。
ちょうどクッキーが完成したタイミングで、車が正門を通過する音を察知した僕は、主人の帰りを知った飼い犬みたいに、エントランスホールへと駆け出していた。
「おかえりなさいませ、アリス様」
「ただいま。小春、これ……」
アリス様は鞄の中から、鳥柄のバンダナに包まれた小ぶりなお弁当箱を取り出して、そっと僕に手渡す。お弁当箱は軽かった。ふたを開けずとも、完食されていることがわかって自然と頬がほころんでしまう。
「小春のお弁当、今日もおいしかった」
「ハンバーグ、どうでした?」
「絶品だった」
「よかった。また今度作りますね」
「うん。……そういえば、なんだか甘い匂いがする」
すーっと、かすかに鼻を鳴らして、アリス様は室内の空気を深く吸い込む。自分の鼻は慣れてしまってわからないけれど、おそらく砂糖とバターの焼ける甘い香りが室内に充満しているのかもしれない。
「じつはクッキーを焼いてみたんです。あとで一緒に食べましょう。ちなみに今日の夕食は、クリームシチューです」
「わーい」
アリス様は、ぬぼーっとした仏頂面のまま両腕だけを使って感情を表現する。
よかった。表情は相変わらずだけど、なんだかとても嬉しそうだ。
「…………」
しかしながら、僕は自分の料理に対して一つ悩みを抱えている。
世界的な資産家であるというアリス様に対して、僕は庶民的な料理しか提供できていないのだ。一応、手の込んだ料理もそれなりに作れるが、買い出しを禁止され、使える食材が限れている現状では、カレーとかシチューとか唐揚げとか、どうしてもありきたりな料理ばかりになってしまう。
アリス様は、ほとんど好き嫌いなく、僕の料理をおいしいと言って食べてくれるけど、あといくらかは料理のレパートリーを増やしておきたいというのが本音だった。
「まだちょっと早いですけど、もう夕食にしちゃいますか?」
「そうする。着替えてくるから準備しておいて」
普段よりも早口でそういうと、アリス様は自室へと駆け出した。その小さな後ろ姿を見送ってから、僕は再度キッチンへと向かうのだった。




