第61話 張飛と黄忠
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呉の先鋒である潘璋は中軍の混乱を知らされないまま江陵に向かっていた。
「江陵までどれくらいだ?」
「日が高くなる前には到着する筈です。」
「それなら一旦休息を取るか。」
潘璋は江陵へ奇襲を掛ける前に休息を取り万全の体制で臨もうと考えた。
「てめえら何者だ?」
高台の方から声が聞こえた。潘璋がその方角を見ると馬に乗った図体のでかい男の姿が確認出来た。その男は不気味な笑みを浮かべながら潘璋を見ていた。
「何者とは何だ!」
潘璋は山賊あたりが呉軍と知らずにちょっかいを出してきたと思っていた。
「名前も名乗れねえのかよ、しけた野郎共だ。まあいい、お前らが何者かは既に分かっているからな。」
「貴様、何者だ?」
男の返答に潘璋は違和感と何とも言えない恐怖感を覚えた。
「俺か?俺は燕人張飛だ。劉備玄徳の弟だと言えば分かるか?」
「まさか…。」
潘璋は思考能力を失った。漢中の南鄭に居る筈の張飛がなぜ荊州に居るのか、なぜ我々の荊州侵攻を知っていたのか、情報が漏れたのか、裏切者が居るのか…。考えれば考える程理由が分からなくなった。
「まさかだと?人の庭に土足で入りやがって覚悟は出来てんだろうな!」
張飛は得物である蛇矛の切っ先を潘璋に向けた。
「て、敵襲だ!態勢を整えろ!」
我に返った潘璋は馬首を張飛の方へ向けた。
「行くぞぉ!」
張飛は猛然と潘璋に襲い掛かった。雷同以下の将兵も姿を現して獰猛な虎の如く呉軍に牙をむいた。
*****
「こいつは化け物なのか…。」
「てめえの力はそんなものか?」
恐怖に慄きながらも攻撃を仕掛ける潘璋の槍さばきを張飛は軽々と往なしていた。主将の危機を見て助けに向かおうとした呉軍兵士は雷同たちによって次々と排除されて味方の数も少なくなっていた。
「こうなったら血路を切り開いて中軍と合流する他…。」
「味方と合流?そんな事出来るとでも思っているのか?」
張飛は小馬鹿にした態度で潘璋を笑い飛ばした。
「何とでもほざけ!」
潘璋は死の恐怖に晒されながら必死になって突きを繰り出した。
「張飛将軍、呉は中軍の一角が馬超将軍の奇襲を受けて大混乱、敵将蒋欽を負傷させた模様です。」
「何!?」
潘璋は手を止めて報告を行った漢中軍兵士の方に顔を向けた。ほんの一瞬の事だった。
「一騎打ちの最中、相手から目を離せば…、」
張飛の蛇矛が潘璋の喉元に深々と突き刺さった。
「負けるに決まってるだろうが!」
張飛は力任せに潘璋の身体を馬から突き落とした後、先端が血に染まった蛇矛を天に向けて掲げた。
*****
蒋欽が負傷して身動きが取れなくなった中軍の一部は早々に潰走し始めた。異変に気付いた呂蒙と凌統は救援に向かおうとしたが馬超による断続的な突破攻撃で近づく事が出来ない状態だった。
「蒋欽将軍は漢中軍に捕らわれたようです。生死は分かりません!」
「漢中軍め小癪な真似を!」
呂蒙は怒りで顔を真っ赤に染めていた。理由が分からないまま漢中軍の攻撃を受けたあげく蒋欽が行方不明になってしまい計画が大崩れしたからである。
「大都督、一旦江夏まで引いて軍を立て直しましょう。兵力的にも挽回は可能です。」
凌統は呂蒙とは正反対で周囲の状況を冷静に捉えており江夏へ退却して次の機会を窺うべきだと考えていた。
「分かった。誰か、先鋒隊の潘璋と朱桓にもこの事を知らせろ!」
「承知致しました。」
呂蒙は渋々といった表情で退却の指示を出した。先鋒隊への伝言を受けた兵士は足早に西の方へ向かった。
「貴様が呉軍大都督呂蒙だな?我が君を騙した報いを受けて貰うぞ!」
近くから呂蒙を非難する声が聞こえて来た。
「何だ?」
「我は漢中軍前将軍、黄漢升である。」
呂蒙が目を凝らして見た方向には黄忠が弓を構えて待ち構えていた。
「一体どうなっているのだ?」
「死ね!」
黄忠は必殺の弓を呂蒙に向けて放った。呂蒙は咄嗟に頭を下げた為、兜に命中したが怪我を負わせる事が出来なかった。
「ちっ、運の良い奴め。」
黄忠は弓を直すと長刀を握り直して呂蒙に向けて馬を走らせた。
「大都督、ここは某にお任せ下さい!誰か、大都督をお連れするのだ!」
混乱して身体が硬直している呂蒙は凌統の声が耳に入らなかった。凌統は近くに居た兵士に呂蒙をここから連れ出すように命じた。
「黄忠、この凌統が相手だ!」
「呂蒙を討ち取れると思ったが…、まあ良い。凌統よ心行くまで戦おうではないか!」
黄忠は呂蒙には目もくれず凌統に向かって長刀を振り下ろした。
*****
黄忠と凌統の戦いは互角。黄忠は戦いが長時間に及べば年老いた自分にとって不利になると互いの距離を取れる機会を窺っていた。
「ちっ。」
凌統の目に砂ぼこりが入って一瞬だが視線を外した。
「…。」
黄忠は何も言わず凌統から距離を置いた。
「逃げるのか?」
「逃げはせんよ。」
黄忠は素早く弓を構えると矢を放った。矢は狙っていたかのように凌統の右肩を貫いた。凌統はもんどりうって落馬して得物もそのはずみで手放してしまった。
「済まんな。」
「戦場では何が起きても不思議じゃない。さあ俺を斬ってくれ。」
凌統は利き腕が動かせなくなったので抵抗をする事を諦めた。
「凌統と言ったな。お主は劉孫同盟をどう思っておるのだ?」
「俺は同盟を捨てれば魏の思う壺だと思っている。しかし我が君が同盟を破棄すると言った以上従うのが筋だ。」
「孫権自身から聞いたのか?」
「将たる者、政に介入してはならないというのが俺の持論だ。俺はその件については大都督から聞いたのだ。」
「分かった。我らと同じ考えを持つ者を斬るわけにはいかん。」
黄忠は馬から降りて凌統に簡単だが手当を施した。凌統は唖然とした表情でそれを受けていた。
「儂はお主と同じ考えだ。魏を倒すために劉孫が対立してはならんのだ。」
黄忠は兵士に命じて馬を用意させた。凌統の馬は怪我をしており人を載せる事が難しくなっていた。
「ここで俺を逃がせばまたお前たちと敵対するかもしれんぞ。」
「何度でも来るとよい。同じ考えを持っている限り何度でも追い返してやろう。その考えを捨てた時には遠慮なく斬らせて貰う。」
黄忠の言葉に凌統は無言のまま一礼すると踵を返して東へ馬を走らせた。




