二千百九十一話 魔王級半神のミトリ・ミトン
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聖なる滴を口に含んだ瞬間、わたしの魂はシュウヤ様の血脈へと逆流し、溶け合いました。
……熱い。けれど、それ以上に重い。
同時に、彼が抱える神格、彼の魂の深淵に鎮座する「神座」の質量が、わたしの意識を押し潰そうと襲いかかります。彼自身の「俺であって、俺ではない何か」という心の想いと共に。
昏い副作用の感覚が、わたしの胸を締め付けました。
「俺」という個が、巨大な理と異次元の浸食に削り取られそうになりながらも、相棒の神獣を楔として、それを定命の人の心のまま凌駕し踏み止まる心の強さ。なんという……ことでしょう。絶望的な深淵の只中にあっても守り続けていた温もりがあるからこその、強さと苦悩……決して揺らぐことのない信念、魔毒の女神ミセア様が甘美さに酔いしれるのも分かります。半神のわたしでさえ、これほどまでに魂を震わせるのですから。
〝知記憶の王樹の器〟を返す手が震えて……。
「……あぁ、シュウヤ様。あなたは、これほどまでの……。神という巨大な理に己を削り取られる『個の消失』の恐怖に、独り耐えておられたのですね。すべては、わたしたちを守るため。その純粋すぎる血の決意に……眩暈がいたします」
誠の信……その血の意思で、わたしたちをも守ろうとするお姿に、心が震えます。
深く沈んでいた心が浮き上がるような嬉しさと、熱く波立つような想いに満たされていきました。
神槍ガンジスに嵌まる神魔石が、わたしの『聖なる膜』と共振して狂おしいほどの輝きを明滅します。
その光はあまりにも眩く……。
――光の散乱振幅、Transition Amplitude。
光の洪水の中で、わたしは確かに視ました。
光の宝石、光の戦士。そして、清冽なる水の神氣を。
古の戦神の咆哮と、その像の群れ、神界セウロスの神々が、確かに息衝いているのを。
東西南北を司る強大な四神の影――この世界の楔そのものを、肌で感じたのです。
それ以外にも……かすかな匂いがある。
シュウヤ様の背負う「縁」が、幾重もの神話となってわたしの回路を焼き焦がさんばかりに溢れ出します。
あぁ……同時に視えました。魔界の秩序を定義し続けている強大な神の系譜――。
恐王ノクター、悪夢の女神ヴァーミナ、吸血神ルグナド、魔命を司るメリアディ。
ルグナド、キュルハ、レブラが結んだ三神同盟とも異なる、シュウヤ様の縁で紡がれた五派連合の大同盟を束ねるべき盟主たち。これまで魔界の一部の理を規定してきたのは、その四つの頂点でした。
けれど今、シュウヤ様という超越的な「核」がその中心へと貫入し、歪な均衡は崩れ去ったのです。
散乱し、もつれ合う運命の糸が、彼を起点として完璧な五角形の理へと再定義されていく。その歴史的転換の脈動に合わせ、銀色の滴がわたしの周囲で狂喜乱舞するように舞い踊りました。
――これは、わたしの最も古い記憶。
ライムランの結晶雲が広がる、三十八の銀翠の日にわたしは生まれました。
古来より大戦場として血を吸い続けてきた大平原コバトトアル。その一角にあるライムランの結晶雲とアバドンの丘もまた、例外ではありませんでした。
時代と共にアバドンの丘を制する者は、覇王と呼ばれることが多くなっていきました。
暴虐の王ボシアド、狩魔の王ボーフーン、欲望の王ザンスイン、破壊の王ラシーンズ・レビオダ、宵闇の女王レブラ、狂気の王シャキダオス、闇神リヴォグラフ……諸侯を含めれば切りがありません。
数多の王たちがこの地で理を叫び、そして散っていったのです。わたしはその殺戮の余波を、ライムランの結晶雲の下、震えながら見つめるだけの微小な「点」に過ぎませんでした。
しかし、大平原コバトトアルは広大であり、血塗られた戦場の地にも、微小な点として、わずかな平穏が存在したのです。
泥濘に沈んだ大魔塔の廃墟、その冷たい影の中で、わたしはただの『現象』として産み落とされました。親も、名も、温もりさえも持たずに……。母や父という概念すら、ずっと後になってから知ったほどです。
しかし、わたしと最初に魔線が繋がっていた、黒髪で光の衣を纏った幻影はいました。彼女が母であり生み親なのでしょうか。今となっては分かりません。女性の幻影はすぐに散ってしまいました。
一人、底なしの絶望の泥濘の中で、飢えた魔獣と戦の残党、魔傭兵団、諸侯の兵士たちに囲まれるように過ごしたのが、わたしの幼少期です。
ただ「どこかへ行きたい」ではなく「ここに居ていいという壁が欲しい」と……。
そんな生きるための戦いの中で、血を吐く思いで祈った瞬間に生まれた、最初の銀色のブッティちゃん。わたしの祈りに応えたのは魔神ではなく、己の<灰銀翠>だったのです。
けれど、<灰銀翠>の輝きさえ、魔界の悪意は容易く呑み込んでしまうのです。
そして、魔傀儡師ホーク。その名を想起するだけで、かつて剥がされた皮膚の裏側が、神経の一本一本が、冷たい針で刺されるように疼き出します。わたしの『個』を奪い、物言わぬ傀儡の核へと堕とそうとしたあの大罪……消滅していった銀色のブッティちゃんたちの断末魔。彼らが自らを『散乱の盾』として霧散させた瞬間の光景が、今もわたしの網膜に焼き付いて離れません。だからこそ、わたしは二度と奪わせない。シュウヤ様が与えてくださった、この『絆』という名の理を。
あの絶望の泥濘の中で、わたしを拾い上げてくれたのが、天を衝くほどの巨大な孤独の化身――大厖魔街異獣ボベルファだったのです。その山のような巨躯から漏れ出たのは、威圧ではなく、わたしと同じ『居場所を持たぬ者の震え』でした。
「――お前も、居場所がないのか」
……言葉ではありません。
それは、巨大な質量を持った孤独の共鳴でした。
巨獣の魂とわたしの絶望が時空を越えて結びつき、深く溶け合いました。
わたしは〝魔霊脳ボベルファの場〟という新たな理の回路へと接続され、その担い手として産声を上げたのです。
それでも前途多難の日々は続き、魔界王子ライランの所領に到達するまでも、ベラムフ魔街異獣の群れに追跡を受けました。
同じ魔街異獣でもボベルファのように『担い手』を得た個体は少なく、無主のベラムフたちにとってわたしたちは羨望と憎悪の対象だったのでしょう。魔街異獣も様々です。
そのシュウヤ様と出会えたことは、奇跡のような幸運でした。
彼は<魔街異獣の担い手>としての試練をあっさりと乗り越え、わたしたちを導いてくれたのです。彼に頼まれ、鬼魔人たちを背に乗せてバーヴァイ地方を目指した道のり……。
魔界王子ライラン、厖婦闇眼ドミエル、そして因縁の魔傀儡師ホークらに追われ続ける過酷な旅でしたが、ザンクワたちの奮闘もあり、なんとかここまで辿り着くことができました。
だからこそ、わたしの『聖なる膜』は、もう、孤独を癒やすための壁ではありません。
皆とシュウヤ様の背を、世界の果てまで支えるための「盾」へと変質したのです。
「……光、闇、水、血の輪郭、あるいは、絆という名の五つ目の理」
杖の先から放たれる多重魔線は、もはや単なる支援魔法ではありません。
知記憶の王樹キュルハ様の恩恵は凄まじく、記憶を伝えることは、散り乱れる中でも、可能――。
散乱し減衰していく、その情報の欠片。
魂のもつれ――。
上下に揺れる魔力密度――。
再び――魂のもつれ、Entanglementを通じて再構成する儀式。
その始と終の最短距離を、わたしとシュウヤ様の、極性の異なる魔力を合わせることで導き出す。
そして戦場の混沌を『愛』という名の単一の位相へと収束させるのです。
理と理、もつれは同じ。
トポロジー的に、その構造を通じての連続変形――。
Continuous Deformationしていく、この法悦。
心が溶け合う、この刹那。
……これこそが、命を繋ぎ、時空さえも越えて想いを届けるための、わたしたちだけの真理。
シュウヤ様を脅かす精神的な負荷――神座の重圧と、彼を呑み込もうとする異次元からの侵蝕。
絶対の命綱。神槍の石の理、神魔……わたしの<聖なる膜>と同じ……。
そのわたしを通じてボベルファという巨大な器へと分散し、大地へ逃がす。
彼の最奥で彼を護る無二の相棒と共に、わたしとボベルファもまた、彼の「個」を定命の側に繋ぎ止める外周の精神的な避雷針であり、絶対の命綱。
視界の先、アスタロト軍の魔将たちがこちらの異常な脈動に氣付き、その仮面の奥の瞳を細めます。
敵は、魔界の理そのものを食い破り、再構築しようとする「光魔の胎動」として、最大級の警戒を向けているのです。
「わたしは、もう、犠牲を数えるだけの半神ではありません……!」
ボベルファが、天地を揺るがす「ボォォォォン!」という咆哮を上げました。
それは過去の肯定。ホークに奪われた誇りも、消えていった姉妹たちの祈りも、すべてはこの瞬間のための「散乱」だったのだと。わたしはもう迷いません。
この銀色の膜を、シュウヤ様の道を切り拓く究極の剣に、彼を護り抜く不滅の「盾」へと変えてみせます!
キィィンと耳鳴り――。
あぁ、視界の端で――神獣ロロディーヌが放つ橙色の神炎と、孔雀の羽根のような触手が敵陣を蹂躙する光景が見えます。けれど、その勇猛な咆哮さえも、今のわたしには遠い星の瞬きのようにしか感じられない。
――いいえ、今の思考、異次元からの侵蝕、わたしにも影響を及ぼしていた――そう、あれは嫉妬。光魔ルシヴァルの<血魔力>がもたらした、昏い感情の揺らぎでしょう。先ほどの『わたしだけ』という思い上がりも、それが生んでいたのかもしれません。
――その想いをも糧にしているからこそ、この銀色の膜は、その絶対的な二人の繋がりごと抱きしめ、護ることができるのです。異次元の侵蝕というノイズから彼らを遮断する、強固な防壁として!
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