二千百五十八話 血に染まるロケットとサーマリアの夜明け
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部屋を支配していたのは、外の喧騒を遠くへ追いやるような、奇妙な静寂だった。
机の端、鈍い光を放ち続けていた〝古い骨の破片〟。
かつて闇神リヴォグラフの魔力が、私の脳髄を灼き、狂氣の淵に突き落とされかけた時、少年のプルトーが『理由など要らぬ』と差し出してきた魂の楔。
それが今、最後の一際眩い赤黒い輝きを放ち――。
あまりに脆く、虚しく、粉々に砕け散った。
「……逝ったか、プルトー」
枯れ木のような指先で、砕けた骨の粉を慈しむように撫でる。
実の子を亡くし、空虚な『影』としてのみ生きてきた私に、お前はもう一度『親』としての重みを与えてくれた。
血の繋がらぬ魔族のハーフとして蔑まれ続けたお前と私の間には、確かに絆があった――。
そこで、あえて、窓硝子を覆っていた防壁を解除した。
眼下には、戦場と化した王城が広がっている。
「ひ、ひぃぃ……! 閣下! 何をしているのです! 防壁を解除したら侵入されますぞ! 早く脱出の暗号を! 隠し資産の魔導鍵はどこですッ!?」
部屋の隅で喚き散らすドイガルガを、ロルジュは冷徹な眼差しで見据えた。
「見苦しいぞ、ドイガルガ……貴公はセナアプアという『光』の頂に立ちながら、その実、己の保身という名の泥沼に首まで浸かっておるのだな」
「な、何を……!? 王太子たちの軍が、すぐそこに!」
「黙れ……サーマリアという国が、いかなる理の上に成り立っているか、貴公には到底理解できまい。ここは六百年前、魔王級の魔族と人族の英雄が、血の盟約を交わして築き上げた『黄昏の揺り籠』だ」
「何を今更……」
「いいから聞け……」
「あ、病弱の王を利用できないか!」
ドイガルガの言葉にロルジュは無言で、応え、ゆっくりと椅子に深く腰掛け、背筋を正した。
「……王の血は腐っておるのだよ、ドイガルガ……」
「腐っている? 死んでいると言いたいのか?」
「……言い得て妙だが、陛下が病床に臥せっておられるのは、単なる老いではない……人族の器が魔族の血に耐えきれず、魂そのものが崩壊を始める未知の魔族病だ……。ガリウスら裏の王族が、吸血神ルグナドに連なる吸血鬼と血の盟約を結び、秘宝たる血業大魔石の力を用いて、陛下を『生ける屍』として辛うじて繋ぎ止めている……それが、この国の寒々しい真実だ」
「な、何だと……? 陛下が、そのような……」
ロルジュは窓の外、炎に包まれる王都を見下ろした。
「建国王の直系たるガリウスたちが、吸血鬼の力を用いてまで王を延命させてきたのは、盟約の要である王家の血を絶やさぬため。だが、それはあまりにも脆い均衡だ。だからこそ、我ら貴族が『影』としてこの国を支えねばならなかった」
「影、だと……」
「そうだ。外海を睨み、他国の侵略を牽制するラスニュ侯爵の【黒薔薇の番人衆】。内部の膿を切り捨て、恐怖で統制を敷いたヒュアトス侯爵の【暗部の右手】。そして、我が【ロゼンの戒】は、国家の抑止力たる武と陰の支配のための【ロゼンの戒】に、独自の魔科学を裏で練り上げてきた。すべては、病弱な王に代わり、このサーマリアの独立を保つためだ」
ロルジュの低い声が、静かな部屋に響く。
「ソーグブライト王太子は輝かしい『光』だが、魔王級の力が宿らぬあの若芽に、四方を囲まれたこの国を導くことはできん。私は、古都市ムサカの遺物の力を王の代わりに据え、サーマリアを真の覇権国家へと造り替えるはずだった。……だが、敗れた。盤の外から現れた【天凜の月】……槍使いと、黒き獣……光魔ルシヴァルと聞いたが……あやつらの規格外の駒を読み違えた時点で、六百年の歴史を背負った我が戦略は灰燼に帰したのだ」
「……た、戯言だ! 勝ち負けなどどうでもいい! 私は、私は生き残らねばならんのだッ!」
ドイガルガが狂ったように叫ぶ。
だが、廊下の向こうから凄まじい破壊音が響き、魔鋼の扉がひしゃげる音がした。
「生き残る、か……」
ロルジュは震える手で、小さな銀のロケットを手に取った。
蓋を開ければ、そこには実の妻子たちの肖像画。その横に、プルトーが遺した魂の欠片がある。
「プライドも、共に歩んだ同志への哀悼もなく、ただ呼吸を続けることに何の価値がある。プルトーは、自らを薪にして最期まで私の『盾』として散った。あ奴の死は、ロルジュの矜持そのものだ。……ならば、その親である私が、敵に首を垂れて生き恥を晒すなど、あ奴への最大の侮辱になろう」
ロルジュは静かに、白鞘の短刀を抜いた。
「ひっ」
恐怖したドイガルガを見て、微笑むロルジュ。
「……ドイガルガよ。貴公は最後まで『鼠』であったな。泥水を啜ってでも生き延びるがいい。だが、その先に待つのは、誇りも絆も失った、ただの空虚な時間だ」
白刃に映るのは、恐怖に顔を歪めるドイガルガの醜態と、対照的に、すべてをやり遂げた老人の穏やかな顔。
「待たせたな、プルトー。今、行くぞ――」
ロルジュは己の首筋に冷たい刃を当てると、一切の迷いなく、力を込めて真横へと引き抜いた。
溢れ出した鮮烈な紅が、机の上の肖像画を、そしてプルトーとの最期の絆であった骨の粉を、温かく、深く染め上げていく。
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分厚い魔鋼の扉を、ハンカイの金剛樹の斧が叩き割る。
轟音と共に扉がひしゃげ、俺たちはロルジュ公爵の執務室へと雪崩れ込んだ。
「――そこまでだ、ロルジュ公爵!」
レオンが炎の剣を構え、ガリウスが青白い魔剣を抜いて部屋の中へと踏み込む。
俺も魔槍杖バルドークを構え、背後にはユイ、カルード、相棒の黒豹が続いた。
だが、部屋の中はすでに戦闘の空氣を失っていた。
「……遅かったか」
ガリウスが短く呟く。
豪奢な机の前には、一人の老人が椅子に深く腰掛けたまま、静かに事切れていた。
その首元からは一筋の鮮血が流れ、机の上の銀のロケットと、古い骨の粉を温かく染め上げている。
――自刃。
王都を混乱の渦に陥れ、ムサカで数多の血を流させた元凶、ロルジュ公爵の最期か……。
その顔に恐怖や後悔はなく、すべてをやり遂げたような、どこか穏やかな表情すら浮かべていた。
「ヒィィィッ! た、助けてくれぇぇ!」
部屋の隅で、ガタガタと震えながら縮こまっている男がいた。
元上院評議員、ドイガルガだ。
「……ドイガルガ。逃げ切れるとでも思ったか?」
カルードが流剣フライソーを構え、冷酷な眼差しで歩み寄る。
ユイもアゼロスとヴァサージを下げたまま、ゴミを見るような視線を向けた。
「ひぃッ! わ、私は無理やり従わされていただけで! そう、この公爵がすべて企んだのだ! 私はただの被害者で――」
「黙れ、下衆が」
レオンの炎が燃え上がり、ドイガルガの首元へ剣の切っ先が突きつけられる。
恐怖で泡を吹いて気絶しそうになるドイガルガを見て、俺は小さく息を吐いた。
「……カルード、レオン。殺すのは待て。こいつはまだ『生かして』使う価値がある」
俺の言葉に、レオンが剣を引き、カルードも一歩下がる。
「シュウヤ殿。この外道をどうするつもりだ?」
「そいつは、塔烈中立都市セナアプアで多数の学生やその家族を犠牲にした……ネドーでの大虐殺の片棒を担いだ重要人物でもある。それに、ソーグブライト王太子がサーマリアを完全に掌握し、ピサード大商会や軍需派の連中を政治的に追い詰めるための貴重な『生き証人』だ。ここで殺して口を塞ぐより、法と民衆の前で洗いざらい吐かせた方が、王太子の覇道には役に立つだろう?」
ガリウスが腕を組み、納得したように頷く。
「……なるほど。王太子の正当性を示すための供物というわけか。悪くない、今の王位もすんなりと移行できる」
王位か、そう言えば、この国の王はなにしてんだ?
まぁ、かつてのオセべリア王国の王も、酷いなんてもんじゃなかったからな。
気絶しかけているドイガルガを、視線で合図してヘルメの<珠瑠の花>が放つ光の紐で縛り上げさせてから、俺は再び、静かに眠るロルジュ公爵の骸を見つめた。
机の上の銀のロケットと骨の粉……。
彼もまた、彼なりの矜持と『家族』のために戦っていたんだな。
「……ユイ、カルード。……お前たちから見て、この男をどう見る」
問いかけると、ユイは静かに双剣を鞘に納め、
「……ヒュアトスと同じ。でも、彼には彼なりの守るべきものがあったのでしょうね。……同情はしないわ。でも、軽蔑もしない」
カルードも静かに頷いた。
「影に生きる者としての矜持……最期は武人として散ることを選んだのでしょう。我々の過去とも、少し重なる部分があります」
「ンン……」
相棒の黒豹が、血に染まったロケットを不思議そうに鼻先で嗅ぎ、短く鳴いた。
魔槍を消し、夜風が吹き込む窓辺へと歩み寄った。
王都を包んでいた戦火の煙の向こうから、白み始めた朝の光が差し込んできている。
長かったサーマリアの夜が、ようやく明けようとしていた。
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