第一章DM 第九節「筋肉マンと女郎蜘蛛」
ジョージアへの旅立ちを前に、ユーサクはいつものジムへ向かう。
そこには相変わらず騒がしい仲間たちが待っていた。
そんなくだらないことを考えているうちに、ジムに着いた。
「おい、筋肉マン。元気か?」
「ユーサクさん、こんにちは。今日は遅かったですね」
筋肉マンとは、僕が勝手につけたあだ名だ。本名はカズヤ。インストラクターをしている。身長百八十五センチ、体重八十五キロ。太い眉に細い目。最近、ボディービルの福岡大会で優勝したらしく、やたらと自慢げだ。確かに大したものだが、正直、あの盛り上がりすぎた筋肉は少々グロテスクだ。
しかも、真っ黒に焼いた肌が余計に迫力を増している。まるで、炭化したギリシャ彫刻だ。だが、教え方は抜群に上手い。筋肉マンの指導通りにトレーニングすると、狙った通りの筋肉がちゃんとつく。その点は、密かに一目置いている。
口には出さないけど……。
「おい、筋肉マン。身長と体重、測れ」
「またですか。昨日と変わりませんよ、たぶん」
僕はジムに来るたび、欠かさず身長と体重を測る。そして、それを毎回、ボタンに茶化されるのだ。
ボタン。四十八歳。僕と同じ個人投資家。アヤメとは正反対の女だ。艶めかしいと言うのか、妖艶と言うのか、話していると、胸焼けがしてくる。身長百五十センチ、体重五十キロ……たぶんそのくらい。以前そう言ったら、顔を真っ赤にして怒った。ということは、図星なのだろう。大きな目と、豊かな胸をやたらと強調してくる。正直、鬱陶しい女だ。
だが、美人であることには間違いない。
しかも今は、二十八歳の筋肉マンを狙っている。トレーニング中も、ことあるごとに身体を押しつけ、まるで蜘蛛が獲物を包み込むように絡みついている。
まさに、ボタンこそ、「女郎蜘蛛」と言う言葉が相応しい。
「名は体を表す」というが、「牡丹の花」のイメージ、ぴったりだ。ただ、筋肉マンも満更でもない所が、興味深い。僕が、ジョージアに行っている間に陥落するのか、見ものである。
「ええっと、身長が百六十八センチで……体重が六十キロですね。昨日と変わりませんね。ユーサクさん、もう少し太りましょうよ」
筋肉マンは真顔で言うが、僕は笑って受け流す。彼は僕を、自分のような筋肉の塊に仕立て上げたいらしい。冗談じゃない。僕は、細身で筋肉質くらいがちょうどいいのだ。
「それとさあ、二、三ヶ月、休むから。もしかしたら、半年くらい、休むかも?」
「えっ! なんで?」
横から、ボタンがすかさず割って入ってくる。
「ジョージアに行くん」
「はぁ? グルジアのこと?」
さすがボタン。話がよく伝わる。筋肉マンが興味津々の顔を向ける。
「そう、それ」
「ユーサクさん、それ……まさか最近はやりの『国際ロマンス詐欺』じゃないですよね?」
筋肉マンが、面白がっているのか、心配しているのか、よく分からない顔をする。
「いや、違うし」
「えぇ? 本当にぃ?」
完全に面白がっている。ボタンの口角が、にやりと上がる。いやらしい女だ。
「大学の時の、元カノ」
仕方なく白状する。
「やるぅ」
ボタンが声を弾ませる。
「えっ! ユーサクさんって、もてるんですねぇ」
あーあ、筋肉マンまで馬鹿にしてきた。顔が半笑いだぞ。
「でも、ゆうちゃんって、彫りの深い顔が外人みたいで、かっこいいと思うよ。あたしはね」
「はっ? なん言いよん? 僕の人生でもてたことなんて一度もないし。この、団子っ鼻の、よった小さな目の、どこがもてるん?」
ボタンは、にやにやと笑いながら僕を見ている。
ああ、やられた。絶対に言い触らされる。ボタンのネタ帳に、しっかり書き加えられるだろう。明日には、ジム中の笑い者だ。
それでも、どこかで僕は微笑んでいた。このくだらない日常が、もうしばらく続いてくれたら……そう、ほんの少しだけ思った。
この時のユーサクは、まだ知らなかった。
この何気ない日常が、大きく変わろうとしていることを。




