第一章DM 第七節「白いソアラの記憶」
愛した人は亡くなっても、思い出まで消えるわけではない。
白い車の助手席には、今もアヤメの面影が残っていた。
まだ夕食までには少し時間があった。
落ち着かない心を持て余し、近くのジムに行くことにした。
車庫に出て、白いメルセデスEクラスクーペのドアを開ける。
内装まで白に統一したこの車の助手席に、まだ誰も乗せたことがない。
いつも空席のままだ。
カヲルは決まって、後部座席に座る。
前に乗っていた白いソアラの頃から、ずっとそうだった。
習慣なのだろうか。
それとも、助手席はアヤメの席だと思っているのだろうか。
「前に座ればいい」と勧めても、カヲルは頑なに首を横に振り、いつも少し気まずそうに、後ろのシートに体を滑り込ませる。
白いソアラ。
あれは、僕が大学を出て半年ほど経った頃に買った車だった。
塾講師として働き始めて、半年で貯めた五百万の中から、躊躇なく現金で支払った。中学生の頃から憧れていた車だった。ただ、アヤメには、相談もしていなかった。
納車の日。
アヤメを驚かせようと、新しいソアラでアヤメの家まで迎えに行った。
だが、玄関を出てきたアヤメの表情は、僕の想像していたものとはまるで違っていた。
「ゆうちゃん、なんであたしに相談しなかったの?」
「何を?」
「ソアラを買うことよ」
アヤメの不満が伝わってきて、ひりひりと胸が痛い。
「えっ? だって、車の話、大嫌いやん」
「それとこれとは、違うでしょ」
あの時のアヤメは、鬼のような形相だった。
「でも、大学卒業したら、好きな車のひとつやふたつ、買ってもよくない? 別にローン組んだ訳じゃないし……。現金で買ったのに……。それに、僕がソアラ欲しがってること、知ってたでしょ?」
「まさか、本当に買うとは思わなかったもん。普通、相談するでしょ?」
「いや、だって……」
アヤメは怒り出すと手に負えなくなる。どうしよう……。
「もう、はっきりして! あたしと、今すぐ別れるのか? 今すぐ結婚するのか?」
僕は、アヤメと結婚する道を選んだ。
大学を卒業した年の十一月二十四日。
僕が二十二歳で、アヤメが三十一歳のときだった。
結婚式もしていない。
結婚式の費用を貯めるから、一年だけ待ってと言ったのに、アヤメが言うことを聞かなかった。
籍だけ入れれば、それでいいと言うので、籍を入れただけだ。
だから、婚約指輪もない。
僕が好きだった、九十年代の、メグ・ライアンとか、トム・ハンクスとかが出ていたラブコメのエンディングみたいな、華やかな結婚式を挙げたかったのに……。
ただ、結婚指輪にカルティエのイエローゴールドの指輪を買っただけだ。
それから五年ほど経って、アヤメが、やっぱり結婚式をしたい、と言ったとき、僕はなぜか、腹の底から拒んでしまった。
もう、いいじゃないかと。
でも、あんなに早く死んでしまうのなら、してあげてもよかったなと、今更ながらに後悔している。
翌年、カヲルが生まれた。
別に早く結婚して、後悔はしていない。
アヤメと結婚したのは、間違いじゃない。
正しい選択だった……。
アナスタシアに会いに行こうとしているのに、心は何度もアヤメのもとへ戻ってしまう。
愛とは、死んでも終わらないものなのかもしれない。




