第二章出発 第四節「アナスタシアの娘」
娘だからこそ知っている、母の本当の気持ちがある。
アンナの何気ない言葉が、止まっていた二十八年の時間を静かに動かしていきます。
「……え?」
「だって考えてみてよ。お母さんってユーサクさんと同い年の四十八だよ。こんなに若くないでしょ。あたし、まだ十八だよ」
アンナは、黒地に大きな白いドットが散りばめられたワンピースを揺らしながら、挑発的に笑った。
胸元がV字に開いていて、少女と女の境界を、絶妙に漂わせている。
「まあ、確かに」
「おばあちゃんがよく言ってたの。『あんたは本当にお母さんの若い頃にそっくり。
時々、子供の頃のアナスタシアが帰ってきたのかと思って、どきっとする』って」
アンナは悪戯っぽく目を細めた。
その瞳の奥に、確かにアナスタシアの魂が宿っているように見えた。
「やっぱりそんなにそっくりなのね。だって……お母さんの『昔の男』が思わず間違うんだもん」
「おい!」
アンナは、わずかに唇を尖らせた。
その仕草のあとの、息をこぼすような笑い……。
それが、あまりにもアナスタシアに似ていた。
空気の温度がふと変わる。
時間が静かに逆流し、記憶と現実の境目が溶けあっていく。
僕は、二十八年前の夏の午後へ、再び引き戻されていた。
「そんなに見つめないで。……心配しなくても、お母さんのところへは、ちゃんと連れて行ってあげるから。ユーサクさんが、ずっと会いたくて仕方なかった人のもとへよ」
アンナは言いながら、いたずらっぽく笑った。
その笑みの奥に、少女らしい無垢と、母の面影とが、不思議に共存していた。
「うるさいな。それはそうと、僕のことはお母さんから聞いてたの?」
思わず声が乱れた。
「もちろん。だってお母さん、あたしが十歳のときにお父さんが出て行ってから、ずっとユーサクさんとの思い出ばっかり、話してたもん。『人生最大の失敗は、ゆうちゃんと結婚しなかったこと』、だって」
その言葉に、胸の奥が静かに熱を帯びた。
あのアナスタシアが、そんなことを……。
喉の奥が詰まり、うまく呼吸ができない。
アンナが、目尻を少しだけ下げて、微笑んだ。
その笑みは、若さの中に成熟した翳を宿していて、ぞっとするほど彼女に似ていた。
ああ、しまった……無意識のうちに、十八歳の少女に心を読まれてしまった気がした。
アンナは、人の心を透かして見抜く。
そんな、危うい輝きを持っている。
「それにしても、ずいぶん日本語が上手だね。お母さんに教わったの?」
僕は、逃げるように話題を逸らし、無理に声を明るくした。
「そうよ。それに、あたしたち三人は、お母さんが決めたルールで、家ではいつも日本語で話しているの」
「家で? 三人?」
「うん。外ではジョージア語だけど、家では日本語。『いつ日本に行っても困らないように』って、お母さんが言っていたの」
「いつ日本に行っても困らないように」。
その言葉が、胸の奥でゆっくりと沈んでいく。
遠い記憶の底で、波のように静かに広がっていった。
「あっ、言ってなかったけどもう一人、八歳の妹がいるの。エリナよ」
「エリナ……?」
「そう。かわいいよ、すっごく。お母さんに似て、金髪で目が青くて。でも性格はあたしと違って、恥ずかしがり屋なの」
僕は黙って頷いた。
分かってはいた。
あれから二十八年。
アナスタシアにも、家族がいて当然だ。
だが、実際にその事実を突きつけられると、胸の奥が、ゆっくりと軋む音を立てた。
「何、動揺しているの?」
アンナが小首をかしげる。
「ユーサクさんが二十八年もお母さんを放っておいたから、悪いんでしょ」
その一言が、刃のように心の奥へ滑り込んだ。
息が詰まる。
それは、言葉というよりも、運命の指先で胸をなぞられたような痛みだった。
アンナは、恐ろしいほどにまっすぐだ。
真実を、ためらいもなく差し出す。
だが、その残酷さの中に、どこか澄みきった優しさが見える。
もし、カヲルが娘だったなら、きっと、こんなふうに僕の弱さを見透かして、微笑んだだろう。
「それにね、『アンナ』と『エリナ』って名前、お母さんが選んだの。『日本人にも覚えやすいように』って」
「……日本人にも?」
「そう。いつ日本に行っても馴染めるように、だって」
まさか。アナスタシアは、本気で日本に帰るつもりだったのか。
それも、娘たちを連れて。
アナスタシアは、ユーサクとの思い出を決して忘れてはいませんでした。
次回、二十八年ぶりの再会まで、あと少しです。




