07 怪盗と白い鳩
「さぁ諸君。今宵の目玉、『皇帝の想晶』インペリアル・トパーズをお目にかけよう!」
フェリックス・アルマンの声が会場に響き渡った。台車に載せられた鎖付きの黒い箱が、金色の布に覆われたまま中央に置かれる。これまでの出品物も豪奢であったが、皆の目的はこの一品。手にすることは叶わずとも、一目見られるだけで誇りとなる代物。
静寂が広がる。鍵が差し込まれ、重い蓋がゆっくりと持ち上がった、その瞬間──。
──白い羽が舞った。
箱の中から数羽の鳩が飛び立ち、観客の頭上を旋回する。フェリックスは思わず叫んだ。
「な、なんだ!?」
箱の中にあったのは、ただ一枚の封筒。観客のざわめきが広がった。
フェリックスが慌てて箱に寄り、震える手で封を切る。便箋に記された文字を読み上げた。
「……『皇帝の想晶は、華麗なる怪盗が頂きました──怪盗リアム』」
会場に困惑の声が響き渡る。 便箋の端にはさらに一文。
「『今宵も輝きは、私の掌に。』」
その一文を読み上げようとしたフェリックスよりも先に、頭上から響くように別の声が聞こえた。フェリックスと観客は必死に声の主を探す。
その存在を見つけた瞬間、フェリックスは驚愕とともに会場の二階バルコニーを指差した。指先に導かれるように、会場の視線が一斉に動く。
そこには、黒い怪盗服に身を包み、シルクハットをくいっと持ち上げた怪盗リアムが、ニヤリと笑っていた。白い鳩がひときわ大きく羽ばたき、会場を駆け巡る。
「怪盗リアム!!!」
「あれが噂の?」
「どうやって盗んだんだ?」
「暗くて顔が見えない!」
ざわついた声が次第に激しさを増し、困惑と不安の色に染まっていった。
「怪盗リアムを捕らえろ!」
フェリックスの指示を受け、待機していた騎士たちが一斉に駆け出したその瞬間、白い煙幕が舞い上がり、リアムを隠すように包み込んだ。天井に向かって渦巻くように広がり、瞬く間に視界を奪う。
徐々に煙が晴れ、皆が目を凝らすとリアムの姿はすでに消えていた。
「消えた?まだ会場にいるはずだ!探せ!」
フェリックスの声は焦りに満ちていた。
ここで捕まってしまうのだろうか。バルコニーを見上げながら、ミラは心配でも焦りでもない、ただ、何とも言えない複雑な感情が胸に湧き上がり、どうしていいかわからなかった。ただ、胸のざわめきが収まらない。
その刹那、音もなく静かに『執事』ルーイがヴィオラの横に立つ。ミラの灰色の目が驚きに見開かれた。
「───会場が騒がしいですが、どうされましたか?」
「ルーイ!怪盗リアムが現れたのよ!もう少し早く戻っていたら、見られたのに!」
ヴィオラは怪盗リアムの姿を見てから、すっかり舞い上がっていた。「きゃー!わー!」と黄色い歓声を上げ、ミラに何度も「見た?」と興奮気味に尋ねていた。
「それは残念です」
馬車を呼ぶために一度外に出ると言ったルーイを、ミラは特に引き留める理由もなく、静かに見送った。しかしその後、まるで別人になったように、ルーイは怪盗リアムとなってバルコニーに現れた。それはほんの一瞬で、想晶を盗んでいる時間などなかったはずだ。では、いつ、彼は盗んだのか。
「本当に現れたわね……かっこよかったなぁ」
ヴィオラの呟きは、純粋な憧れを含んでいた。
ミラは横に立つルーイをちらりと見やりながら、わざとらしく言葉を紡ぐ。
「ですが、一瞬で逃げてしまいましたね」
「……言うねぇ、ミラ」
何度もからかわれた仕返しだ。挑発を受け、ルーイの口角がぴくりと上がる。金色の瞳がわずかに細められ、愉快そうに光を宿した。
「捕まると思って、心配した?」
耳元で囁かられた冗談に、ミラは息を詰める。 心配など一言も口にしていないが、まるで心情を悟られたようだった。何か言い返そうと口を開いたが、ミラの声は会場のざわつきにかき消される。
「怪盗リアム…最近よく聞きますね」
「インペリアル・トパーズを見に来たというのに…」
「アルマン公爵の警備が手薄だったのでは?」
「本当にインペリアル・トパーズなんてあったのかしら」
「目玉が見れないのなら、もう帰りたいのだけど…」
声にフェリックスは顔を歪めた。額には汗がにじみ、唇を噛む。
怪盗リアムは、まだ逃げずに招待客に紛れているかもしれない。しかし、もし貴族たちを疑い時間をかけ捜索し、見つからないともなれば、アルマン社の評判が落ちてしまうのではないか。そもそもオークションに注目を集めるための嘘だと、噂されてしまうのではないか。
葛藤の末、フェリックスは荷物検査を断念した。第一、貴族たちが怪盗まがいの真似をするはずがない。彼らは想晶を気軽に手にできるほどの財力はある。侵入者の仕業だと考える方がまだ筋が通る、はずだ。
フェリックスは声を張り上げる。
「みなさま!このような形で幕を閉じることとなり、まことに申し訳ございません。しかし、皇帝の想晶は必ず取り戻し、次こそ皆さまの前でお披露目いたします。さらに素晴らしい想晶も揃えて参りますので、アルマン社をこれからもご贔屓に!」
堂々たる一礼に、会場は拍手と歓声に包まれた。
怪盗を捕えるために増員したアルマン騎士団の到着と同時に、招待客たちは次々と席を立ち始める。ざわめく人波の中で、ヴィオラは静かに立ち上がり、胸の奥からそっと吐息をもらした。
「インペリアル・トパーズより、怪盗リアムが目的だったから満足だわ」
「お嬢様に危険が及ばなくて幸いでした。怪盗の話はもう止めにしましょう。そんなことより、お嬢様が落札された想晶を、早く拝見したいです」
希少な想晶よりも、ヴィオラは怪盗リアムに夢中らしい。ミラが話題を変えれば、隣を歩くルーイが口を開く。
「私は怪盗リアムの話の方が気になりますが」
軽く言ったルーイの言葉に、ミラはぴしりと睨みをきかせた。
「余計なことを言わないでください、ルーイさん」
二人がこんな風に会話をするなんて、ヴィオラは思わず笑ってしまった。
「ふふ、最近ずいぶん仲良くなったんじゃない?前まではほとんど口をきいてなかったのに」
「いえ、全く。前と変わりません」
ミラのきっぱりとした否定に、ルーイは何も言わない。ヴィオラは不思議そうに首を傾げたが、これ以上は詮索しなかった。
購入した想晶はすでにエレイン邸へ送られる段取りになっている。青色の想晶はトルマリンを含め、三点。ロデリックに加工を依頼するように、ルーイには伝えてある。
待たせていた馬車に三人が乗り込み、御者が手綱を取ろうとした瞬間。馬車に近づく影があり、その気配に御者は思わず手を止めた。その人物は馬車の窓に近寄り、顔をのぞかせる。
「ヴィオラ!やっぱり。来ていたのですね」
「リュシアン!」
ヴィオラは馬車の窓から見えた姿に、驚きの声をあげた。
濃紺の髪はきっちりと片側に流され、深い分け目が知性を際立たせている。丸眼鏡の奥で光るのは薄紫の瞳。彼はリュシアン・ルクレール。ヴィオラ・エレインの婚約者である。
「『青薔薇の淑女』が来ていると噂されていましたから、あなたが会場にいないはずがないと思っていました。久しぶりに会えて嬉しいです」
ヴィオラは馬車の扉を開けてリュシアンと対面した。リュシアンはヴィオラの手の甲に口づけを落とし、小柄な彼女を見下ろした。リュシアンの身長は178センチほどある。
「いつもの執事はいないのですね」
必ずと言っていいほど、執事シリルはヴィオラの側にいた。馬車内にはいつものメイドと、見知らぬ執事のみ。ルーイが近づいてくると、リュシアンはそちらに目を向けた。
「……シリルは解任したわ。新しい執事のルーイ・フィントよ」
ルーイの礼を横目で見ながら、リュシアンは細い目をわずかに見開いた。頑なにヴィオラの傍を離れなかったシリルの存在を、婚約者として意識していたのは確かだった。
眼鏡をくいと上げながら、リュシアンはすぐに話題を変える。もういなくなった執事など、興味が湧かない。
「君に今度渡したい物があるのです。ヴァレンティン伯爵にもお会いしたいし、近いうちに夕食でもどうです?」
「ええ、お父様に伝えておくわ……リュシアンは何か落札したの?」
リュシアンがオークションに参加しているところを、ヴィオラは初めて見かけた。想晶に興味があるとは思ってもみなかった。目の前のリュシアンは、アクセサリーを何もつけていない。
「お恥ずかしいですが、子爵家の懐ではステージに並んだ想晶には手が届きません。けれど確認が目的だったので、それで十分です」
ルクレール家は子爵の爵位を持ち、エレイン領の隣にルクレール領がある。生まれつき病弱なヴィオラには、当然ながら他の伯爵家から縁談の声がかかることはなかった。貴族の結婚において何より重視されるのは、健やかな世継ぎを産むことだからだ。伯爵家とはいえ、ヴィオラにはもはや選り好みできる立場にない。例え相手の爵位が下位の子爵家であろうとも、申し出は彼女にとって断る理由のない、唯一無二の救いの一手であった。
「確認?」
「それも、その『渡したい物』と関係があるのですよ。また改めて話しましょう」
リュシアンは柔らかく笑う、その笑みにヴィオラも穏やかな微笑みを浮かべた。
定期的な贈り物に、優雅なエスコート。彼はヴィオラにとって申し分のない婚約者のはずだった。だというのに、ヴィオラは無意識に右手のアメシストのリングを撫でていた。
それに気づいたリュシアンの視線が、自然と指先へと落ちる。
「……紫色。珍しいですね。紫もお好きになったのですか?」
「あ……これは」
そこでヴィオラは言葉を詰まらせる。
アメシストについて尋ねられるたび、ヴィオラは「大切なもので、自分が生んだもの」とだけ答えてきた。だが、婚約者であるリュシアンの前で、その言葉をそのまま口にすることはできない。なぜか後ろめたさを覚えてしまったのだ。
彼女の小さな動揺に、リュシアンは首を傾げたが、その奥にある想いまでは読み取らなかった。
「………たまには違う色も欲しくなりますよね。僕の瞳のようで、嬉しいです」
アメシストのように淡く輝く薄紫の瞳が細められ、リュシアンはまた柔らかく笑った。冗談のつもりで口にした一言。だがヴィオラの胸は、その瞬間きゅうと締め付けられる。リュシアンの瞳を見るたびに脳裏をかすめるのは、別の男性の姿だから。
「………そうね」
「呼び止めてしまってすみません。また改めて、屋敷へ招いてください」
「……ええ。またね、リュシアン」
ヴィオラは半ば逃げるように馬車へ身を滑り込ませた。リュシアンに向かって手を振ったものの、それが笑顔になっていたかどうか、自分でも分からない。
車内に漂う沈黙の重さに、ミラは口を開かなかった。彼女の想いを知っていることを、知られてはならないから。
ヴィオラはアメシストのリングから目線を逸らし続け、窓の外ばかり覗いていた。
***
エレイン邸の自室に戻ったヴィオラは、しばらく黙ってアメシストを見つめていた。陽の光を反射するそれは、淡く輝いている。ミラに下がるよう言わないのは、側にいてほしかったからだ。
「想晶って残酷ね。想いがずっと形に残ってしまうなんて。」
「……はい。ですので、手放される方も多くいらっしゃいます。」
想いと決別したい。想いを忘れてしまいたい。そう願う人は、きっと少なくない。
「ただ綺麗だからと集めていたけれど、手放す時にも、みんなきっと何かを想っていたのでしょうね。」
手元にある想晶すべてが、誰かの生み出したものだ。想晶の数だけ人の感情がある。
「想晶を手放して、その想いを忘れようと決断することもできます。でも私は、忘れてはいけない想いもあると思います。その想いと共に生きていかなければならない、自分の一部として。」
たとえ想晶を手放したとしても、記憶を手放すことではない。忘れたくても忘れられない、ミラはそういう考えだった。
ヴィオラは毎日、シリルのことを思い出している。アメシストを手放したとしても、彼への愛は色褪せることがない。彼が頭に浮かぶ日々は変わらないだろう。
「確かに、そうね。これは、私の一部で───私だけの想い。忘れようとしてはいけないわね」
アメシストとの別れが、一度だけ頭をよぎった。リュシアンのためにも、シリルへの想いを断ち切ったほうがいいのではないかと。
でも、形になってしまった今。その想いと向き合い、大切に生きていこうと、ミラの言葉を聞いてヴィオラは思った。
「人の想いは美しいです。ですから、想晶は美しい形となって、生まれるのではないでしょうか。」
想晶の美しさに魅了されている一人として、ミラは持論を唱える。その目の強さに、ヴィオラは気が付いた。
───こんなにも、ミラは想晶のことを。
ヴィオラはミラの、想晶に対する想いを初めて知った。ブラックダイヤモンドのリングを見つめるミラの瞳は、どこか寂しげだったから。想晶に良い思い出がないものだと、勝手に思い込んでいた。
「ミラは、想晶が好きなのね」
ヴィオラに核心を突かれた気がして、ひゅっとミラの喉の奥が鳴った。
『想い』が視える自分にとって、一般の者とは想晶への向き合い方が、無意識のうちに違っていたのかもしれない。そのことに、今、初めて気づかされた気がした。
「……はい、美しくて好きです」
ミラが穏やかに微笑む。『想い』が、美しいのだと、ミラの隠された言葉はヴィオラにも届いた。
ミラのこんな穏やかな笑顔を見られるようになったのは、つい最近のことだ。この屋敷に来てからのミラは、むしろ無表情でいることの方が多かった。そんな彼女を見て、ヴィオラの口角も自然と上がる。
カーテンがゆっくりと揺れ、穏やかな時間が流れていった。




