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第一話 あの手に触れられなかった


人を綺麗にする仕事がしたかった。

鏡を見た人が嬉しそうに笑う。その手伝いができたら、きっと私も嬉しい。

ディア・ラクリマに入った頃の私は、本当にそれだけだった。

「リネ。お客様をお待たせしないで」

先輩に呼ばれ、制服の袖口を直した。

口角は上げる。声は明るく。質問には、自信を持って答える。

昨日、何度も練習した。

まだ新人だった私は、覚えることが多くて毎日必死だった。商材の名前を覚えようと瓶を手に取ると、それより先に、と接客マニュアルを渡された。

お客様の悩みを自覚させること。今、始める必要性を伝えること。

「今始めないと後悔しますよ」

その言葉が、お客様の背中を押すのだと教えられた。

私は、背中を押した先まで考えていなかった。

*

「私、そんなにひどいですか?」

お客様が、鏡越しに私を見た。

私は、その人が気にしていた頬の状態を説明していた。放っておけば、もっと目立つかもしれない。早いうちに手入れを始めた方がいい。

膝の上には、マニュアルがあった。

お客様が鏡を見るたび、私はマニュアルへ目を落とした。

昨日はここで詰まり、先輩にため息をつかれた。今日は間違えたくなかった。言葉を選んで黙るより、教えられた通りに話すことが安心だった。

お客様は顔を傾け、頬を確かめていた。

自分でも気になっていたけれど、そこまでだとは思っていなかった。

そう言われて、私はうなずいた。

私の説明を聞いてもらえた。施術を受ける必要性が伝わった。

そのときは、そう受け取った。

「綺麗に、なれますか?」

不安そうに答えてはいけない。

私が迷えば、お客様も迷う。

「はい。今始めないと後悔しますよ」

お客様は小さく息を吐き、施術をお願いしたいと言った。

私は、うまくできたと思った。

*

施術の途中で、ひりひりすると言われた。

使う量も、順番も、時間も確認した。どれも教えられた通りだった。

肌が変わっていく過程で、そう感じることもある。

先輩から聞いた説明を伝えると、お客様は唇を結んだ。それからは何も言わなかった。

私は、必ず納得してもらえると思って手を動かし続けた。

終える頃には、頬に赤みが広がっていた。

けれど、最後まで手順を守ったのだから、大丈夫なはずだった。

鏡を渡した。

お客様の手が止まった。

「……前より、ひどくなってませんか?」

私は頬を見て、机の上の商材を見た。

量は確認した。時間も守った。

何も間違えていない。

痛がっていた人を前に、最初に考えたのは、それだった。

施術後の赤みについて説明しようとした。綺麗になるために必要な過程なのだと、もう一度伝えた。

いつ落ち着くのかと聞かれて、答えられなくなった。

私には、その知識がなかった。

「明日、仕事なんです」

鏡を握る指に、力が入っていた。

「後悔したくなくて、お願いしたのに……」

何も間違えていないと思っていた。

手順を守ったと言えば、明日、人前に出られるのだろうか。

先輩を呼びたかった。

誰かに代わってほしかった。

お客様のために始めた仕事なのに、私はこの場から逃げる方法を探していた。

お客様が、鏡を伏せた。

「もう、見たくない」

乾いた音がした。

壁の鏡に、ひびが走っていた。

見間違いだと思った。けれど、ひびは端まで伸び、鏡の表面が黒く染まった。

暗いものが、壁を伝って落ちてくる。

お客様が息をのんだ。

その頬にも、同じものが広がっていた。

本人も、何が起きているのか分かっていなかった。両手で顔に触れ、指についた暗いものを見て、身体を震わせていた。

私は立ち上がった。

怖かった。

それでも、目の前のお客様はもっと怖がっていた。

手を伸ばすと、暗いものが二人の間にせり上がった。

指先が届かない。

廊下から、心蝕だ、と叫ぶ声がした。

扉が開き、先輩に腕を引かれた。私は外へ出されながら、お客様がまだ中にいると訴えた。

部屋の奥から、声が聞こえた。

「なんで、どうして……こんな顔に」

私は扉の前に立っていた。

何をすればいいのか、分からなかった。

*

神殿ギルドの職員が来るまで、私は廊下で待っていた。

何を使ったか。どれくらいの時間、施術したか。いつ、痛いと言われたか。

聞かれたら答えられるように、頭の中で繰り返した。

職員たちは店長と話し、施術室へ入った。

私には、何も尋ねなかった。

やがて、お客様が部屋から出てきた。

布で顔を覆っていた。自分の足で歩いていた。

その姿に、ほっとした。

名前を呼ぼうとして、声が止まった。

受付で確認したはずだった。なのに、思い出せなかった。

私はずっと、この人を「お客様」と呼んでいた。

近づくと、神殿の職員に止められた。

「ここからは、神殿ギルドで対応します」

自分が施術したのだと伝えようとしても、こちらで確認する、と返された。

お客様は布の端を握っていた。

さっきまで、鏡を持っていた手だった。

謝らなければと思った。

痛いと言われたとき、止めなかったこと。分からないまま、安心させようとしたこと。

けれど、その顔が私の方を向くと、喉が動かなくなった。

謝って、何を言われるのが怖かったのだろう。

その人は職員と一緒に歩き出した。

私は最後まで、何も言えなかった。

扉が閉まったあと、施術室には入れなくなっていた。

新しい部屋を割り当てられ、机の上には、新品の商材。

椅子の上には、新しいマニュアルが置かれていた。


*


目を覚ますと、薄い朝の光が窓から差していた。

まぶたに残っているのは、あのときのお客様の乱れた顔。

また、あの夢だった。

私はリネ。

肌の手入れを仕事にしている。

少し変わったアーツを使えることから、冒険者ギルドやお客様には「癒し手」と呼ばれることもある。

けれど、人を綺麗にする仕事で、一人のお客様を追い詰めたことがある。

あの人がどうなったのか、今も知らない。

神殿ギルドへ連れていかれた。それだけだ。

店長に尋ねても、あちらで対応している、としか言われなかった。

私はその返事を待つうちに、店へ行くのが怖くなった。お客様へ鏡を渡すたび、手が冷えた。

店のやり方にも従えなくなり、やがて辞めた。

今は、一人で小さな店を営んでいる。

自分で学び、自分で考えて、お客様と話す。

今度こそ、その人のために働きたかった。

けれど、怖くて逃げた自分に、都合のいい理由をつけただけではないかと思う日もある。

別の仕事を選ぶことだって、できた。

それなのに、手入れを終えた人が鏡を見て少し嬉しそうにすると、私まで嬉しくなる。

昨日も、そうだった。

その顔を思い出してから、あの人の顔を思い出す。

もし、もう一度会えたら。

今度こそ、名前を呼んで謝りたい。

私は顔を洗い、鏡の前で髪を整えた。

冷えた指を、しばらく握った。

あの人に伸ばした手は、届かなかった。

それでも私は今日も、誰かの肌に触れる仕事をしている。


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