007 病院
お父さんの声が聞こえた。
中央線の向こうにいた白い乗用車が、ガードレールのほうへ寄り、突然こちらへ向きを変える。
お父さんの声が聞こえた。
急な方向転換で、車がふらつきながら近づいてくる。
スライムの肉片が飛び散る。
闇の中でブレードが、折れた剣や長靴、兜にぶつかる。火花が散るときだけ視界が明るくなる。いったい何人食べたの。口の中の飴が、もうほとんど溶けている。思わず噛み砕いた。
飴を噛むと、フロントガラスが砕ける。
空と地面が入れ替わる。お母さんの悲鳴が聞こえる。
「マジアン!」
お母さん、後ろの席でシートベルトしてたっけ?
シートベルトがブレードに引っかかり、砕かれる。
もう猫の声が聞こえない。あたしに猫なんていたっけ?
いた。
黒い毛の、とてもきれいな猫だった。
運転席に白いスライムが押し込んでくる。
お父さんはスライムに食べられた。
でも、あたしが核を壊した。もう大丈夫。
ナビ、もう大丈夫だよ。
大丈夫。
「ニャー!」
〈マジアン!!!!!〉
猫の鳴き声とテレパシーが同時に届くと、突然、意識がはっきりした。
ソ・ウンジェは目を開けたまま、天井を見ていた。
天井は白かった。スライムも、割れたガラスもなかった。何かが一定の間隔で音を立てていたが、ブレードの回る音ではなかった。
体がうまく動かなかった。
麻痺している感じではない。指は動くのに、腕を上げたり起き上がろうとしたりすると、力が入らない。
ウンジェは泣いていた。
理由を考えるより先に、涙が流れ、耳のほうへ染み込んだ。枕が湿っていた。
「どうして? なんで泣いてるの、ナビ?」
声がうまく出なかった。お腹が空き、喉が渇き、声がかすれた。あたしの声って、もともとこうだったっけ。唾を飲んでみたが、喉の奥がひりひりするだけだった。
「ニャー」
黒猫が目の前に顔を突き出した。鼻が触れそうなほど近かった。ナビはウンジェの両目を交互に調べ、ほっとしたように鳴くと、また布団の上へ倒れた。
「ナビ? あたし、生き返ったの?」
ナビは返事の代わりに、長く息を吐いた。横たわった猫のお腹が、速く上下していた。
「くそっ、僕がどれだけ苦労したかわかるかい?」
「なんであなたが死にかけみたいに寝てるの」
「誰のせいだと思ってる?」
ウンジェは笑おうとして咳き込んだ。胸にまで力が入らない気がした。いったいどれほど寝ていたら、こんなに体が弱るのだろう。ナビがまた頭を上げたが、ウンジェは大丈夫だと伝えるつもりで、指を少し動かした。
スライムの中では、息をするのが難しかった。もう一つ飴を食べて、核を壊し、手を伸ばした。その先は何も覚えていない。いや、白い車が近づいてきたんだっけ? そうだ、白い乗用車。乗用車って何だっけ?
一度目を閉じ、また開いた。
「最後にスライムと戦っていたことは覚えてるけど……いったい、どうなったの? ここは別の世界?」
「そう。別の世界へ来た」
「あたし、ひどくけがした?」
「ひどくね」
「みたいだね。全然力が入らない」
ナビは、ろくに動けないウンジェの上に座り、顔をいろいろな角度から調べた。
「まず確認したいんだけど、君はマジアンだよね?」
「マジアン? 何の話? あたしはソ・ウンジェ……あれ?」
「何?」
ナビが勢いよく起き上がった。
その動きで布団が引っ張られた。ウンジェはどうにか、布団の外へ手を持ち上げた。
見慣れない手だった。
けれど、初めて見る手ではなかった。指の形も、甲に浮かぶ細い血管も、知っている気がした。
「そう、あたしはマジアンだった。ソ・ウンジェって誰? どうして、その名前に覚えがあるの?」
声に出すと、さらに奇妙になった。
マジアンと名乗っても、間違っている感じはしない。ソ・ウンジェと名乗っても、同じだった。
「その肉体の、元の持ち主の名前なのかな?」
「その肉体?」
「マジアン、まず話を聞いて」
「待って。今、あたしの体を『その肉体』って言った?」
答える前に、ナビはウンジェの顔を見た。
「君の元の肉体は、別に保管してある。スライムの中で脳が損傷して、すぐ治療できる状態じゃなかった」
「それで?」
「魂を抽出して保管し……今のその体へインストールした」
持ち上げていた手が、ベッドへ落ちた。
手一つ上げているのもつらかった。ウンジェはしばらく天井を見た。
「じゃあ、今あたし、他人の体に入ってるんだ?」
「そう」
「ああ」
しばらく何も言わなかった。
ナビは、また全身スキャンが必要か考えた。魂は正しくインストールされた。これ以上ないほど円滑な過程だった。
それなのに、名前が違う。自分はいったい誰を目覚めさせたのか。
「今、ソ・ウンジェの記憶とマジアンの記憶が混ざっているの?」
ウンジェはすぐには答えなかった。
ナネシルの小屋を思い浮かべられた。サムイも、ガーネットも、ジオも……鞄に入れていたレモンの飴も、初めてユジャに乗って飛んだとき、何度も横へ滑ったことも覚えていた。
そして、イネルシルも……。
なのに、目の前の白い天井が何なのかも知っていた。
病院。ベッド。入院着。初めて見る世界のものなのに、名前が先に浮かんだ。
「うーん……あたしは確かにマジアン。全部覚えてる。あなたと一緒に旅したことも」
「本当に?」
「ほうきに乗れない魔女がどこにいる、ってあなたがうるさく言ったことまで」
「わざわざそれを?」
「でも、ソ・ウンジェの記憶も残ってるみたい」
ナビは口を閉じた。
「なんてことだ……」
ウンジェは目元を拭こうとして、また腕を下ろした。泣きやんだと思っていたのに、違った。
「この子、両親と一緒に事故に遭ったみたい」
「事故?」
「車に乗ってた。お父さんが運転して、お母さんは後ろに座ってた」
お父さん、お母さんという言葉が、あまりにも簡単に出た。
ウンジェは、自分の言葉を振り返った。
「違う、この子の両親。あたしの両親じゃなくて……」
そう言うと、胸がさらに苦しくなった。
間違ってはいない気がするのに、わざわざそう区別したくなかった。ウンジェは眉をひそめた。
「よくわかんない。事故の前は、車の中でおしゃべりしてた。何を話してたかも思い出せそうなのに、別のものが混ざってくる」
「どんなもの?」
「スライム。割れたガラスとスライムが一緒に見える。誰かの叫び声も聞こえる」
「待って、やめて。無理に思い出そうとしないで」
「だから、目覚めたくなかったのかな」
「誰が?」
「この子。そんな感情が伝わってくる。あなたを恨みながらも、感謝してる気持ちも……でも、あたしの感情みたいでもあるの。よくわからない」
ナビの耳が少し後ろへ伏せられた。
意識が検出されなかったことと、中に何も残っていないことは、同じ意味ではなかったらしい。かといって、今の言葉だけで何が起きたかを結論づけることもできなかった。
「恨んでいるというのは……」
「あなたに怒ってるんじゃないよ。あたしにも説明できない」
ナビもしばらく黙った。
「この子の記憶は、どれくらい残っている?」
「正直、ちょっと戸惑ってる。少し残ってるどころじゃない。あたし、この世界について、思ったよりずっと知ってる」
ウンジェの視線が、ベッド脇の呼び出しボタンへ向かった。
「あのボタンを押すと看護師が来る」
「誰が教えたの?」
「誰も。ただ、わかるの。看護師が何をする人なのかも知ってる」
ボタンへ手を伸ばそうとして、止めた。
「看護師を呼んだほうがいいかな? 体、つらいんだよね。前の肉体に比べたら、ひどいものだよ」
「待って。まだだ」
「どうして?」
「説明を整理しないと。どうやって目覚めたか聞かれたら、何て答える?」
「ええと……猫が他人の体に魂を入れてくれたって?」
「正気か……少し頭がおかしいのは、そのままなんだね……」
ナビはもう一度、手と顔を交互に調べた。
「何か……肉体に記憶が残る構造があるのかな……」
「全然見当もつかない」
「君に説明しろと言ってるんじゃない。僕にもわからないから言ってるんだ」
ナビは、移植があまりに簡単だった瞬間を思い出した。今の混乱に関係があるのか。比較できる経験がなかった。
だからといって、確かめるためにもう一度魂に触れるわけにはいかなかった。
「とにかく状況を整理して、対策を立てよう。この世界では、その体の身分を利用する必要がある」
「ソ・ウンジェの身分?」
「そう。ここの人は君をその名前で知っているだろう。別の名前を名乗れば、説明することが増える」
ウンジェは小さく名前をつぶやいた。
ソ・ウンジェ。
今度は少しも見知らぬ名前ではなかった。そのことが、かえって奇妙だった。
「これからは、その名前で呼ぶよ」
「あなたは混乱しない?」
「君が先に、その名前を言ったんだからね」
言い返しかけて、やめた。今、何から聞けばいいのかもわからなかった。
「元の体は安全なところにある?」
「ユジャと一緒にいる」
「ユジャは無事?」
「君より、ずっと無事だよ」
その答えに少し安心した。ユジャなら、大丈夫だろう。
「ナビ」
「何?」
「他人の気持ちを、こんなに生々しく感じるって不思議だね」
「もちろん、そうだろうね」
「いつか、イネルシルの気持ちも感じられるかな?」
今度はナビも、すぐには答えられなかった。
「まだ、僕にもわからない」
「そっか」
「今いちばん大きな問題は、この世界では魔法を使うのがとても難しいことだ。詳しくはあとで説明するよ」
言い終えるや否や、病室の扉がガラリと開いた。
入ってきた看護師と、ウンジェの布団の上に座っていたナビの目が合った。
そのとき初めて、ナビは隠蔽魔法を維持していないことを思い出した。
「えっ? 猫?」
「くそっ! Rationalize!」
詠唱とともに、状況を合理化する魔法が発動した。
看護師は口を開けてナビを見ていたが、ゆっくりまばたきをした。驚きの表情が少しずつ消えた。
「猫……病室に猫がいても、おかしくないわよね……」
視線がウンジェへ移った。ドアノブを握る手がゆるんだ。
自分を見つめる顔に、ウンジェはぎこちなく口を開いた。
「こんにちは……?」
看護師が息をのんだ。
「ソ・ウンジェさん?」
「はい」
今度も、考えるより先に答えが出た。
病室に猫がいることを納得させる魔法は、二年間意識のなかった患者が目覚めたことまで、普通の出来事にはしないらしかった。
看護師はすぐに扉の外へ顔を出し、叫んだ。
「キムさん! 八〇二号室の患者さんが目を覚ましました! 当直の先生を呼んでください!」
魔法を使ってから、ナビの毛はぴんと逆立っていた。
ウンジェが小声でささやいた。
「今、魔法使ったじゃん?」
「ああ……詳しくはあとで話す。ひとまず、キャビネットに隠れよう」
「病室に猫がいてもいいんでしょ?」
「次に入ってくる人にも、また魔法をかけるわけにはいかない」
ナビはベッドから下りた。飛び降りる動きは、いつものように軽やかではなかった。ウンジェがそちらへ顔を向けようとした瞬間、看護師がベッドのそばに戻った。
「ソ・ウンジェさん、起き上がらないで。そのまま横になっていてください」
キャビネットへ入る猫を見ても、看護師は止めなかった。患者に身をかがめ、話を続けた。
「声は聞こえますね?」
「はい」
「少し待ってください。先生がすぐ来ますから。状態を確認しますね」
ウンジェはうなずこうとして、やめた。
看護師の言葉はすべて理解できた。しかし答え続けようとすると、頭が次第に重くなった。
扉の外で足音がした。ついさっきまで静かだった廊下が、急に慌ただしくなった。キャビネットへ目を向けても、ナビは見えなかった。
〈ここにいるよ〉
その声を聞くと、肩から少し力が抜けた。
「ああ……頭、痛い」
ソ・ウンジェの目が、再び閉じた。
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誰が何と言おうと、この小説はフィクションです。作者が、とある女の子に賄賂をもらったり洗脳されたりして彼女の物語を書いているわけでは絶対にないことを、あらかじめ明記しておきます。どうか、どなたも誤解なさらないでください。
ソ・ウンジェのYouTubeチャンネルも、ご覧いただけると嬉しいです……。
https://www.youtube.com/@WESTEUNJAE
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