第六話:神なき祈り、血の楔 (改稿)
第六話:神なき祈り、血の楔
「大貪狼」の爪が、大気を爆ぜさせ、音速を超えて空を裂いた。
その切っ先が狙うのは、剛剣を全力で振り抜き、体勢を崩した無防備なアレクサンダーの心臓。
黒い鉄塊はあまりに重く、致命的な一撃を回避するためのコンマ一秒は、非情にも既に過ぎ去っていた。
「――しまっ……!」
アレクサンダーの黄金の瞳に、死の影が網膜を焼くほどの速さで迫る。
回避は間に合わない。彼が死を覚悟し、奥歯を噛み締めたその刹那、視界を埋め尽くしたのは、死神の爪ではなく、忌々しいほどに清廉な「純白の外套」だった。
鈍い肉塊のぶつかり合う音と共に、冷たい石の床に鮮血が舞い飛ぶ。
シーザーの白銀の鎧が、まるでもろい陶器のように粉々に砕け散った。
その胸元は深く、無残に切り裂かれ、純白の外套は一瞬にして毒々しい朱色に染め上げられていく。
「シーザーッ!!」
「……動くな、馬鹿者が。叫ぶ暇があるなら、その剣を……握れ。お前が倒れれば……この村の命運は、ここで終わる……」
どろりと溢れる血を震える手で抑え、シーザーは膝をつきながらも、絶望を拒絶するように気高く微笑んだ。
蒼白な顔。
だがその瞳に宿る理性の光だけは、消えゆく命の灯火を繋ぎ止め、王者の風格を失っていなかった。
「ふざけるな……! 勝手に死ぬんじゃねえ! 俺が許さねえッ!」
アレクサンダーの喉の奥から、獣の咆哮にも似た叫びが迸る。
その怒りに呼応するように、洞窟の空気が物理的な振動を伴って激しく震え始めた。
神を否定し、法を嘲笑い、己の腕力のみを信じて生きてきた男の肉体から、黄金色の奔流が溢れ出す。
それはシーザーの静かな、月光のような輝きとは対極にあるものだった。
太陽が内側から爆ぜるような、周囲の酸素を焼き尽くさんばかりの、暴力的なまでの「聖王力」。
意識が遠のき、世界が白く霞みゆく中で、シーザーはその眩すぎる光を凝視していた。
(そうか……やはり、預言に選ばれたのは私ではなく……お前だったのか。
神に選ばれ、そしてその神をさえ殺しうる……真の聖戦士は……)
アレクサンダーは黄金の雷を纏ったグレートソードを、地平線を一刀両断する勢いで頭上に掲げた。
「俺の兄弟を傷つけた代償……その身に刻んで、地獄へ堕ちろッ!!」
黄金の閃光と、魔獣が放つ漆黒の咆哮が、空間の中央で真っ向から衝突した。
凄まじい衝撃波によって洞窟の天井が次々と崩落し、大地が悲鳴を上げて軋む。
アレクサンダーの剛剣は、魔獣の強靭な眉間を脳漿ごと叩き割り、同時に、魔獣が放った最期の足掻きの牙が、アレクサンダーの腹部を深く、容赦なく貫いた。
静寂が訪れる。
「大貪狼」の巨躯が、因果の果てに塵へと溶けて消えゆく中、アレクサンダーもまた、赤黒く染まった土の上に糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
重なり合うように倒れる、二人の勇者。
死の静寂と硝煙が支配する中、洞窟の入り口から、カラン、カランと規則正しい、どこか冷ややかな音が響き始めた。
それは、石の床を叩く錫杖の音。
あるいは、逃れられぬ運命を告げる、死神か天使の足音か。
「……遅くなりました。愛しき兄弟たち」
薄暗い闇を透かして現れたのは、汚れなき純白の法衣を纏い、神聖な静寂を背負った乙女、ミリアムであった。
彼女の足元からは、陽光さえ届かぬはずの地底に柔らかな光の花が咲き乱れ、死の臭気に満ちた戦場を、瞬く間に天界の香気で満たしていく。
彼女の美しさは、もはや人間としての生々しさを欠き、一種の恐怖を抱かせるほどの完成度に至っていた。
「シーザー、あなたの正義はまだ枯れ果ててはいない。アレクサンダー、あなたの憤怒は救済へと至る道となる」
ミリアムが静かに両手を広げると、絶命の淵に沈んでいた二人の体が淡い光に包み込まれ、重力を無視して宙へと浮かび上がった。
彼女の瞳には、かつて修道院の狭い寝床で寄り添い、共に明日を夢見たあどけない日々のような、底知れぬ慈愛が宿っていた。
だがその奥底には――愛する者を駒としてでも使い、すべてを天の運命に従わせるという、凍てつくような冷徹な決意が炎のように揺らめいている。
「さあ、始めましょう。三つの魂が揃い、今ようやく……偽りの神への反逆が、その幕を開けるのです」
聖女の祈りが洞窟を白く染め上げ、物語は血と祈りが混じり合う、第二の局面へと突入した。




