肆
『その若さで、おまえは本当に肝が据わっている』
先生はよく私におっしゃったものだ。
そんな自覚は露ほどもなかったが、幼少のころより怯むことはなかった気がする。剣をふるうようになってからは、率先して危地へ向かった。それが一番隊組長たる私の役目であったし、そんな立場を抜きにしても、誰かのあとに続くというのは性に合わなかったから。私はつねに先陣で、先駆けだった。
私の前に人はいない。ただ、3人を除いては――。
*
夜半の波に漂いながら、そんな昔のことを思い出していた。
辺り一面の水群は、煌々とした月灯りを吸って金色に染まっている。
これが海というものか……。
見るのも入るのも初めてのことだった。脚がつかない恐怖よりも、のびのびした開放感の方が大きい。私はこの景観に高揚していた。
世にこれほど広い場所があったとは。この齢になっても、まだまだ知らないことがたくさんあるようだ。剣一筋で生きてきたゆえ、学とは縁がなかったからな。でもそれは言い訳かもしれん。先生は暇さえあれば書物をひらいてらっしゃったし、あの人にいたっては和歌まで詠んでいた。
「天雅ぁ!」
遠くで大声がした。波音にかき消されながらも続く声。
「おーい、天雅。聞こえるかぁ? どこにいる」
てんが? はて……誰のことだろう。誰が誰に呼びかけているのか。
「………………………………こら、てめー、無視すんな! 聞こえてんだろうが、返事くらいしろ!」
長い沈黙の後、口調が激変した。
ああ、そうか。彼が呼んでいるのは私だ。彼、確か慈音とかいう者。正しくは、蓮暁からそのように呼ばれてる者。
「はい、ここにいますよ」
一応、手を振ってみる。夜半でもこの満月ならわかるだろう。
すぐさま黒いかたまりが、ばしゃばしゃと音を立てて近づいてきた。
「何ぼーっとしてんだよ。さっきから浮いてるだけで、ちっともついてこないじゃないか。はぐれたって知らないぞ。それともお前、泳ぎ苦手なのか?」
「海に入るのは初めてですけどね。川でよく子供たちと遊んでましたから、ご心配なく。ありがとうございます」
「だーっ、礼なんていいから手足を動かせ」
この御仁、せっかちで口は悪いけど、結局は面倒見がいいんだな。こうゆうところが、あの人に似ている。もっともあの人は、慈音ほど単純ではないし、感情をむき出しにすることもないけれど。
5尺ほどの距離をあっという間に泳いでみせると、慈音は「ほえー」と目を丸くした。
「お前、なかなかやるなぁ。意外に肺活量あるんだ」
ふむ。これほど素直でもない。
と、何かが心に引っかかった。
『意外に肺活量あるんだ』――肺活量?
私は肺を患っていたのではなかったか。
千駄ヶ谷。起き上がることもままならない状態だった。おかしい……これだけ泳いでも全然苦しくない。
床に伏したまま病状は悪化する一方、体力も限界。ついに精神も尽き果てて……最後、黒猫を見たのだ。
私は死んだ。あの日、千駄ヶ谷、植木屋平五郎宅で――
「袴が重くて動きづらいよな。といって、褌一丁になるのもな。刀が邪魔で……っておい、天雅? またぼーっとしてるぞ」
話しかけてくる慈音の言葉は、もう耳に入っていなかった。
こうして生きている私は何者なんだ。もう一人の私などありえるのか?
『天雅であろう』
蓮暁の言葉を反芻する。私を知っているふうだった。いや、私だけじゃない。先生のこともだ。しつこく問いつめれば何か繋がりがわかるかもしれない。




