貮
ごくりと唾を飲み込んでしまう。
うげ……何だ、この圧力。開けてはいけないものをこじ開けてしまったかのような、恐れとも懼れとも畏れともいえる存在感。
『眠ってる獣をわざわざ刺激する必要はないってことです』
男の言葉がよみがえる。だが、もう遅い。
「音が重なったために聞きとれなかったのでしょう。貴公が近づいて来たときから、こちらの御仁はわたしに気息を合わせていた」
「はぁ」としか言えない俺の横で、男は変わらずのほほんとしていた。
「偶然ですよ。貴方は気配を断っていた。そんな人の気息を読める筈がないでしょう」
すると彼女が嗤った。というより口元をわずかに歪めただけだったが、見た目相応に艶やかで麗しく神々しい。が、それ以上に剣呑で妖しく高慢でもあった。
「異なことを。気配を断っていたのは、わたしの方だと? 途中から《1人分》の気配しか感じ得なかったが」
男の困ったような視線を受ける。助け舟を出せってか? やなこった。
どうやら俺は彼女の眼中にないらしい。気配など、まるで断ってないというのに。そもそも互いの姿が丸見えの状態で、気配に神経を張る意味がわからん。
「殺気や怒気を発することなく斬りつけてくる人間もいるからですよ」
え……俺、今口にしたか?
ふたたび彼女と目が合った。
「視覚だけに頼るは危険ということです。身内とて例外ではないのですから、他人とあっては尚更だ」
今度こそ微笑みというものを浮かべていた彼女だったが、どうにもそれは悲しく哀れで脆弱だった。このまま泣き出してしまうのではと危惧するほどに。
言葉につまっていると、男が口をひらいた。
「《合縁奇縁》、今はそれを楽しみましょう。申し遅れましたが私は」
「天雅」と彼女が継いだ。
「え」
「そなたの名だ。天雅であろう」
「いえ、私は……お人違いではありませんか」
「いや、違ってはおらぬ。天雅だ。わたしは蓮暁と申す。以後、昵懇に」
有無を言わせぬ力が声に宿っていた。他人だと口にしておきながら、彼女はこの男を知ってるらしい。喋り方や接し方が俺へのそれよりもずっとくだけている。面白くないこと、この上ない。
俺が2人の邪魔をする形で名乗り出ようとすると。
「慈音」
はい?
「慈音であろう」
彼女が俺を見すえて言った。
じおん? 誰、それ。
「貴公の名だ」
「俺はそんな名前じゃない」と言おうとしたのだが――出てきた言葉は「はい、慈音です」だった。
うむむ……声だけでなく目にもすんごい魔力がある。凝視されただけで反駁不能。とはいえ、俺は《慈音》なんて名じゃない。彼女はやはり人違いをしているのだろう。まぁ、呼称にそんなこだわる性分でもないけれど。
しかし、天雅と決めつけられた男は意外にも峻拒に徹してきた。
「私は承服できかねる。間違えられた名をそのまま受け入れるなど、一家の長子としてお父上に申し訳が立たない」
それまでの暢気な風情と無邪気な笑みが、男から消えていた。
「おい、そんな気色ばまなくても」
「貴方は平気なのですか? 男児として武士として、顔に泥を塗られたも同然ですよ」
獣や人形の喩えのときにも感じたことだが、こいつの言動は突拍子もない上、極端すぎやしないだろうか。さっきまで優にかまえていたと思いきや、こうして些事に目くじらを立てる。それに――。
どうもこの男は《1人》じゃない。
正であれ負であれ、所詮、感情は同じ人間から発せられるもの。人が変わるという表現はあるにしても、精神波はひとつしかない。だが、この男は本当に変わる。何者かにすり替わるのだ。
『途中から《1人分》の気配しか感じ得なかったが』
彼女の言った《1人分》とは俺のことだろう。あのとき男はすでに別人にすり替わっていた。彼女は感じ得なかったのではなく、明らかに異なる者の出現に戸惑っていたのだ。
それだけじゃない。別人になった男は一戦を誘っていた。明らかな挑発。彼女はそれに乗らなかっただけだ。『同じく』と言ったのも、俺の『降参』にあやかった方便だろう。だが、彼女のその一言があったおかげで、別人男もとい天雅は、それまでの飄々とした雰囲気に戻った。
が、今また変わりつつあるのだ。得体のしれない別人男に。彼女も気づいてる筈なのだけど……。
「お父上とな。これは笑止。そなた、父君より授かりし名をいともたやすく変えているではないか、ハタチの歳に。5代目継承者として師匠殿に申し訳がたたぬのであろう?」
……どうしてこう、あおる言い方するかなぁ。
しかし、この女も只者じゃないね。動き出してから今まで、感情の起伏が一切ない。俺の背後を取ったときも息の乱れひとつなかったし。天雅め、人形とはよく言ったもんだ。
俺の懸念をよそに、2人の対峙は続いていた。これが地に足をつけた格好ならサマにもなるんだが、宙に浮いた状態、しかも壁の突起物につかまってるとあっては、迫力だけが削げ落ちて……。
何というか、穏やかな雰囲気じゃないだけに困るのだ。吹いたら終わりかも――俺の命が。




