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「アハハハハハ!!……馬鹿ばっかりだ。本当に惜しいよ、無くすのは」
その瞳から、雨が降った。晴天に、雫が一つ二つ、数を増やしていく。
心の底からの言葉なのだ。本気で惜しいと――失くすことを前提に考えている。いつも通りの会話だからこそ伝わる温度がある。そして、冷たくなる。その温度差に、より冷えてゆく心がある。
「泣いてんじゃねぇか、お前。――笑いながら、でも涙出てんじゃねぇか……」
ギギドナがそれを指摘した。
それは図星であって、何の意味もない、事実。
「君らには一生わかりっこないよ。僕の苦しみは。――終わりの来ない辛さが」
ギギドナの特攻にオメガは手だけを前に出し、その刃を取った。ずぶり、と肉に食い込み、赤い雫が垂れ始める。それは下手をすると神経を痛め、一生手が使えなくなるような傷になる。――オメガはそれが分かっていて尚、身体に躊躇する事はない。本来の身体の所有者の意志を無視して身体を動かすほどだ、俗物的な肉体に愛着など欠片もない。
体重の乗った攻撃はそうして止められると、ギギドナの身体が浮いた。そして、思い切り吹き飛ばされる。
「っかは!」
それは拒絶にも似たような現象で、オメガが何をするでもなく押し返されるように弾き飛ばされたギギドナは白煙を舞い上げて雪山の一つに埋没した。その衝撃で雪が被さる様にその身体に落ちて、ギギドナは沈黙した。
オメガはそこまで見やると、ふいに視線を逸らした。
(自分が辛いだなんて、そんなのは勘違いだ)
吾平は、オメガよりも遥かに“楽”だった。
確かに、吾平は記憶がなかった。それゆえの不安もあったし、追い求める事に疲れたことも、絶望する事もあった。求めていたものが実体のない虚像だと知った時の落胆は他に想像が追いつくことはない。
けれど、それ以上にきっとオメガは辛かった。
「人は脆い。数十年も経てば入れ替わる。みんな、死んでいく。僕を残して――親しい人も、家族も、愛しい人も。生きてるとね、どうしても他人と関わっていくんだ。そして好き嫌いができて、大切な物が出来る。……けれどそれはいつか失う。増えていく度に、無力さを味わう。深まる絶望を知る」
長い時を歩む苦しみ。到底、人には堪えられない。人というのは短い時を精一杯生きる生物だ。だから、忘れる事も多いし、覚える事もまた多い。――その前提が狂って閉まったならば、“人”としてのあり方も、また狂う。
時を歩まない。“その時点”からはどんな事象が起きたとしても無効化されてしまう。傷を負っても、傷が治る。いや、傷を追ったという時自体がなくなる。拒絶だ。
何かをしたとしても、それはオメガの意識にのみ残る事で、何も成果になる事はない。身を結ぶことはない。オメガはただそこにいるだけだ。“時”が止まっている、ということはどんな“時”にも干渉できないということ。オメガの行動はすべて、無意味で無価値で、無駄な足掻きにしかならない。――時を歩まない、とはそういうことだ。
「手からこぼれ落ちていく物をどうやって留めればいい?源をたださない限り、ずっと変わらない」
記憶というものは厄介だ。取捨選択が無慈悲なほどに無造作に、行われてゆく。
大切な思い出は失われ、辛い出来事は蓄積されてゆく。楽しいと思うことがあっても、それと同等の苦しみや悲しみに、人の心は潰される。尋常の精神ではいられない。それを乗り越えられるようになったならば……それはもう、“人”とは言えない。




