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「吾平」
優しげな声音に体の力が抜けた。
強張って、失う恐怖に震えていた体も、感情に圧迫されていた胸も、それだけですっきりと軽くなった。
(敵、なのに――)
たった今、吾平の目前で龍城を重症にしたオメガ。今でも瀕死で、意識を失った龍城が目の前にいるのに駆け寄ることもできなかった体が、動くようになる。
目の前にいるのは敵、ずっと戦ってきた相手、オメガ。仲間で、一緒に戦ってきた、大切な友人、龍城。オメガが龍城を攻撃し、龍城は今にも死にそうなのだから吾平がするべきことは決まっている。
「吾平」
けれど、吾平は動けない。
そのオメガの紡ぐ声音がひどく優しげで、愛おしげで、懐かしさを感じるものだったから。姶良の心が震えている。今の吾平にはそれがなんだかわかった。
(恋に、震えているのだ)
嬉しさが、歓喜が、吾平の中に満ちる。姶良の感情であるはずなのに、吾平の中に浸透してゆく。(憎い敵、なのに、ああ……)
「あの場所で、君を待っている。君が、君を待っているよ、吾平」
落ち着いた、低い声。耳を通る、心地よさ。
促されるまま、吾平は立ち上がる。“あの場所”へ向かって一歩、よろけるように踏み出した。
――誘われて着いたあの場所。
何らかの儀式のように飾り付けられた自然。しかしあそこは何もなかった。声は突然途切れ、案内もなかった。そう、以前のアイラでは資格が足らなかったんだろう。
「でも、今なら――」
一歩、踏み出す足が躊躇った。
龍城のことが過ぎった。
でも、優先するべき事は揺るがずそこにあった。
だから、吾平は最善を尽くし、その場を去った。
雪に埋もれた脚を凍らせたまま、意識の失った龍城ごと、能力で移動させた。転送先はアカデミアだが、今は怪我人が多い。運が悪ければ――脚が再び戻ることはないだろう。
それでも、
吾平は走った。
己の存在を証明するために。己が何ものなのか、それがはっきりしない限り吾平はこれ以上進めない。なにもできないままだ。
知ったところで何かが変わるのか。劇的な何かが訪れるのか。
(わからない。わからないけれど――今、俺は)
行かなければならない、あの場所に。もう一度。
それが、今、はっきりと分かった。
「……くな」
「……いくな、あいら――」
途切れそうな意識の中、つなぎ止めた。本当は、このままでよかった。今が大事だから、このままで。何も変わる必要なんてきっとどこにもなかった。だから踏み出す一歩を引き止めた。けれど、それは何の意味も成さなかったと、後になって知ることになる。
一度失われた意識が再び浮上しても、龍城には何の力もなく、立つ事も、声を届けることさえも出来ない――無力だった。
(痛ぇ)
何が痛いのか、本当に痛い場所はどこなのか。何も分からない。
ただ、体中がばらばらになりそうなほどの痛さを感じていた。
「龍城――?」




