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初めに感じたのは己への恥ずかしさだった。
姫――そう皆に呼ばれ、上げ奉られて自らを勘違いしていたのだ。ガダン王国の廃村に生まれたことを汚らわしく、間違ったことだと考えた。本来ならば、王女として生まれてきた。それが当然なのだ。皆にもてはやされる容姿も才能も、神が与えた。自らは神に愛された存在だ、と。
けれど、風に舞う銀の髪。解れかかった姿でさえ美しく、神秘的な姿。凛として立つ姿も、引き結ばれた固い口元も、彼女を彩るだけにすぎなかった。豊満な肢体は艶やかで、けれど決して人々に邪な気を起こさせるものではない。完成された形――犯してはならない領域に住んでいるのだと、印象を与えた。目が奪われた。
けれど、話しかけなかったのは、傲慢な自分が酷く醜悪に思えたからだ。私を褒める言葉など、彼女の姿を一度見れば出てこなくなる。月とすっぽん、圧倒的な美の存在に口を閉ざした。
「何よ、……どうせ、いなくなったじゃない」
姫である己が護衛対象のはずだった。
しかし、吾平たちは今ここにはいない。王の護衛をしているはずだ。私の周りには他の“生徒”たちが数人、張り付いているだけだ。
「……私は、(お飾りだものね)」
声には出せなかった。音にした途端に、それは片端から崩れさせていくだろう。“偽物の”姫様だ。ガダンには王女がいる。私は、養子でしかない。
民の前で貼り付けていた笑顔はそこにない。背後に続く気配を知りながら、舞台の袖から城の中へと進む。瞬きで睫毛に重みが加わったような気がした。
瞬間。護衛のうち、先行して歩いていた二人が顔の表面に赤い線を引く。一直線に、線は壁まで伸びた。
プツ――ッ。赤い線が太く滲み出し、紐となって垂れ下がった。顔に赤い格子が描かれたようにもみえた。けれど、それはクレヨンでも色鉛筆でも、絵の具でさえ、ない。
(――血)
薄暗がりのそれを冷静に見極め、理解する。けれど、同時にか、己の知らない内に咽喉の奥がびりびりと震えていた。声を、発していたらしい。わからないうちに、自分でも。
二人の顔がズレルのと、壁が二人の上に落ちてくるのと、どちらが早かっただろうか。ほかの護衛は何をしているのか。この情景が見えないのか。
振り返る余裕も無く、目の前の崩れた壁から巨大な何かが這い出してきた。生臭い息が直接顔に当たって――
「きゃああああああああ!!!!」
そこには元から闇なんて無かったのかもしれない。
回廊の全てを多い尽くすほどに大きな、“ソレ”は顔面だ。暗いと感じていたのはサリファンダの口の中だった。粘ついた唾液が頭上から落ちてくるのに、不安定な足元に引っかかりながら、後退った。
綺麗なドレスも磨いた靴も完璧に仕立て上げた髪形も――すべてがぐちゃぐちゃになっている。それは“姫”としての体面を保つ為に己が必要としたものだ。親のいない私に、義父となった人が与えてくれたものだ。
「やっ!誰か――山茶花、山茶花!助けてっ」
叫びに必死になって、いつの間にか、“ソレ”を握っていたことにも気づかない。
誰にも届かない声を、張上げて。誰も聞くことのないそれは、本当は小さく僅かな叫びだったのかもしれない。他者のいない空間でそれを知ることはできなかった。
「ひっ!」
捕食の楽しみか、捉えた後の余裕なのか、ひどくゆっくりと口を閉じようとする敵に引きつった声が出た。恐怖に見開いた瞳は閉じることも出来ず、ただ涙を流し続け、その工程をつぶさに見つめる。
思い出すのはかつて自分を見つけてくれた人のことだ。ボロ布を纏い、餓えて死を待つのみだった頃の、私を失望の目で見つめた、冷たい瞳。
けれど、王宮まで導き、“姫”として成り立たせた彼。――“オメガ”。
彼が探していた“愛羅”というのが、たぶん、そうなのだ。再び彼の眼に私が映る事になったことは吾平がいたからだ。けれど彼には吾平にしか眼に映っていないということも吾平がいるからだ。二度と、会わなければよかったのだろうか。それとも、……
(ああ。バカだな私)
吾平が席を外した時、持ち出した彼女のアクセサリー。彼女を彩るそれを、自らが身につければ、何かが変わるのではないかと思った。けれど、――意味など、なかったのだ。
「姫!」
声が聞こえた。たった一つ、聞きたいと望んでいたもの。
同時に、腕で強く引き寄せられた。視界の端に金の輝きが映る。
伸びるように、もしくはそこに初めからあったように長く伸びた金。暗闇の中にあって、自らが光を纏う様に美しく、そこに存在していた。
――金の輝きはファラカイナだ。ファラカイナに全身を包んだ、剣。それが背後から正面にまっすぐ突き刺さっている。敵の、サリファンダの口内での、事。
背後から細く、力強い腕が腹に回って、背には柔らかな温もりがあった。
「言ったでしょう。あなたの身に“ソレ”は重過ぎる」
吾平の手が、姫の手に握られた“ソレ”を受け取る。柔らかに手を握られて、抵抗することも無く拳は開いた。それはネックレスだ。美しい、二つの輝きが灯る金のネックレス――吾平の、姶良の武器。
ファラカイナ加工のされたそれはただでさえ狙われる身である姫を更に危うい立場へと落とした。餌が更なる盛り付けを得たようでもあった。
剣がぐるりと身を回す。
ブシュ――ッ!!噴出す、黒。
山茶花の背が姫と吾平の前に出て、その刃物の輝きを備えた舌を捉えた。吾平は姫を放し、自らも戦いに加わる。
「山茶花!下がれッ姫を――」
叫べば照応するように頷き、姫を抱えると背を向けた。吾平を通り過ぎる。ただ、その合間の吾平は笑っていたようにみえた。
「先輩ッ!姫を、よろしくお願いします!」
「ま、」
「吾平が!……一人、戦ってるんだ」
あの時と、同じだった。
強くなると決めて、実際にに力もついたと思っていた。けれど、吾平は山茶花を“逃がし”た。アカデミアに着く前と同じように、自らだけで戦おうとする。誰かを助ける為に、自らを残す。何も、知らずにいたあの時と同じように、山茶花は今、吾平に守られている。
(それは孤独だろうか)
たった一人、誰もいない場所で戦うのは。誰一人、その姿を見ることもなく、留まるのは。――逃げても、誰も責めない。自らの身を守ろうとして、それで負けても、誰も何も言うことはない。
それでも、吾平は一人、そこに踏ん張り続ける。
それはまるで、自らを盾としているというよりも、それこそが己の役割だと――意義なのだと在り方で主張するように。
「戻ります、俺」
命令違反でもよかった。
吾平が一人でも十分なこともわかっていた。
それでも、ただ一人。吾平を一人にさせることだけは、我慢できなかった。
(ただ、傍にいたい)
何の力にもなれない己が、恨めしく思った。




