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見えない境界線

 昼の地下鉄は騒がしい。


 スーツ姿のサラリーマン。制服を着た学生。大きなキャリーケースを引いた旅行者。ベビーカーを押す母親。みんなが同じ方向を向いて、同じ速度で流れていく。レヴィン連邦首都エストルム、昼十一時の地下鉄中央線はそういう場所だ。


 ルシアン・アルドリッジは吊り革を掴みながら、窓の外を見ていた。


 トンネルの壁が流れていく。広告の貼られた柱が一瞬だけ光の中に現れて、また暗闇に消える。次の駅まで四分。特に急いでいるわけではない。今日は用事を片付けながら、街を歩くつもりだった。


 ジャケットの内側にステッキが収まっている。伸縮式の、現代型。収納時は大型ボールペンに見える。大半の人間はそれをステッキだとは認識しない。そのために設計されている。


 電車がホームに滑り込んだ。



 商店街は活気があった。


 青果店。薬局。衣料品店。リサイクルショップ。昔ながらの食堂と、最近できたらしいクレープ屋が並んでいる。平日の昼間でも人の流れは途切れない。路面には日差しが当たり、アーケードの天井にその光が複雑に反射している。


 ルシアンは薬局に入った。


 目的は消耗品の補充だ。マナを安定させるための補助剤。正確には魔法関連品ではなく、「栄養補助食品」として市販されているものだが、魔法使いの間では用途が知られている。グレーゾーンに属する。グレーゾーンが、この社会では最も使いやすい。


 レジで支払う。店員は愛想よく釣り銭を返した。何も起きない。


 ただ、ポイントカードを作るかと聞かれたとき、ルシアンは断った。


 習慣だ。個人情報の登録は最小限にする。ポイントカードに名前を書いたからといって、すぐに問題が起きるわけではない。しかし積み重ねが怖い。データは繋がる。繋がると、ある日突然、別の場所で何かに使われる。


 それが分かっているから、断る。


 何年もそうしてきた。



 大型家電量販店は七階建てで、エスカレーターが永遠に続くように見えた。


 ルシアンは旧式の携帯電話の修理部品を探しに来ていた。スライド式キーボードのバックパネルにひびが入っている。同型機の流通在庫はもうほとんどない。メーカーに問い合わせても「生産終了品のため対応不可」と言われる。だから毎回、こういう店を梯子して探す。


 三階のジャンク品コーナーに、それらしいものがあった。ガラスケースの中に、同型機の筐体が二台。店員を呼んで、部品として使えるか確認する。


 話している途中で、店員の視線が一瞬だけルシアンの耳のあたりで止まった。


 気づいていた。


 ルシアンのローブの襟が、ジャケットの隙間からわずかに見えていた。日常的な装いだ。街中では上着で隠しているが、完全に隠しきれないこともある。


 店員は何も言わなかった。


 ただ、それ以降の対応が少し変わった。言葉は丁寧だが、目が合わなくなった。説明が短くなった。在庫の奥を確認してくれるかと頼んだとき、少し間があってから「確認してみます」と言われた。


 三分後、「在庫はございませんでした」と返ってきた。


 ルシアンはそうですか、と言って店を出た。


 怒ってはいなかった。


 怒るには、もう慣れすぎている。



 路面に出ると、日差しが強かった。


 オフィス街に続く大通りは、昼休みのサラリーマンで混雑していた。テイクアウトの袋を提げた人間。スマートフォンを見ながら歩く人間。角のコーヒーチェーンには行列ができている。


 高架道路が頭上を通っていた。


 光と影が交互に落ちる場所。ルシアンはその境目に立ち止まって、少し考えた。


 就職。住居。銀行口座。保険。


 魔法使いであることが、どこかで必ず引っかかる。露骨に拒否されることはほとんどない。直接「魔法使いだから」と言われることも、最近は減った。


 ただ、審査が通らない。連絡が来ない。対応が変わる。


 誰も悪意があってやっているわけではない、とルシアンは思う。たぶん本当に。慣習だ。前例がない。リスクが読めない。そういう理由で、ゆっくりと、しかし確実に弾かれていく。


 怒鳴っても変わらない。


 裁判を起こしても、証明が難しい。


 だから慣れる。慣れて、別の方法を探す。


 それがルシアンにとっての日常だった。



 声をかけられたのは、路地に入ったカフェの前だった。


「ルシアン」


 振り返る。


 香色の耳が、人波の中から見えた。


 フィナ・ルーンフェルドが立っていた。昨夜とは違って、マントではなく薄手のコートを着ている。ウィッチハットもない。ただ、獣人の耳と尻尾は隠しようがない。狐族の耳は大きく、周囲の人間の視線をさりげなく集めていた。本人は気にしていないように見えた。


 両手に買い物袋を提げている。


「買い物ですか」


「うん。いろいろ足りなくて」


 フィナは袋を少し持ち上げて見せた。洗剤。タオル。電池。日用品の類いだった。


「このあたりは詳しくないの。お店が変わってて」


「変わった、というのは」


「昔と違う」とフィナは言った。「十年前に知ってた店が半分くらいなくなってる。あと、支払いが全部タッチ決済になってて最初戸惑った」


 ルシアンは少し考えた。


「案内しましょうか。この近くなら分かる」


 フィナは一瞬だけ耳をぴくりと動かした。それから、「じゃあお願い」と言った。



 二人で大通りを歩いた。


 フィナはよく周囲を見ていた。視線がよく動く。街頭の広告ディスプレイ。自動運転バスのルート案内。コンビニの軒先に並ぶ宅配ロッカー。一つ一つを確認するように見ていた。観光客のような視線ではない。むしろ、記憶と照合しているような目だった。


「あのバス、無人なの?」


「路線によっては。市内の主要路線はほぼ自動化されてます」


「そう」とフィナは言った。「そうか」


 それ以上は言わなかった。


 ルシアンは横を歩きながら、フィナが何を感じているかを考えた。街が変わった。そういう言葉で済む話ではないはずだ。十年間、外の世界から切り離されていれば、街だけでなく、生活の前提が変わっている。支払い方法。情報の流通。交通のかたち。生活の細かい前提が、気づかないうちに全部更新されている。


 ルシアンには、その感覚が分からない。


 分からないと分かっていた。


「これ、なんて読む?」


 フィナが立ち止まって、路面の案内表示を指した。路線バスの新しいシステム名だった。略称が流行していて、正式名称はほとんど使われない。


「カナライドって読みます。自動配車のバスシステム。三年くらい前から普及した」


「三年前か」フィナはその表示をもう少し見ていた。「私が出てくる一年前か」


 小さな声だった。独り言に近い。


 ルシアンは何も言わなかった。


 しばらく歩いて、フィナが聞いた。「流行語ってどう調べればいいの」


「ネットで検索すれば出てきます。ただ流行り廃りが早くて、去年流行ったものが今年は古くなってることも多い」


「じゃあ追いかけなくていいか」


「追いかけなくてもたぶん困らない」


「そっか」とフィナは言って、少し笑った。


 久しぶりに見る笑顔だった。


 小さくて、すぐ消えた。でも確かにあった。



 大通りの角で、街頭の大型モニターが切り替わった。


 ニュース映像だった。


 議会の廊下。マイクの前に立つスーツ姿の男。首相府の紋章が映る。音声はない。テロップだけが流れていた。


〈国家安全強化政策・第三次改定案 本日閣議決定〉


 続いて小さな字で、魔法関連活動の監視強化を含む、という文言が流れた。


 フィナの足が、ほんのわずか遅くなった。


 ルシアンは視線をモニターから外した。


 何も言わなかった。


 フィナも何も言わなかった。


 二人はそのまま歩き続けた。モニターは後ろに遠ざかる。テロップはまだ流れているが、もう読めない距離になった。



 ホームセンターで、フィナは工具を選んでいた。ドライバーのセット。どれが良いか分からないと言ったので、ルシアンが一緒に選んだ。ステッキの細かい調整に使うのだと言っていた。


 レジで支払うとき、フィナは財布から現金を出した。


「タッチ決済じゃないんですか」


「作り方が分からなくて、まだ現金」


 ルシアンは少し考えてから言った。「後で教えます。そんなに難しくはない」


「助かる」


 店を出ると、日差しが少し傾いていた。午後になっていた。


「ここまでで大丈夫」とフィナは言った。「ありがとう。助かった」


「用事があれば」


「うん、また」


 フィナは買い物袋を両手で持ち直した。香色の尻尾が、歩き出すたびにゆっくり揺れた。人波に混じって、すぐに見えなくなった。


 ルシアンはしばらくその場所に立っていた。


 特に何を考えていたわけでもない。


 ただ少し、時間が経った感じがした。



 帰りの地下鉄は混んでいた。


 ルシアンはホームのベンチに座って、電車を待った。次の電車まで四分。スマートフォンではなく旧式の携帯を取り出して、時刻を確認する。修理部品はまだ見つかっていない。また別の店を探す必要がある。


 向かいのホームに、人が来た。


 五人ほどのグループ。みんな同じような服装をしている。紺色のジャケット。感情を読ませない表情。動き方に、何か特有のリズムがある。


 ルシアンは一度だけ視線を向けて、すぐに外した。


 国家保衛省の関係者だろう。オフィカジと呼ばれる私服勤務の格好によく似ている。何か特別な任務というわけではなく、ただの移動かもしれない。それはルシアンには分からない。


 グループの中に、一人だけ、少し浮いた男がいた。


 二十代後半くらい。体格はがっしりしているが、動きに余計な力が入っていない。他の四人とは少し異なる間合いで立っている。視線の動かし方が違う。他の者が前を向いているとき、この男だけがごく自然にホーム全体を見渡していた。癖のようなものだろう。あるいは、訓練の結果か。


 男はルシアンの方を見なかった。


 ルシアンも、特に気に留めなかった。


 向かいのホームに電車が来て、グループが乗り込んだ。扉が閉まる。電車が走り去る。


 数秒後、ルシアンのホームにも電車が来た。


 乗り込む。扉が閉まる。


 地下鉄は暗いトンネルの中へ入っていった。


 何も起きなかった一日が、静かに終わっていく。

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