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コンビニ駐車場

 夜の匂いがする。


 アスファルトの熱。ディーゼルオイル。誰かが吸い捨てた煙草の残り香。深夜のロードサイドはいつもこんなふうに、昼間の喧騒をゆっくり消化しながら息をしている。


 ルシアン・アルドリッジは、コンビニの駐車場の端に立っていた。


 白いローブの上に、くたびれた灰色のジャケットを羽織っている。深夜に金刺繍など晒す気にはなれない。ステッキはジャケットの内ポケットに収めてある。見た目は普通の若者だ。少なくとも、見慣れていない人間には。


 時刻は午前一時十五分。


 首都エストルムから車で四十分ほど離れた郊外に、この店はある。大型トラックが三台横並びに停められるほどの駐車場を持ち、二十四時間営業で、深夜でも照明が白く煌々と灯っている。レヴィン連邦の郊外にはこういうコンビニが点在している。休憩場所として機能しているのは、大型トラックの運転手だけではない。


 ルシアンは駐車場の端から、店舗の明かりを眺めた。


 今夜、ここには十数人が来る。


 ほとんどが普通の人間に見える。フードを深めに被った三十代くらいの男。コンビニ袋を提げたまま駐車場をうろうろしている女。軽自動車の中で窓を少し開けながら煙草を吸っている老人。それぞれが店内に入るでもなく、立ち去るでもなく、ただ何かを待っている。


 普通の市民が見れば、深夜のたむろに見えるだろう。


 だがルシアンには分かる。


 フードの男のポケットから、わずかに木製の柄が覗いている。煙草を吸っている老人の手首に、使い込まれた革のバンドが巻かれている。コンビニ袋を持った女は袋を体の前で抱えているが、中に何か硬いものが入っているように見える。


 魔法使いは、お互いが分かる。


 理屈で説明するのは難しいが、そういうものだ。長年使い込んだ道具の気配。それを当然のものとして扱う所作。あるいは、何十年も社会の裏側を生きてきた者だけが持つ、独特の静けさ。


 ルシアンは旧式の携帯電話を取り出した。スライド式のキーボードが開く。時刻を確認する。


 一時十七分。


 遅れている。


 といっても、こういう取引に定刻はない。双方にとって都合が良く、安全な時間に動く。それが地下市場のルールだ。ルシアンは特に苛立ってもいなかった。ただ、空気を読みながら待つ。夜の駐車場を、ただ眺める。


 遠くで高速道路の走行音がする。首都高方面だろう。このあたりは幹線道路と高速が交差していて、深夜でも車の往来が途絶えない。レヴィンという国は、眠ることを知らない。



 黒いセダンが、音もなく駐車場に入ってきた。


 ナンバープレートを目で追う。エストルムの番号。レンタカーではない。オーナーカーだ。ルシアンは直接確認したわけではないが、このセダンがここへ来るのは今夜で三度目だった。毎回、同じ車。同じ時間帯。同じ立ち位置。信頼性という概念を、売人なりに体現しようとしている。


 セダンが駐車場の隅に停まった。エンジンは切らない。窓が少し開く。


 それだけで、駐車場全体の空気が変わった。


 各々が動き始める。自然に、しかし整然と。一人が車に近づく。短い会話。何かを渡す。何かを受け取る。ほんの二十秒ほどで終わる。次の人間が近づく。繰り返す。


 星露の取引だ。


 ルシアンは列に並ぶことなく、少し離れた場所から見ていた。急ぐ必要はない。自分の番は最後のほうでいい。


 星露。


 本来はマナの補充剤として用いる。魔法使いが体内のマナを消費したとき、その回復を助けるための素材だ。かつては薬屋で普通に売られていたものが、今は完全に地下へ潜っている。規制対象になってから三十年以上が経つ。


 ルシアンは特にマナ切れを起こしているわけではない。月に一度か二度、このルートで購入して保管している。薬は切れてから入手しようとしても遅い。地下市場のものは常に品薄で、入荷も不定期だ。


 ふと、視線を感じた。


 横を向く。


 いつの間にか隣に人が立っていた。



 深い紫色のロングマント。ウィッチハット。桃色の長い髪。そして、コートの隙間からかすかに見える、香色の大きな尻尾。


 目立つ。


 この駐車場の人間の中で、こんなにも堂々と魔法使いの装いをしている者は他にいない。一般人に見せるためのカモフラージュを、この女は一切していなかった。


「初めて見ますね」


 ルシアンは言った。


「あなたもでしょ」


 女は前を向いたまま答えた。声は落ち着いている。威圧感はない。ただ、少し疲れているような声だった。


「ここには何度か来てる」


「私は初めてよ。場所を教えてもらったの」


 誰に、とは聞かなかった。聞くことではない。ここに来る人間は全員、何らかのルートで情報を手に入れている。その出所を互いに詮索しないのが暗黙の了解だ。


「フィナ」と女は言った。「フィナ・ルーンフェルド」


 名前を名乗るのも、珍しい。ルシアンは少し間を置いてから答えた。


「ルシアン・アルドリッジ」


 フィナは初めてルシアンの方を向いた。


 瞳は穏やかな色合いをしていた。年齢は二十代後半くらいに見える。きれいな顔立ちだが、それよりも先に目に入るのは、目の奥にある何かだった。うまく言葉にできないが、長い時間を一人で過ごした人間が持つ、特定の静けさに似ていた。


「アルドリッジ家」と彼女は言った。「知ってる。古い一族ね」


「ルーンフェルドも古い」


 フィナは少し口の端を動かした。笑いとも困惑ともつかない表情だった。



 取引が粛々と進んでいる中、ルシアンは視野の端で駐車場の出入り口を確認し続けていた。意識的なものではない。長年の習慣だ。


 その時。


 幹線道路から、一台の車が減速するのが見えた。


 銀色のミニバン。


 ルシアンの足が、ほんの少し止まった。


 駐車場全体に、目に見えない緊張が走った。誰も声を上げない。動きを止めたわけでもない。しかしその一瞬、全員の動作がわずかに変わった。自然な立ち位置を維持しながら、出口を意識した動き。黒いセダンの窓がわずかに閉じる。


 国家保衛省の潜入車両は、銀か白か黒の無特徴なボディが多いとされている。根拠は薄い。あくまで噂だ。だが噂であっても、深夜の取引場所で銀色のミニバンが減速すれば、全員の神経が反応する。


 ミニバンは、駐車場へ入ってこなかった。


 そのまま速度を戻して、幹線道路を走り去っていった。


 一般車両だった。


 緊張が、ゆっくりとほどける。誰も何も言わない。それがまた日常だった。この場所における日常。


 ルシアンはゆっくりと息を吐いた。隣でフィナが、小さく手首を押さえているのが見えた。手首に、何か古い傷のようなものがある。彼女はすぐにマントの袖で隠した。


 ルシアンは何も言わなかった。



 取引は三十分ほどで終わった。


 黒いセダンが駐車場を出ていく。各々がそれぞれの方向へ散っていく。誰も群れない。名残を惜しまない。ただ静かに、各自の夜へ戻っていく。


 ルシアンは小さな紙袋を内ポケットに入れた。星露は密閉された容器に入っており、扱いは慎重にする必要がある。光に当てすぎてもいけない。温度変化にも弱い。地下市場で流通するものは品質のばらつきが大きく、毎回確認が必要だった。


 駐車場から歩き出したところで、後ろから足音がついてきた。


「同じ方向?」


 フィナだった。


「北の方向なら」


「じゃあ少し一緒に歩く」


 断る理由もなかった。二人で幹線道路沿いの歩道を歩き始めた。深夜の風が通り過ぎる。遠くに高速道路の光が見える。コンビニの明かりが背後に小さくなっていった。


 しばらく無言で歩いた。


 フィナが口を開いたのは、信号が赤になって二人が立ち止まったときだった。


「最近、若い魔法使いが増えた」


 独り言のような言い方だった。


「気づいた? 今日のあの場所。二十代前半くらいの子が、何人かいた」


 ルシアンは答えなかった。


 答えられなかった、というほうが正確かもしれない。


 気づいていた。フィナが言う通り、今夜の駐車場には若い顔があった。ルシアンの年齢より下に見える者が、少なくとも二人いた。彼らはまだ、この種の場所に来慣れていない。動き方に、余計な緊張があった。


 若い魔法使いが増える。


 それは良いことなのか、悪いことなのか。


 魔法使いの文化が若い世代へ引き継がれている、という意味では喜ばしい。しかしこの世界で、魔法使いとして生きることの意味を彼らは分かっているか。地下市場に足を踏み入れることの危険を理解しているか。深夜の駐車場で、銀色のミニバンが減速するたびに心臓が跳ねるような人生を、彼らは選んでいるか。


 信号が青に変わった。


 ルシアンは歩き始めながら、ただ言った。


「そうだな」


 それだけだった。


 フィナも何も言わなかった。


 二人は深夜の幹線道路を、並んで歩き続けた。遠くで高速道路が光っている。どこかで大型トラックがギアを変える音がした。コンビニの白い照明が、もうずっと遠くなっている。


 世界は静かで、しかし少しも安全ではなかった。


 それがこの街の、深夜一時過ぎの顔だった。

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