第083話 一筋の涙 * 海辺の街ルフラン〈リュカ〉
リュカ目線。
「お前…レイリーじゃないのか?」
一瞬この場の空気が冷えたように感じたが、レイは男の話は無視するようにソフィに「ごちそうさま」と告げて自分を引っ張って店から出た。
「レイ?」
歩みを早めるレイに少し違和感を感じて声を掛けたが、レイはチラリとだけこちらを見て、「さっき言ってたユスラン様のお土産。今から買いに行く?」と普通に訊ねてきた。
あの男から意識を逸らそうとしているのは、自分にもわかる。
けれど、『そうしよう』と軽くのった方がいいのだろうか。
あまり、男とのことは詮索されたくないのだろう。
レイは、何一つ自分自身の事を明かそうとしない。
自分の隣にいるのは『たかが護衛の任務』だからで、個人的な馴れ合いはする必要がないからだ。
どうだっていいことなのに、自分はそれを痛感する度に胸がチクチク痛む。
だが、後ろから男の声がした。
「可愛いガキ連れて無視か。いい根性してんな」
自分だけ振り返ると、案の定、先程のイグナシオと呼ばれた男が立っていた。
レイは構いたくないのだろう。まだ聞こえないふりをつき通すように歩みを進めるが、男はゆっくりとついて来てもう一度話しかけてきた。
堀の深い奥まったその目はレイではなく、じっと自分を見ていた。
「なるほど、可愛い子だな。高値で売れそうだ」
今何て言った?
自分は腰に下げた剣に手を掛けようとした瞬間、レイはくるっと振り返ってようやく男の言葉に答えた。
「用事があったらこっちから伺うわ。ついてこないでくれる?」
「レイリー。冷たいな。久しぶりに会えたって言うのに、そう言い方するのかい?
そうやって俺から女のようなガキを後ろに庇うことも出来るようになったのか。大したもんだよ」
男は片端だけを歪めさせた皮肉めいた笑いを見せる。
「店に女の子待たせてるでしょ?」
レイが苛立つように返すと、男はもう一度、にやりと笑って近づいてきた。
「俺にとっちゃいつも最優先はレイリー、お前だよ。
それともナニか?金さえ渡せば何でもしてたあの頃とは違うって言いたいのか?」
その発言にドキっとして見上げると、レイは完全に美しい顔で微笑していた。
その隙のなさに、息を飲んだ。全ての感情を封じた顔だ。
「だから、何度も言わせないでちょうだい?用事があったらこちらから伺うって」
そう言うと、男はポケットに手を入れたままゆっくりとレイに近づいた。
至近距離でレイの目の前に立つと、ポケットから折りたたんだ紙を取り出してレイのベルトに差し込んだ。
そして、レイの上着をぐいっと強引に掴んで、抱くように引き寄せると耳元で何かを話をして、ゆっくり離した。
自分には何を話したかはわからなかった。
ただ、それが男女の抱擁にさえ見えた。
見てはいけない一面を見てしまった気がする。
自分は、あれからレイに声を掛けることが出来なかった。
会話らしい会話もなく、宿泊先に向かおうとした時、レイがふと屋台の前で立ち止まった。
景気のいい声で「兄さん、果物はいかが?」と声を掛ける。
見たことのないその果物はカラフルな色で、味が全く想像できそうにない。
するとレイは慣れた手つきで指を差し、無言で店員に指示して二つ購入するとその一つを手渡してくれた。
「ありがとう」
お礼は言ったが、食べたことない形状でどうやって食べるのか黙ってレイを見ていたら、貸しなさいと言って器用に皮を剥いでからもう一度手渡してくれた。
瑞々しい果肉にかぶりつくと、甘酸っぱい味が口いっぱいに広がった。
「おいしい」
レイは自分だけに見せるいつもの無表情のまま、こちらを見ることなく「そう」とだけ答え、同じように果物を齧った。
大通りにも爽やかな夜の潮風が吹く。
無表情の中にも疲労が垣間見える。果物を食べながら宿にも入らず、壁に凭れながら二人。何気ない夜の景色を意味もなく眺めていた。
寝るには早い時間というのもあるが、先ほど言いかけていたように『お土産を買いに行こう』と提案する気にはなれなかった。
自分はレイがどうしたいのか、静かに見守ることしかできない。
潮風に揺れる赤い髪が、レイを遠くの世界に連れて行ってしまうのではないかと思わせるほど儚げに感じる。
普段のあれほど個性的な存在が嘘のように、ごった返すルフランの街に溶けてしまいそうだ。
レイは自分の単なる護衛で、それが仕事なのはわかっている。
ここで何も口にしないのは、彼にとっての正解だということも承知している。
けれど、この夜の無言の重圧が自分の心を強く揺さぶり、考えるより先にどうしても訊ねたかったことが口から出ていた。
「さっきの男と、夜、会うつもりか?」
遠くの屋台を見たまま、レイはそれについては何も答えなかった。
多面的な彼の全て知った訳ではないから、この想像は外れているのかもしれないが、この無言をどう捉えていいのか少しわかった気がした。
自分は、それを知って自分の正直な気持ちを言うべきかどうか迷っていた頃、レイは独り言のように呟いた。
「この街の夜の景色は、嫌いだったわ」
意外だった。過去を話すことなど一度もなかったからだ。
自分も同じように、レイの視線の先を眺める。
夜には閉まっている店先に乞食と思われる輩が胡坐を掻いて座り、その前を楽しげに酔っぱらった集団が歌を歌いながら通る。
乞食に気付いた集団は愛想程度に硬貨を投げつけて縺れた足で通り過ぎていく。乞食の表情は見えなったが、深々と頭を下げてからそれを必死にかき集めた。
そして脇の通りからは、客引きの女たちが半裸のような格好で現れ、偶然に通りかかった男たちにすり寄り、色気仕掛けで交渉してすぐに裏路地に消える。
その目の前の大通りには、賭博場へ向かうのか高級な馬車が何台かせわしなく行き交った。
ルフランのありのままの夜の日常が広がる。
自分には、あの日の綺麗で特別な思い出しか無かったけれど、色々な人たちが、色々な思いでこの海辺の街を過ごしているのだ。
今更ながら、街に入った瞬間、レイが自分に訊ねた言葉を頭の中で繰り返した。
『浮かれてんの?』と。
それに、深い意味はなかったのかもしれない。
けれど、彼にとってのこの街は、決して、自分と同じように楽しげなものではなかったのだ。
レイを見上げると、心中を見せない顔で淡々と言った。
「自分以外が幸せに見えて、嫌だった」
何故か、その言葉が心の中で嵐のように渦を巻く。
「レイ……」
自分は、思わずレイの手を強引に掴んだ。何故そうしたのか、自分でもわからない。
ハッとした顔で、レイは自分を見下ろした。
「あ。変な話ししたわね」
この無表情な顔は悟られまいとする顔だ。自分はこの顔に何回も遭遇している。
ギュッと掴んではっきりと言った。
「行くな。行っては駄目だ」
すると、無表情のままレイは反対側の手で、自分の頭に何度か軽くチョップした。
冗談で取り繕うように「ダダこねてるガキみたい」と言って。
『この街の夜の景色は、嫌いだったわ』
眠れない。全く眠れない。ゴロリと寝返りを打ったが、レイは『お酒買ってくる』と言って出たまま、やはり帰ってこない。
そのくせ、ここからは絶対出るなと言い残して。
勝手な男だ。ずっとレイは自分勝手だった。
例の男のところにでも行ったのだろうか。
『お金さえ渡せば何でもしてたあの頃とは違うって言いたいのか?』
男が言った言葉を考えたくない。
けれど、レイはあれほどの容姿だ。
知っている。
そういった地域があることを自分は知っている。金で買われた美形を養う屋敷を。
そして、その者達は対価として体を金に換えるのだ。
自分も一度そういった屋敷の主人に誘拐されそうになって、ロクシアに助けられたことがあるからだ。
その現状を目の当たりにした日、人間がどの獣よりも浅ましいと思った。
この街にも、そういう場所が存在するのか。
レイが、女言葉を話す理由。
それも、彼の『仕事』だったのかもしれない……。
胸が痛い。他人の事なのに。
あの時まで、自分だけが不幸だと思っていた。
あの学校で、自分だけが、恵まれない存在なのだと。
メイリンも言った。
『あたしもそうなの。
誰もいない。全員、殺されたから』
シュライゼもいつか言っていた。
『遊んで、喧嘩して、はしゃぎ回って、ずっとそんなことしてたかったな』
レイも。
『自分以外が幸せに見えて』
……眠れない。
ギシっと鳴る寝台に起き上がり、サイドの机に置かれたランプに火を灯した。
くそっ!……眠れないのは、誰の所為だ。
上着を着て長剣を腰に差して立ち上がる。外の空気を吸いに行こうと思った。
絶対出るな、と言われる筋合いなどそもそもないし、その言いつけを守る言われもないのだ。
自分の言うことなど、何一つ聞き入れてくれたことなどない癖に。
そうだ。果物でも買いに行こう。さっき食べたあの果物は美味しかった。
個人的なことに首を突っ込むなど面倒事は、今までの自分なら絶対しなかったことだ。
別に、レイを探しに行くわけではない。果物を買いに行くのだ。
宿泊先を抜けて、無意識に屋台を見て歩いた。
酒を販売する店はもう既に閉店している。
何が『酒を買いに行く』だ。マシな言い訳も思いつかなかったのか。
無性に腹が立つ。
飲み屋は開いているのだろうが、自分は一滴も飲めないことは随分前ユスランの居室でした宴で立証済みだ。
大通りには沢山の馬車が引っ切り無しに通っている。
街頭の火は道の両脇を規則的に照らし、遠くまで続いている。
整備された海辺の街。微かに過る潮の香り。
楽しいばかりだと思っていたこの街が、少し濁って見えるのは、レイの知らない過去を垣間見たからだろう。
レイがさっき買ってくれた果物をもう一度買って一人で食べた。
甘酸っぱい味。
だが、何故だ。
全く、美味しく感じない。
苦くて、
ただただ、つらいことしか思い出せない。
ロクシアに置いていかれ一人ぼっちになって、村を飛び出して森の中で怯えながら過ごしたあの日々のように。
孤独を噛みしめた毎日と同じように感じるのは、何故だ。
レイはただの雇われた護衛だ。
同じ学生でもなく友達でもなく、金で雇われたただの護衛だ。
自分にとっても彼にとっても、そんな絆しかない。
それなのに、これほど胸が痛いのは何故なんだ。
冷たい嘘ばかりをつくあの男が、自分は嫌いだったじゃないか。
誰も、レイ自身も、『救ってくれ』なんて一言も言っていないじゃないか。
それなのに、自分は。
誰のために、この胸は痛んでいるんだ。
わからない。
全く、わからない!
今、頬に一筋の涙が零れ落ちたのを知った。
自分は、迷子で、泣いているのか。
子供でもないのに、馬鹿げた話だ。
すると、後ろから声を掛けられた。
「おい」
そのまま振り返ると、見覚えのある背丈の男が立っていた。
その男を認知するまで、少し時間がかかった。
「女」
息を飲んだ。
その黒い装束は、亡霊なのか。
孤独に耐えかねた錯乱状態の中、あの日の続きの夢でも見ているのだろうかとさえ思った。
あの日の、男が目の前にいた。




