暑い。とにかく暑い。4.
11時にデイサービスの送迎車を見送ってから、時間が空いているので事務所へ寄った。
マンションとイオンスーパーの隙間に肩をすぼめるように建っているビルの12階へ上がると、有線放送から流れるチャート曲が控えめな音量で耳に入ってくる。
「ああ、篠崎ちゃんおった」サ責のデスクに座っていた彼を視界に捉えると、令子は空いている椅子にトートバッグを置き、ウォーターサーバーから汲んだ水を一杯飲み干してから歩み寄った。
「おはようございますー。沢田さん今日ですね」
パソコンから目線をこちらに向けると、彼は穏やかに微笑んだ。
「そうそう。それでな、ケアで軟膏塗るてあったやん? アレてやっぱり、火ぃ出たとこが火傷してるん?」
んー、と視線を斜め上に移して思い出すような姿勢になった後、篠崎はパソコンから何かのファイルを呼び出した。沢田杏の症状について調べた資料のようだ。
「沢田さんのメインの症状って、どうやら火ぃそのものではないみたいなんですよね。特殊とは区分けされてるけど、思ったより重度寄りというか」
彼はパソコンの画面をこちらに向けた。細かい文字とシンプルなイラストで構成された、難しそうなサイトのページが表示されている。
「……老眼鏡いるかな」
「ああ、すいません」
トートバッグを置いてある方へ向かおうとする令子を引き止め、篠崎は口頭で説明した。
なんでも、沢田杏という女の子は、生まれつき白血球の働きが強すぎる体質らしい。ガン化のリスクを避けるために、白血球が生み出す過酸化水素を汗として排出して、肌表面のカタラーゼの量を増やして効率的に水と酸素に分解するよう体質が変化した。この時、自律神経の乱れで出てくる汗に含まれるアセトンなどのガス成分が加わると、わずかな摩擦や静電気でも引火することがあるのだという。
「……ごめん、全然分からん」
チンプンカンプンだと白目をむいた令子に苦笑した篠崎は、もう少し噛み砕いて伝えた。
「要するに、生まれつき白血病体質やから、体がガンにならんように進化したけど、副産物の事故として発火するようになったってことです。燃えるのは揮発した成分だけなんで火傷はしないんですけど、いつも適度に汗をかいてないといけないから軟膏でかぶれを抑えるのと、定期的な運動も必須で移動支援がいると。あと、夏も部屋の冷房はかなり控えめにしてる言うてました。熱中症予防の水分補給が一番大事って感じですね」
「はーん……え、ちょっと待って」令子は、篠崎にもらった準備物も入っているトートバッグの方を見やった。「ほな、高校生がうっすら汗かく程度の環境の部屋に、あれ着て一緒におるゆーこと?」
朝に試着してみた時の着心地を思い出す。通気性が良いとは包装袋に書いてあったが、風が無い環境では意味が無さそうだった。安い割にそこそこ生地がしっかりしている。
「あー……」
「着やんと入るって、ナシなん?」
「でも発火で何かあった時に、あれないと労災おりなくなっちゃうんで」
「うそーん」
こうなると、持ち物が足りない。
消火に使う濡れタオルは水筒に入れているけれど、自分の汗を拭くためのものはない。
水分補給も絶対にいる。大きめの麦茶か、それとも思い切ってOS-1か。実際どれほどの環境なのか分からないから、とりあえず家まで取りに帰るか悩む。
考えあぐねていると、眼の前に千円札が二枚差し出された。
「自分の経費で落としとくんで、いるものあったら買ってから行ってください」
令子は千円札と篠崎の顔を交互に見た。「ええのん?」
篠崎は首を縦に振った。「もうちょっと早めに言うとくべきやったんで」
「ありまおんせんー!」
「いや二文字しか合ってないっす」
「がとーしょこらー」
事務所で自分の弁当を食べて、13時頃まで事務の三宅と雑談をしながらボーッと過ごしてから、バイク置き場へ向かった。
谷町九丁目の交差点近くに百均があったはずだ。コンビニと薬局も近くにあればいいが。
篠崎にもらった二千円を握りしめ、もとい、実際にはトートバッグに入れたポーチの感触を確かめてから、谷町筋へ向かって走る。
立ち寄ったダイソーの夏用グッズコーナーを物色していると、水で濡らすタイプの冷感タオルがあった。
常温の水でも使えるのはありがたい。入室して手を洗うついでに濡らそう。
一応3枚買ってから再度バイクにまたがり、上本町のダイコクドラッグにも立ち寄って、OS-1を2本と1リットルサイズの麦茶を買う。ちょうどいい時間になった。
チャットで共有されていた住所に到着すると、角地の地形に合わせて少し歪んだ六角形の一軒家があった。隣はもともと飲食店が入っていたらしい空き物件になっている。
薬局が入っていたハイハイタウンのトイレでツナギに着替えたが、既に少し汗が滲んでいる。
冷房を控えめにしていると言っていたので、外気と同じわけではないようだ。何度ぐらいで設定しているのだろう。
インターホンを押す。カメラ付きで、電子的な呼び出し音が鳴った。
応答がないまま、3分近く経った。
暑い。
もう一度押してみて、更に2分ほど待った。やはり出ない。
〈お疲れ様ですー。どうしました?〉
篠崎に電話をかけた。
「今沢田さんのとこ来てるんやけどね? インターホン押しても出えへんのよ。日程変更とかしてた?」
〈いやぁー、そんな連絡は来てないですけどね。ちょっと待っててください〉
そう言うと電話が切れた。
さすがに暑いので、ツナギの上半身だけ脱いでTシャツになり、袖を腰の前で結ぶ。DASH村で農作業しているTOKIOのメンバーみたいで、これはこれでテンションが上がる。
電話がかかってきた。
〈すみません。仕事先のお母さんと話して確認してもらったんですけど、来るの拒んで居留守してるみたいで〉
テンションが下がった。
「嫌がってるん? なんで?」
〈いやー分からないですけど。とりあえず今日は当日キャンセルですね〉
「挨拶だけでもしていきたいけどなぁ。今日は居宅やからキャンセル料もかかるし」
〈嫌がってるところに、うちが入ったせいで燃えてしまうのも問題なので。今日のところは……〉
「そうかぁー分かったぁ」
室外機の横に停めていたスクーターのカゴから、ヘルメットを拾い上げる。
それをかぶる拍子に視線を上げると、2階の窓から一瞬だけ、赤く小さな光が灯るのが見えた。




