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13/16

 その夜、事務所には二人しかいなかった。慧は孤児院の用事で出ており、ソフィアは週に一度の帰宅日だった。遥がそこに立ち寄った理由といえば――特にない。小夜が専門学校の課題で遅くなると聞いていたから、帰るより先にここへ来た。それだけだ。

  凪がいつもの場所にいた。ソファの上で膝を抱え、ノートパソコンの画面と睨めっこしている。エナジードリンクの缶が三本、テーブルの上に並んでいた。遥が入ってきた時、彼はフードを目深に被ったまま、画面から目を離さなかった。

「慧は」

「ハルシオンだよ。ついさっき出た」

「そうか」

  遥はバーカウンターに寄りかかる。何をするでもなくそこにいた。凪のキーボードを叩く音が、静かな事務所に規則的に響き渡る。

  しばらく会話は生まれなかった。日頃、彼らの間に横たわる静けさは、決して気まずい種類のものではない。しかし今夜は何かが違った。

  ふと気付けば、凪のキーボードを叩く音が途中から止まっていた。遥が気づいてそちらを見やると、凪は画面を閉じた。膝を抱えたまま、画面の消えたノートパソコンに視線を落とし続ける。

「……凪」

「なに」

「何か見てたのか」

  凪は少しだけ間を置いた。

「……昔のやつ。ちょっとね」

  それだけ言ってまた黙り込む。遥は何も聞かなかった。ただカウンターからそっと離れ、ソファの反対側に腰を下ろした。凪がフードを少しだけ後ろへずらす。青いメッシュの入った無造作な白髪が、間接照明の光を受ける。目の下のクマが今夜はいつもより深く見えた。

「……遥って、俺のこと聞いたことないよね」

「聞いてほしいのか」

「や、そういうわけじゃないけど」

  凪はエナジードリンクの缶を一本手に取り、やや間を置いて、しかし飲まずにテーブルに戻した。

「大仕事の前だし。話しといた方がいいかもね」

  遥は何も言わなかった。それが促しだった。

「俺の母親、研究者だったんだ」

  凪がぽつりと言った。声のトーンは変わらないが、普段の彼がほとんど見せることのない重たさが、静かに室内に落ちた。

「魔法の残滓を研究してた。この世界に、かつて魔法が存在した証拠――遺物とか、古い文献とか、そういうものをひたすら集めてね。大学の研究室に所属してたけど、まあ実質的には個人研究みたいなもんで、予算も降りなくて、学会でも異端扱いされてたよ」

「……そうか」

「でもさ。本物だったんだよ、研究」

  凪の声に、初めて微かな熱が混じった。

「魔法が存在した証拠をちゃんと見つけてた。古い建物の地下から出てきた石板に刻まれた文字が、既存のどの言語体系とも一致しない、独自の構造を持っていることを突き止めた。その文字が、特定の配列で組み合わさると、物理法則では説明できない現象を引き起こすことも確認してた。小規模だけど、再現性はあったんだ」

  遥は黙って聞いていた。

「俺は当時十一歳で、母親の研究室に入り浸ってたよ。学校よりそっちの方が面白かったからさ。石板の文字をデジタルでアーカイブしたり、データの整理を手伝ったり。母親も嫌がらなかった。むしろ一緒に考えてくれた。これはどういう意味だろうね……って」

  凪は膝の上で手を組む。

「楽しかった。本当に楽しかった。世界にはまだ、誰も知らない本物の謎があって、それを解ける可能性が自分たちにはあるんだって――そういう感覚があの頃は確かにあった」

  窓の外で、風が一度だけ強く吹いた。

「……その研究が……どこかに漏れた」

  再び凪の声が変わる。熱が消えた。代わりに入ってきたのは、感情の波を意図的に沈めた時の乾いた平坦さだった。

「魔法なんてものに復活されるとさ、困る人間が一定数いるわけ。物理至上主義と営利主義で成り立ってるこの世界のシステムが、根本から揺らぐから。特に、今の秩序の上で莫大な利益を得てる連中にとっては――そんな概念が戻ってくることは、最悪のシナリオでしょ?」

  遥の目が微かに動く。

「だんだん研究室に、不審な人間が出入りするようになった。母親も気付いてたよ。でも研究を止めなかった。石板の解読が、ちょうど核心に迫り始める頃だったから」

  凪は一度だけ深く息を吸った。

「俺が十二歳の冬だった。母親が研究室で死んでた」

  エアコンの音だけが、低く続いている。

「事故として処理された。深夜に一人で作業していて、棚が倒れて頭を打った、って。でも棚の倒れ方がおかしかったんだ。俺には分かった。棚は外側から力をかけない限り、あんな方向には倒れない。母親がどれだけ不注意でも、あの角度で圧し潰されるのは物理的にあり得ない」

「……誰かに頼まれた人間が、やったと」

「そう。でも証拠はなかったし、警察も動かなかった。……研究室のデータは全部消えてたよ。母親の集めていた石板も、気付いたら大学から消えてた。何もかも、最初からなかったことにされた」

  凪は組んでいた手を解いて膝の上に置く。指先が僅かに震えていた。

「俺には何もできなかった。十二歳で、金もなくて、何の証拠もなくて。叫んでも誰にも届かなかった。物理世界のルールはそういう風にできてる。金と力を持ってる側が、結局いつだって正しいことになる」

  遥は何も言わなかった。

「だからデジタルに潜った。物理世界のルールが通用しない場所なら、俺にも戦える気がしたんだ。そして実際、戦えた。二年か三年経つ頃には、母親を殺した依頼主の名前まで辿り着いたよ。大手の製薬会社の役員だった。魔法が復活したら、自社の薬が売れなくなると思ったらしい。……馬鹿みたいな話だろ」

「馬鹿みたいだな」

「ね」

  凪は鼻から短く息を吐いた。

「調べてくうちに、他のことも見えてきた。依頼主が誰で、実行犯が誰で、金がどう流れたか。デジタルの海を潜れば潜るほど、この世界の裏側の全体像が分かってきてさ。……最悪の気分だった」

  遥は何も言わなかった。

「母親を殺したのが利己的なクズ野郎だったとして、その周辺をどんどん掘ってくうちに、もっとひどいものが出てきたんだ。"金を払えば人が死ぬ"っていう構造が、思ってたより遥かに深くこの社会に根を張ってた」

  凪はエナジードリンクの缶を両手で包んだ。

「しかも――思想とか、信念とか、そういうものが一切ない。本当に何もない。金をもらったから動く。金が入ったから殺す。動機がそれだけの人間が裏社会に腐るほどいた。……俺さ、最初それを見た時、怒りより先に呆れたんだよね」

「呆れ……か」

「うん。"こいつら設定がなさすぎる"って」

  遥が凪を見た。凪はパーカーのフードの奥で、目を細めていた。

「ゲームで例えるなら――世界観も、キャラクターの背景も、何のロールプレイもなくただ暴れ回ってる害悪プレイヤーだよ。PvPゲームのフィールドに乗り込んできて、運営のルールの抜け穴だけ突いて、他のプレイヤーのセーブデータを消して回る。……それだけのために存在してる」

「シナリオクラッシャーだな」

  凪は少しだけ目を丸くした。遥がそういう言い方をすることは珍しかったからだ。

「そうそう! まさにそれ。シナリオクラッシャー。物語を台無しにする荒らし。……俺、そういう奴らが一番嫌いなんだよ。ゲームでも、現実でも」

  凪は缶を置いた。

「義賊とかの方が全然まだ分かる。盗むにしても殺すにしても、自分なりの理屈を持ってるじゃん。信念があってロールプレイも成立してるし。彼らなりに筋を通してる分、そういう存在として理解できる。でも、金のためだけに動く安直な殺し屋って――何もない。キャラクターとしての深みゼロ。クソ以下のプロットだよ、あいつらは」

  半ば苦笑しつつ、遥は短く息を吐いた。

「随分な言い方だな」

「正確な評価だと思ってる」

「まあ、間違ってはいない」

「だろ」

  凪は少しだけ、口の端を上げた。笑った、というより同意を確認した時の顔だった。

「で、そういう連中が母親を殺した。直接手を下した人間も、依頼した役員も――みんな、金の話しかしてなかったよ。通信記録を見たら分かった。いくらで、いつまでに、それだけ。母親が何を研究してたか、どんな人間だったか、そんなことは一ミリも出てこなかった」

  遥の右腕の刺青が、照明の角度で微かに見えた。

「……俺も似たようなものを想像することがある」

「遥の両親の件も?」

「ああ。依頼した人間の通信には、たぶん同じようなものしかない。金額と、日付と、完了報告。それだけだ」

  凪は少しだけ黙った。

「そういう連中が、今もまだ……この街を平気な顔で歩いてる」

「だから俺たちが狩る」

  それを聞いた凪は缶を手に取る。炭酸が弾ける音が、静かな事務所に響いた。

「うん。俺がデジタルで追いかけて、遥が物理で終わらせる。……それが一番効率の良いプレイングだと思ってるよ」

「プレイング、か」

  遥は少しだけ間を置いてから言った。

「……お前、本当にゲームの話をするように喋るな」

「現実がクソゲーだからそう例えるしかない」

「そうか」

「……でも」

  凪は画面を見ながら少しだけトーンを落とした。

「たとえクソゲーでも、一緒にやってるプレイヤーがいるなら、悪くない」

  遥は否定しなかった。

「ちなみに慧と会ったのはその頃」

  凪の声が少しだけ変わった。

「俺が十五歳の時。あの製薬会社の役員の情報を、匿名で複数のメディアと弁護士事務所に一斉送信してみた。当然、ほとんどは無視された。でも一件だけ、返事が来た」

「それが慧か」

「"情報の出所に興味がある。直接会えるか"ってさ。普通なら他の奴らみたく無視するよ。でも送ってきたメールのヘッダー情報が、異常に綺麗だった。追跡を完璧に遮断してあって……なのに送信元のサーバーだけは意図的に特定させてあった。"俺は隠れない。そしてお前のことは追わない"っていうメッセージだった」

「あいつらしいな」

「マジで気持ち悪いくらい頭いいと思った、その時」

  凪は少しだけ口の端を上げた。笑み、というより懐古の雰囲気に近かった。

「会いに行ったら事務所に通されて、最高級の紅茶が出てきたよ。弁護士のくせに普通じゃない雰囲気の人間がさ、銀貨を指で転がしながら待ってるんだ。俺のハッキングの技術と送ってきた情報の精度を、開口一番で的確に評価してきた。褒めてるのか値踏みしてるのか分からない言い方で」

「両方だろ」

「今なら分かるけど、あの時は分からなかった。で、慧が言ったんだ。"君が欲しいものは何だ"って」

  凪は少しだけ間を置いた。

「俺は答えた。母親の研究を続けたい。魔法が存在した証拠を、消させたくない。そしていつか、魔法を取り戻したい。……そう言ったら慧は笑わなかった。眼鏡の位置を直しながら、"動機としては十分だ"って言うだけだった」

「想像できる。そういう奴だからな」

「うん。だから信用した。笑わなかったから」

  遥は少しだけ、目を伏せた。

「その役員は」

「慧が社会的に終わらせてくれた。半年かかった。でも徹底的。裏資金の流れを全部暴いて、関連する複数の不正取引の証拠と一緒に表に出した。今は塀の中にいるよ。母親を直接殺した人間は――今も分かってない」

「……そうか」

「いつか分かると思ってる。慧もそのつもりでいる」

  凪はエナジードリンクの缶を手に取り、今度は一口飲んだ。炭酸の弾ける音が静かな事務所に小さく転がる。

「遥とは、慧に紹介された」

  凪が続けた。

「慧の事務所に出入りするようになって半年くらいした頃。慧が"今夜もう一人来る"とか言って。待ってたら、返り血を浴びた清掃員……お前が入ってきた」

  遥は何も言わなかった。

「第一印象は……うん、怖かった」

「俺が?」

「当たり前。血とか刺青とかシンプルな見た目もだし……ただ、眠たそうにしつつこの世の全てを掌握してる感じが一番。俺が部屋のどこにいるかを、入ってきた瞬間に確認してたな。たぶん本人は無意識だと思うけど。……そういう人間、初めて見た」

「お前も似たようなもんだろ」

「デジタル上ではそうかもしれないけど、物理空間ではそういうことできないよ。俺は画面越しじゃないと世界がよく見えない」

  遥は少しだけ考えてから言った。

「俺はデジタルが全然分からん」

「知ってる。だからちょうどいいんだよ、たぶん」

  首を回し、凪は少しだけ肩の力を抜いた。

「慧が言ってた。俺たちは互いの死角をカバーできるから、組むべきだって。最初はその言葉の意味がよく分からなかった。でも一緒に動いてみたらめっちゃ分かった。……遥が動く時、俺は世界を広く見える。俺がデータを掘る時、遥は俺の背中を守れる。そして慧はその流れを設計できる」

「言い得ているな」

「うん。慧は設計士だと思ってる。俺と遥は――道具じゃなくて、部品かな。精密な部品」

「部品か」

「あ、悪い意味じゃないよ。精密な部品がないと、どんな設計図も動かないから」

  遥は短く息を吐く。肯定の仕草だった。

「小夜ちゃんのことは――」

  凪が唐突に話題を変えた。

「どう思ってる、って意味じゃない。……最初に見た時の話」

「ああ」

「あの子、初めて事務所に来た時――何も言わなかったよな。入ってきて、遥を見つけて、それだけで安心した的な感じで壁際に座った」

  遥は何も言わなかった。

「俺、正直苦手なんだよな、あの子」

「知ってる」

「でも、最初に見た時なんか分かった気がした」

「何がだ」

  凪はエナジードリンクの缶を両手で包みながら、少しだけ考えた。

「一人の人間だけで世界が成り立ってる感じ。遥以外の全部が、ノイズに見えてるみたいな目。……かく言う俺も昔、そういう目をしてたと思う。母親が死んだ後は特にね」

  遥は凪を見た。

「だから苦手なんだよ」

  凪は少しだけ笑った。

「懐かしくて、苦手。それだけ。悪い意味じゃない」

「……そうか」

「あの子、遥がいなくなったらどうなるんだろうとは、たまに思う」

「俺がいなくなる予定はない」

「俺もそのつもりでいる。……だから俺はちゃんとやる。電子的な戦い方で遥の背中を守ってやる」

  珍しい凪の力強い断言だった。データの裏付けがないものに関しては、普段なら"まあ"とか"どうせ"という枕詞が付く。遥は少しだけ間を置いてから短く答えた。

「……頼む」

  凪はフードを被り直した。ノートパソコンを開いて画面に向かい始める。事務所にキーボードの音が戻ってきた。規則的で静かな音だった。遥はカウンターに戻って背をもたせかけ、黙々とその音を聞いていた。慧が戻ってくるまで、まだ時間がある。昼夜の逆転した少年の表情には、束の間の柔らかさが差し込んでいた。

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