第六十二話 先鋒戦
冬の夜気が肌を刺す。
郊外の廃れた広場に集まった二つの陣営は、互いの息遣いすら聞き取れるほど近く、緊張で張り詰めていた。
静まり返る空気を破ったのは、二人の男の足音。
最前線に立つ覚悟を決めた者たちが、光の下に歩み出る。
辻がゆっくりと前へ出ると、観衆からざわめきが起こった。
「辻が……!」
「本当に行くのか……!」
つい先日まで病院のベッドに横たわっていた男が、今こうして広場の真ん中に立っている。
その背中には、彼自身の意地と悔しさ、そして嵐が丘の名を背負う覚悟が乗っていた。
対するは、坊主頭の大柄な男――岩永、通称ベースボール。
黒天会の抗争で常に最前線に立ち、先陣を切ってきた武闘派だ。
分厚い拳を握りしめ、ニヤリと笑う。
「やっと始まるか。……派手に打ち砕いてやるよ」
辻は一歩も引かず、鋭い眼差しで睨み返した。
「そう簡単にはいかねぇ。最初からお前をぶっ倒すつもりで来てる」
街灯の下で二人の影が重なり、緊張が頂点に達した。
―
開始の合図とともに、ベースボールが先に動いた。
突進するように距離を詰め、右ストレートを振り抜く。
空気が唸り、拳が風を裂いた。
だが辻はその拳を紙一重でかわす。
靴底が砂を擦り、身体を低く沈めて横へ滑った。
「おおっ……!」
観衆から驚きの声が漏れる。
ベースボールの背中に回り込むと、辻は素早くカウンターの左フックを叩き込んだ。
肉が打ち合う乾いた音が広場に響く。
ベースボールの顔がわずかに歪む。
「チッ……小細工を……!」
辻は間髪入れず追撃。
ローキックを浴びせ、さらに跳び込みざまの膝を放った。
その動きは軽快で、観衆が思わず息を呑むほどだった。
―
だがベースボールも伊達ではない。
受けた膝を片腕で押さえ込み、そのまま辻の体を弾き飛ばした。
辻は地面に転がりながらも素早く立ち上がる。
唇を拭い、にやりと笑った。
「まだまだ効いてねぇだろ」
ベースボールの目が鋭く細まる。
「……上等だ。ちょっとは楽しませろよ」
再び激しい攻防が始まった。
辻はスピードと機転を駆使し、左右に揺さぶって的を絞らせない。
拳を交えるたびに砂煙が舞い、観衆からは「辻が押してる……!?」「すげぇ、やるじゃねぇか!」と声が上がった。
一瞬、嵐が丘側の空気が沸き立つ。
―
だが、少しずつ体力の差が表れ始める。
辻の呼吸が荒くなり、動きにわずかな遅れが出る。
それを逃さず、ベースボールの拳が襲いかかる。
「ぐっ……!」
まともに受けた腹へのボディブローに、辻が膝をつきかけた。
「ここからだ!」
気迫だけで立ち上がり、反撃の右を放つ。
だが、ベースボールはそれをブロックし、逆に顎へアッパーを突き上げた。
「――ッ!」
衝撃で辻の身体が浮き、背中から地面に叩きつけられる。
観衆が一斉に息を呑む。
―
それでも辻は立ち上がろうとした。
足をふらつかせ、血の滲む口元を拭いながら拳を構える。
「まだ……終わってねぇ……!」
その姿に、観衆の心が震えた。
「立った……!」「まだやるのかよ……!」
久里鬼が思わず拳を握る。
「……あいつ……根性見せやがる」
鷹鬼も目を細め、小さく呟いた。
「無茶しやがって……」
―
最後の力を振り絞り、辻は突っ込んだ。
小刻みにステップを踏み、ローを放ち、最後に渾身の右ストレートを叩き込む。
一瞬、ベースボールの身体が後ろに揺れた。
観衆がどよめく。
だが次の瞬間、逆にベースボールの左フックが炸裂した。
辻の顔面を捉え、衝撃が全身を駆け抜ける。
「ぐ……っ……!」
辻は膝から崩れ落ち、今度は立ち上がれなかった。
―
リックが片手を上げる。
「先鋒、ベースボールの勝ち!」
黒天会側から歓声が上がり、地面が揺れるほどの熱気に包まれた。
だが嵐ヶ丘の生徒たちも黙ってはいなかった。
「辻、よくやったぞ!」
「すげぇよ……あんなに善戦するなんて……!」
敗北は敗北。
だが、その戦いぶりは観る者の心を熱くし、誰もが驚きを隠せなかった。
辻は倒れたまま、表情を歪ませる。
「……みんな、ごめん……」
その顔は、悔しさに彩られていた。
先鋒戦はベースボールの勝利に終わった。
だが辻は粘りに粘り、善戦を重ね、観衆を驚かせるほどの戦いを見せた。
敗れたとはいえ、その姿は嵐ヶ丘の仲間たちに確かな勇気を残した。
次鋒戦へ――バトンは繋がれた。




