胸糞ブレイカー
不安に駆られながらも一夜明けて、朝の陽射しが部屋に舞い込む。
眠気眼で見回すと、そこにセルフィの姿はなく、まさかと思い慌ててベッドから飛び起きる。
だがそれは杞憂で、後ろから肩を叩くドールが窓の外を指差した。
「セルフィは船を用意してくれてるよ。ほら、あそこ。すごいね、大きいね」
ドールの細指の直線上には、海賊映画で見たような大きな帆船が泊められている。
かなり巨大に見えるが、国はあんなものを俺たちに寄越すのか?
そんな疑問を抱いていると、空から巨大な影が船を横切り、港周辺を動き回る。
上空にはリーヴァが飛んでいて、あれこれと作業員に激声を飛ばしていた。
「なるほどね……自分も乗れるようにか。これじゃ脅迫と変わらないよ」
「それもあると思うけど、ネクロくんの為じゃないかな。大切な人の命が懸かってるから、手を抜く訳にはいかないんだよ」
「ドール?」
たおやかに笑ってみせると、ドールは俺を待たずに部屋の外へと出て行った。
大人びたというか地に足が着いたというか。やはりドールの心情だけは伺い知れない。
その後は旅の門出を祝う食事が振舞われる。贅を尽くした料理の数々だったが、国が貧窮に立たされていると思うと心苦しい。
にも関わらず、彼女らは毒を盛ってないかと、シェフを問い詰め毒見までさせて、もてなしを邪見に扱った。
そしていざ、出航の時を迎える。
港にはようやく別れを告げられるからか、安堵を浮かべる王と純粋に旅の成功を祈る王子。そして悲しみに暮れるセルフィの泣き顔が並んでいた。
「ネクロ、必ず無事に戻ってきてね」
「当然だよ。俺の為にも、絶対に負けられない戦いだからね」
「ところでお連れの女性の姿が見えませんね。翼を生やした、ハーピーの一種でしょうか」
「ハルモニア? そういえば……」
空を舞うリーヴァはご機嫌に歌声を奏で、カーラにオルルにミストは既に甲板の上。ドールは今さっき渡し板を上りはじめた最中だが、ハルモニアの姿は港にない。
「ぐすん……あの馬鹿女なら、何やら兵に用事があると言ってたわ」
「そっか、そういえば治療がまだだったね」
「治療?」
「いや、こっちの話だよ――って言ってる内に、終わったみたいだね」
丘の上の城から滑空するハルモニア。
舞い落ちる羽は白皚の雪のようだ。
「すみませぇん! 人数が多いもので遅れましたぁ!」
ゴールテープを切るように、両手を広げるハルモニアは俺の体に飛び付いた。
「あんた! 天使の癖に約束を破るつもりじゃないでしょうね!?」
「そんなつもりはないですよぉ。勢い余っただけですって」
「いいこと? この先指一本、ネクロに触れたら許さないんだから」
今にも噛み付かんとする目付きで睨むセルフィ。
対してハルモニアは勝ち誇ったように嘲て見下す。
口ではなんと言おうが、目の届かないところではやりたい放題。悔しそうなセルフィも見れたことで、ハルモニアの溜飲も下がってくれたようだ。
「じゃあね、セルフィ」
「どうかご無事で……そして戻った暁には……」
「その先は……ね?」
王と王子に目配せして、何が言いたいかを諭してみせるが、感極まったセルフィは湿った叫声を張り上げた。
「私と結婚してください!」
豆鉄砲でも喰らった鳩のように、目を丸めるヴラーヴ王とイェネオス王子。
俺は苦笑を張り付けると、逃げるようにして甲板へと駆け上がる。
「お、お元気で! 王に王子にセルフィ姫!」
気を利かせてくれたのか、船はすぐに出航し、マルメア国から離れていく。
大手を振って俺を見送るセルフィ。危うく修羅場だったが……
「セルフィ、大丈夫かな……公に告白しちゃったけど……」
「問題ないですよぉ。そんな些細な浮気なんて、すぐにどーでも良くなりますから」
次第に遠のく景色の中で、城の門から黒い塊が雪崩のように下りて来る。
塊の正体は人の群がりで、それらは城の兵たちだった。
「お礼でも言いに来てくれるのかな? それはないか。何か叫んでるようだけど、恨み節でも言われるのかな」
「さてね、どうでしょう」
「矢でも飛ばされたら敵わないね。奥に引っ込むとしようか」
甲板を離れてレミニセン大陸に背を向ける。
セルフィの気持ちに応えることはできないが、いつか戻るというのは決して嘘じゃない。
ラグナを倒して、いつかは平和にこの世界を巡るのも……
「あれ?」
俺が客室に向かうというのに、誰の足音も付いてこない。
いつもはこぞって群れて来るのに……騒がしいはずの兵の蛮声と波の音が、なぜだか無性に静かに聞こえる異様な雰囲気。
振り返ると、女たちは未だ港を眺めている。
それほどの未練が彼女らにあったか? 別れを名残惜しいと思う感情が残されていたか?
すると兵たちの叫声の中に、一つの悲鳴が混じった。
声の正体にはすぐに気付けた。なぜならその声は、昨夜に聞いたばかりの金切り声と同じものだったから。
「セルフィ!?」
俺はすぐに引き返し、甲板の手摺りに身を乗り出す。
そこに見える景色は、まるでアメーバのように、港を侵食するヴラーヴの兵たち。
既に豆粒ほどに見える人だかりが、セルフィの立ち位置だった場所を埋め尽くす。
「これは一体……」
「お元気そうで何よりですねぇ。これまで我慢してた分、いっぱい溜まってたんじゃないですかぁ?」
「まさか兵たちは……セルフィを襲ってるんじゃ……」
「ご褒美に活力ギンギン魔法です。制御の利かない性欲に中てられて、おまけに百発出してもビンビンですからぁ、百×何人相手でしょぉ?」
「なんてことを……」
「ほんとにぃ、ネクロさんにキスを強要するってなんてこと! あの馬鹿女……くひひ……これで確実にぶっ壊れましたねぇええええええ!」
ハルモニアは、決してセルフィを許してなどいなかった。
こうなることを予測して、あえてセルフィの要件を呑んだのだ。
「すぐに止めさせるんだ!」
「なぜぇ? こんなに楽しいファッ●ショーを!? セルフィの奴、純潔を守るなどと……さっそく約束を違えましたねぇ!」
俺には指一本触れない。
そういう呈で結んだ約束は、セルフィが純潔を守れたらの話だ。
もはや束縛から逃れたハルモニアは、俺の方に向き直し合法的に手を回す。
「さ、これでネクロさんに触れられます。港から今までの数分間、私とっても我慢しました。ご褒美にチュウして欲しいです……」
今はそれどころではないはずなのに……ハルモニアの興味は既に移り変わり、セルフィの悲鳴すら届いていない。
俺に迫るハルモニアを見るなり、他の皆も負けじと寄って集り、もはやセルフィを救える者は皆無のはずだった。
大海を写すような天の海が暗転する。
さも演劇の開始を前にして、照明が落ちる劇場のように。
夜天となった大空を、赤電が蜘蛛の巣のように網の目を描いた。
直後に雷鳴が轟き、空と地上までを光の筋が繋ぐと、落雷の爆音と共に、紅蓮の業火が瞬時に港を焼き尽くす。
これは一体何事だと……そんな俺の心中が先にハルモニアの口から漏れた。
見開く眼の先ではドールが杖を掲げている。
「ドール……あんた何してるのですか。こんな小気味良いざまぁ劇を……」
「ざまぁ? 胸糞悪いよ」
ドールはその一言だけを告げると魔法帽を深く被り、燃え盛る港に背を向けたのだった。




