平凡男とアクマの祈り
私は、私が死者であることを知っていた。
私が幽霊であることを知っていた。
人はきっと、だれしも心の中に一つや二つの風景を持っているのだろう。
楽しい記憶、悲しい記憶、大切な人と交わした時間、交わした言葉、そして自身の思いが生み出した幻想や理想。
大きさは小さなものから大きなものまで実にさまざま。
1m程度の範囲しかない、記憶の写真のようなものや、視界一杯に広がる広大な景色までと多種多様。
私の風景は、そう、喩えるなら「スクランブル交差点」のようだった。
見渡す限り、人、人、人。
動物もそれに混じり、植物も遠方に映る。
滑稽なのは、鳥類と海洋生物が揃って空を泳いでいることくらい。
足元には昆虫も蠢いている。
『世界のデータベース』
それが私の風景。
ここでは誰も生きてはいない。
すべて情報だ。
だれもが赤子から始まり、一歩ずつ老いていく。
歴史に残る英雄も、歴史に残らない凡人も、例外は何もない。
死ねば紙片を残して消えていく。
違いは記載される情報量だけ。
それが、私の風景。
恋をしたことはない。
彼らにとって私の存在はマネキン以下の幽霊。
認識すらされることはない。
人はマネキンと恋をしてはくれない。
認識しないものに恋心は抱かない。
恋をしても、きっと実らない。
「私にとって、あの人はなんなのだろう?
あの人にとって、私はなんなのだろう?」それがきっと答え。
痩せ衰えた病院着の少女を見かけて直感したこともある。
…あと一歩で消える、と。
「進んではダメ」と体を割り込ませたこともある。
しかし、私は存在しない幽霊。
透過されて、背後で少女は紙片になった。
紙片になって、本に呑まれた。
…つまり、「私」に喰われた。
それが…私の風景。
私は、私が死者であることを知っていた。
私が幽霊であることを知っていた。
神も、悪魔も、天使も、英雄も、凡人も、私にとってなんの意味もなさない。
特別に値しない。
だからこそ、うれしかったのかもしれない。
産まれたことが、ただうれしかったのかもしれない。
私を産んでくれた人を、見つけてくれた人を、ただ『特別』と信じたのかもしれない。
私はマスターと出会った。
いきなり現れた私。日常を乱した私。
きっとマスターにとって私は厄介者以外の何者でもなかったのだろう。
私は迷った。
私は私が消された経緯から、もしかしたら誰かに狙われるかもしれないと予感した。
その時、マスターにも危害が及ぶかもしれない。
私は、悩んだ末にマスターに埋めた紙片に細工を施すことにした。
紙片に記載されていたのはマスターの生命データと遺伝子情報だけ。
私の体を構築するための計算は、私の本体で行った。
故に空白には十分な余裕がある。
私は悩んだ。
マスターの日常をこれ以上壊してはいけない。
私は悩んだ。
そして悩んだ末に、「蘇生」系の記載を施すことにした。
そして私はまた悩んだ。
古今東西に存在した不死系物語の知識を観るに、
蘇生の能力を持った主人公にロクなイメージが持てなかったからだ。
彼らは自分の不死を平然と使う。
命をドブにさらすような真似を当然のように行い、自らの死を前提とした策を採り、時に死をすら武器にする。
私はマスターがそんな「主人公」になることを良しとは出来なかった。
悩んで、悩んで、悩みぬいた。
そして私は、マスターの紙片に不死の記載を与え、同時にそのトリガーを「死」のみに限定することにした。
ある程度の傷なら私が癒せばいい。
記載するのは「不死鳥の生態」に決定した。
万が一、本当に万が一、これが発動するような事態になったなら、その時は普段通りの顔で、平然と嘘をつくのだ。
「マスターは死んでなんかいませんよ」と。
でも、できればこれは、永遠に発動してほしくないと、やっぱり思う。
「どうか、発動しませんように」と小さな手をそっと叩いて、祈った。
きっと、命拾いをしたのだろう。
燃え盛る火刑台の上に立たされ、十字の杭に磔にされ、手足と翼を貫かれ、とどめに焔の槍に串刺しにされる、はずだった。
しかし、その処刑執行人はその途中で動きを止め、全身をひび割れさせて砕け散り、中から緑と白の少女を彼方へと放り出して、消滅した。
きっと、命拾いをしたのだろう。
自分を縛り上げていた紐の先、智欲の大罪の五指に繋がっていたはずのそれが、地に落ちている。
つまり、容易に抜け出せる。
感じたのは…安堵ではなく、屈辱だった。
ここまで、ここまで追い詰めておきながらの放置プレイ。
伝説の武具も、伝説の悪魔もないがしろに捨て置いての敵前離脱。
あの悪魔からしてみれば、この傲慢の大罪をもってしても重要視に値しない。
一から十まであの凡人が第一ですべてだったのだ。
屈辱以外のなにものでもない。
貫かれた杭の重さに歯を食いしばり、むしろギリギリと焼け付くような感情を乗せて少しずつ拘束を解く。
このままでは済ませない。
傲慢の大罪を舐めてくれるな。
拘束を解いた悪魔は改めて周囲を見渡す。
魔殺しの赤槍と石化の鏡面盾がそれぞれ十ずつ、一撃必倒の神剣が一振りに紅蓮の槍が一本。
どれを持っても切り札になりえるだろう。
しかし、そのどれに見向きもせず、金髪碧眼の悪魔は歩き出す。
持ち去る武器は、この身を貫いた六本の木杭で十分だった。
自分は「傲慢の悪魔」なのだから。
これ以上の恥の上塗りは、プライドが許さない。
ましてや自分から屈辱を拾うなどありえはしない。
あの悪魔が飛び去った方へと、足を引きずる。
…このままでは、終わらない。




