3. フラグじゃ無いけど……頑張れる
訓練を終え、装備を片付けた俺は、汗だくのまま木陰のベンチに腰を下ろした。
水筒の水を口に含んで一息つくと、視界の端にふと見慣れない姿が映った。
……誰だ?
少し離れた訓練区画。
木人を相手に、黙々と突きを打ち込む少女の姿があった。
俺よりも一回り小柄で、線は細い。けれどその動きは鋭く、迷いがなくて──何より、美しかった。
陽に照らされて揺れる銀色の髪。まるで光をまとっているようだった。
小さな背中には、無言の覚悟と緊張感が滲んでいて、なんだか……見とれてしまった。
その所作のひとつひとつが、まるで舞のように流麗で──けれど、鋭さを忘れていない。
静かで、真剣で、どこか儚いのに、強い。
気づけば、息をするのを忘れて見入っていた。
(……こんな場面、ゲームじゃ無かったよな)
確かにこの子は、あのイベントの後に登場するヒロインの一人……のはず。
でも、ゲーム内ではこんな風に、黙々と訓練しているシーンなんて描かれてなかった。
スチル一枚、ボイス一言、それっぽいテキストで済まされていた記憶しかない。
けど、今目の前にいる彼女は、間違いなく“生きて”いた。
剣を振る姿に意志があって、汗があって、重みがある。
そして何より、綺麗だった。
ドキドキしている自分に気づいて、慌てて水筒を握り直す。
いやいや、何見惚れてんだよ俺……。
──そのときだった。
「……あれ、いたんだ」
いつの間にか彼女がこっちに向かって歩いてきていて、思わず肩が跳ねた。
不意に視線が合う。
彼女は少し戸惑ったように目を伏せ、けれど迷いがちに口を開いた。
「ここ、座ってもいい?」
「あ、うん、どうぞ」
俺の返事を聞いて、彼女はベンチの端にちょこんと腰を下ろす。
間近で見ると、やっぱり俺より少し背が低い。けど、その小さな体には、凛とした芯の強さが宿っていた。
しばらく黙ったあと、彼女はぽつりと──まるでつぶやくように、言った。
「……ねえ、ちょっと聞いてもらっていい?」
訓練で火照った頬を少しだけ冷たい風がなでたタイミングで、彼女がぽつりとそう言った。
「うん」
水を飲む手を止めて、俺がうなずくと──
「……好きな人がいるんだ」
……え?
あまりに唐突すぎて、思わず飲みかけの水を吹きそうになった。
いや、吹いてはいない。ギリ耐えた。たぶん。
不思議とそれは失恋って言葉とは違った。
でも、胸の奥を、じくっと刺すような……ちょっと痛くて、居心地の悪い感覚だった。
「そ、そうなんだ……」
なんとか声を絞り出す。
けど、彼女はこっちを見ないまま、ぽつぽつと話を続けた。
「でも、その人……全然、私のこと見てくれないの。
私だって、訓練頑張ってるのに。毎日、朝から晩まで剣の練習してる。
魔導剣術だって独学で覚えて、もう何回、指先焦がしたかわかんないくらい……」
そこまで言って、ふと彼女の言葉が止まった。
俺はそっと横目で彼女を見る。
少しだけ笑っていた。けれど、それは嬉しそうな笑顔じゃなかった。
「頑張れば頑張るほど、遠くなっていく気がしてさ。
ちょっとずつじゃなくて、どんどん、どんどん……
手を伸ばしても届かなくて。
……馬鹿みたいだよね、私」
その言葉に、俺はしばらく黙ったまま、言葉を探した。
でも、心の中には不思議と、ひとつだけはっきりした思いがあった。
ようやく、ぽつりと呟いた。
「……いや、むしろ、羨ましいな」
彼女が、きょとんとした顔でこっちを見た。
「……え?」
「だってさ。こんなに一生懸命で、ひたむきで、可愛い子が、自分のために頑張ってくれてるんだぜ?
それだけで、もう十分救われると思う。
そんな子がそばにいるって……それ、すごく幸せなことだよ」
彼女の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
「だったら、そりゃ頑張れるさ、どこまでも。
空だって飛べるさ」
そのまま俺の顔を見て、何かを探るようにじっと見つめて──そして、不意にふっと吹き出した。
「……なにそれ、変な人」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
「……でも、不思議。なんか、納得しちゃった」
「そっか?」
「うん。さっきまでは、自分だけ空回りしてるんじゃないかって、すごく怖かった。
でも……誰かがちゃんと見てくれてるかもって思えたら、それだけで、ちょっとだけ、救われた気がした」
彼女の声はまだ少し頼りなかったけど、確かにそこには“落ち着き”があった。
「……男の子から見ても、私がいるから頑張れるって、そう思ってくれるんだね」
「うん。俺なら、間違いなくそう思う」
彼女は少しの間うつむいていたけど、やがて、静かに顔を上げた。
「ねえ、どうして……どうして、君に話したんだろって、話しかけながら思ってたんだ」
「俺に?」
「うん。
でも若多々。
最初は、彼以外で、同じくらいか、それ以上に頑張ってる人がいるって聞いたから……
それが、君だった。
でも、きっと君なら応えてくれるって思ったんだ、無意識に」
彼女はそう言うと、すっと立ち上がった。
一歩だけ俺に近づいて、少し照れくさそうに、それでもまっすぐな瞳で言葉を続ける。
「……頑張ってね、“頑張り屋君”」
それは、まるで魔法の呪文みたいに、胸の奥にそっと届いた。
そして彼女は、去り際にウインクを一つ残して、ベンチを離れていった。
その背中を、俺はしばらく黙って見送っていた。
風に揺れる銀髪と、静かに真っすぐ歩く足取り。
強くて、まっすぐで、どこか少しだけ脆い、彼女の芯を見た気がした。
──誰かの頑張りに気づける目を持つって、きっと、大事なことなんだろうな。
その日、俺はいつもより少しだけ、剣の重みが軽く感じた。