29. 黙示録の地
そして、戦場は――
既に最終局面へと突入していた。
あの黒鉄の砦が崩れ落ちてから、どれほどの時間が経ったのか。
空は赤黒く染まり、空気は熱を孕んでいた。
炎と硝煙の匂いに喉が焼けつき、皮膚には焦げた血と土が貼りついている。
呼吸すら重く、視界は霞んでいた。
それでも――俺は、自分の足で立っていた。
崩れた石壁の隙間を抜け、折れた槍や剣、焦げた旗の断片を乗り越え、
死の匂いが充満する野を、ひたすらに踏み進んできた。
そしてようやく――
その先に、戦場の中心核が見えた。
かつては森だった場所が、今ではただの焦土と化している。
大地はえぐれ、川は赤く染まり、魔力が焼け焦げた空気が地表を撫でていた。
瓦礫の間に見えるのは、人も、魔族も関係ない――ただ倒れ伏した無数の影。
人間側は、戦力の三割以上を失っていた。
前線の騎士団は壊滅に近く、魔導師団も多くが戦闘不能。
中核の将たちも負傷し、撤退を視野に入れる者さえ出始めていた。
だが――魔族側も同じだった。
リリティナを筆頭とする四天王のうち、すでに二人が討たれた。
残る者たちも満身創痍で、陣形は乱れ、統率は瓦解寸前。
高位魔族の死体があちこちに転がり、かつて不死と称された連中すら、地に伏していた。
どちらの陣営も、限界に近い。
だが、どちらかが引けば、すべてが終わる。
それがわかっているからこそ――誰一人、退かない。
それはもはや、軍ではなかった。
ただ、生き残った者たちが信念で動く、最後の意地だった。
まさに黙示録世界。
そんな地獄の中心に、確かに、彼の姿があった。
黒く焼け焦げた外套の下、鎧の片腕は吹き飛び、体中が傷で覆われながらも――
ヴァルガス・デ・ルアントは、剣を掲げて立っていた。
その背に並ぶのは、ミリア、セリナ、フィリア、クロエ、リリィ、ノエル。
そして三人組――グレイ、バルド、ノアの姿もあった。
血に染まり、泥にまみれ、それでも誰一人として膝をついていない。
彼らは、最後の砦として、そこに立っていた。
ミリアの剣が疾風のように閃き、敵の足を削ぎ、
セリナの魔術が天空を裂き、漆黒の火柱で戦場を焼く。
リリィの祈りが眩い光の盾となって仲間を包み、何度も崩れかけた陣形を立て直す。
その後方では、クロエが獣の直感を活かして戦線を跳ね回り、敵の隙を突いては、瞬時に離脱するという攪乱戦術で敵兵を翻弄していた。
そして、そのすべての中心で戦うヴァルガスの横で、銀髪を振り乱して剣を振るう公爵令嬢フィリア・アークライト。
ゲームではヴァルガスの横にはリリティナが見張も兼ねて戦っていたが、今彼の横にはフィリアが支えるために戦っている。
高貴なる血統の証を身に纏いながら、彼女は貴族の剣ではなく、騎士の剣を選んだ。
重厚な魔導鎧に身を包み、巨大な魔力剣を振るうその姿は、まさに戦場の女王。
「この剣、我が信義に賭けて!!」
そして、ついに四天王三人目がヴァルガスの一刀によって崩れ落ちる。
「……これが、ヴァルガスの、戦いかよ」
思わず口から漏れる言葉。
かつてゲームの中で自分が担っていたはずの英雄の立場は、今や完全に彼のもとにある。
だが、それが悔しいとは思わなかった。
これが、今の現実であり――
この戦いが彼の物語であり、同時に、俺の物語でもあるからだ。
そしてその前に、異形の存在が立ちはだかっていた。
「……あれが、魔王……か」
その存在は、人でも獣でも魔でもない。
性別、感情、時間――あらゆる概念を超越した、混沌の権化。
姿は流動し、ひとつの形を持たず、
声は高音と低音、女声と男声が幾層にも重なり、耳元と心の中で同時に響く。
まるで世界そのものが語りかけてくるかのようだった。
そして、今。
ヴァルガスたちはその魔王と対峙していた。
その証拠に、周囲には砕け散った三人の四天王の死骸……いや、残骸と呼ぶ方が相応しい物体が散っている。
そのときだった。
空を裂くような気配が走る――
「来た……ッ!」
どこかで感じた、あの冷たい甘さ。
歪んだ色気と、滲み出る狂気。
空間が捩じれ、紫紺の霧のような妖気が舞い上がる。
そこに姿を現したのは――
魔王軍四天王、今となっては最後の一人。大淫婦リリティナ・カルマ。
「……ふふ、お待たせいたしました。
ちゃんと立ち直ったわよ、ねえ、レイ?」
魔王に向かい礼をとるリリティナの瞳は、遠く離れているにも関わらず、真っ直ぐこちらを向いていた。
「レイ!
来てくれたんだ!」
ヴァルガスの声が聞こえる。
「チッ……だが、間に合った……!」
俺の体は、すでに限界を超えていた。
爆破の余波で片腕はしびれ、片足は引きずるしかない。
だが――そんな事はどうでも良い!!
「行くしかねぇだろうが……!」
心のどこかで、体がもう一度だけ動くことを願っていた。
願いが、祈りに変わる前に――体は、自然に走り出していた。
同時に全身を駆け巡る、アドレナリン・エンドルフィン・ドーパミン・エンケファリン etc. ありとあらゆる脳内麻薬が全身を駆け巡る。
「リリティナ――ッ!!」
俺の叫びに反応するように、魔王の方に身体を向けていたリリティナが振り返る。
その美しい顔に浮かぶのは、驚愕でも警戒でもなく――
「……やっぱり、来ると思ってたわ」
歓喜だった。
その瞬間、すべての音が遠ざかる。
鼓動が高鳴り、世界が一点に収束する。
俺は燃えるような脚を振り絞り、駆け出した。
その、どこか見知った顔目指して。
刹那――
ズバァン!!
駆け抜ける風を裂いて、剣を横薙ぎに払う。
リリティナの頬に、わずかだが血の線が走る。
「ッ、あら……」
リリティナの笑みが、わずかに揺らぎ……そして笑みが一層深くなる。
「悪ぃな、二度目は手加減しねぇ……!」
「大丈夫、貴方の事は、死んでも忘れないであげるから」
ボロボロの体。
剣の切っ先に込められたのは、ただ一つ。
止めを刺すという意思。
ヴァルガスが目を見開く。
セリナが反射的に詠唱を始める。
ミリアが無言で背中を預けるように立つ。
そして、俺は戦場の中心に溶け込んだ。