01
寝ているだけ、ホントに何にもしたくない。
そんな時もあります。
天下に轟く世界的犯罪抑制及び更生機関『MIROC』日本支局東日本支部に、ひとりの敏腕特務員がおりました。
技術部特務課の主任、カイシャ名はアオキカズハル、コード名を『サンライズ』。
彼には元々、他人には言えない特殊な力がありました。
肉体的な取り得も特になく、特別頭脳明晰というわけでもない、性格的に前に出ていこうという程でもない、かなり中途半端な立ち位置の中、生き残っているには、やはり、訳があるのです。
瞬時にひとの心をのぞく『スキャニング』、心を読んだ相手の意思をことば一つで操る『シェイク』、ふたつの異能を周囲にはばかりながらもこっそりと駆使し、生き馬の目を抜くがごとき任務においても、何とか日々を凌いでおりました。
年の頃は三十路も半ば。肉体的にも精神的にも過酷な任務をこなしているようには、とてもみえません。
中肉中背、大衆に混じればすぐに忘れられてしまいそうな雰囲気、ありがちな黒ぶち眼鏡のせいでどこにもいそうなリーマン顔でしたが、それでも、ふと目が合った時、内部に潜む能力のせいか、眼鏡の奥の眼力が強いせいか、なんとなく気になって立ち止まって眺める者もいないではありませんでした。
かくのごとく日々、悪を駆逐すべく奮闘する戦士ではありましたが、本日は、束の間の休息であります。
そう、今日はただのおっさん・本名の『椎名貴生』として、我が家で惰眠をむさぼっておりました。
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午前九時半を過ぎたころ、一連の『それ』は突如、幕をあけた。
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「あ」
妻の由利香が、キッチンで叫び声を上げた。
「いやだあ、どうしよう」
どたどたどた、とこちらに駆けてくるスリッパの音が半分覚醒していた彼の耳にも届いた。
まずい、死んだフリ死んだフリ。オレはすでに死んでいる。
「ねええ、パパぁ」
パパときた。
「タカさん」と呼ばれるよりも悪い兆候だ。
起きて起きて、と揺すぶられて、貴生はしかたなく目を開けた。
この世の終わりのような口ぶりで、由利香が言った。
「パパ、コショーが切れちゃったの」
「コショー?」
ならいいじゃん、んな知るか、とまた眠ろうとしたとたん、もっと揺すられた。
「よくないのよう」
「いいじゃん。ビンをさ、ハシかなんかでこう……中をかき出してさ、その」
すでにまた半分夢の中にいる。
昨夜も帰りが遅かったのだ、しかももともと休日だったのに、急な呼び出しだったし。
「全然残ってないのよう。粗挽きだから、きれいになくなっちゃったの」
アラビキだか何だか、よく分からないがとりあえず
「いいじゃん」
貴生はまた繰り返してみる。
「なくても、何とかなるだろ」
全然、説得力がないのは自分でもよく判っていた。
それでもあきらめただろう、と勝手に安堵したものの気配が去ったようすがないので、額に載せた腕の間から薄く目を開けてみる。
くちびる噛みしめ、由利香はじっと枕元に立っていた。
そして、急にまた彼をゆさゆさと揺さぶる。
「買ってきて」
おねだりと命令のベスト・ミックスで、彼の目をじっと見つめる攻撃だ。
「えっ?」
「買ってきて」
「今から?スーパー? ふじよし?」
「どこでもいいわよ、近い所で」
「そんなに必要?」
「ひ、つ、よう、な、の、よお」
地団太踏むところなんか、娘のまどかにそっくりだ。
しかし、何だコイツは?
コショーの禁断症状か何かか?
貴生、だんだん腹が立ってきた。
「おねがい、買ってきて」
「めんどくせえ」
「今夜の仕込み、今やっとくのよ。もう肉解凍したし」
「早えーよ、まだ朝じゃん」
「おいしいモノ食べるには仕込みは重要なのよっ」
「はいはい」
「じゃあ、起きる」
由利香の方が全然か弱いはずなのに、なぜか起こされて、パジャマを脱がされている。
「アラビキよ、お願いねえ」
気がついた時には、
ばたん!
玄関のドアはしっかりと閉ざされ、その外に呆然と立っていたのは、ラフなTシャツにジーンズといういでたちの椎名のダンナひとり。
「お、おい開けろ、ちょっと何だよいいかオマエだいたいな……」
既に戸口のところに由利香の気配はなかった。
お財布だけは奇跡的に持たせて頂いて、ため息ひとつ、椎名さんは倉庫の自転車に向かいましたとさ。