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第91話 鉄工所の火と噂の勇者

 坂を二つ下りた先の飯場は、想像以上にうるさかった。


 油で黒光りした看板に、皿とスコップの絵。

 扉の上には、かすれて読みにくい文字で『鉄鍋亭』と書かれている。


「バルツが言ってた店ね」

 リオナが腕を組む。


「見事に“労働者の巣”って感じだわ」


「いいじゃねぇか。こういうとこほど、本音は転がってる」

 扉を押し開けると、湯気と匂いと音が一気に押し寄せてきた。


 肉と芋の煮込みの匂い。

 汗と鉄の匂い。

 笑い声と、時々混ざる怒鳴り声。


「三人。空いてるところある?」


 リオナが指を立てると、若い女給が顎で部屋の隅を指した。

 俺たちは空いたテーブルの端に腰をおろす。


 目の前に、煮込みと固いパンが問答無用で並べられた。


「……しょっぱそう」

 エルナがスプーンを見つめる。


「見た目から逃げるな。腹が減ってるうちは、だいたいなんでも旨ぇ」


 ひと口食べてみる。

 塩と脂が舌にまとわりつくが、寒さの中ではちょうどよかった。


「……濃いけど、嫌いじゃねぇな」


「でしょ?」

 リオナはぱくぱくと煮込みを片づけていく。


「こういうの食べてると、“働いてる”って感じがするわ」


「その感想もどうかと思うけどな」


 そんな話をしながら、俺たちは耳を澄ませた。



 周りの会話は、だいたい似たようなものだ。


「鉄税がまた上がったらしい」

「徴兵の紙が貼られた」

「王国との小競り合いで怪我人が出た」


 仕事の愚痴と、戦の噂と、ささやかな悪口。

 どこの国でも変わらない。


「……シゲル」

 リオナが小さく肘でつついてきた。


「あっち、聞いて」


 少し離れたテーブルで、声の大きい鉱夫が身振り手振りを交えて話していた。


「だからよ! 本当にいるんだって、“裸の勇者”が!」


 はい出ました。


「またその話か」

 隣の男がため息をつく。


「王国の連中が広めてる与太話だろ。自分の軍が弱ぇのを誤魔化すための」


「与太話にしちゃ、妙に細けぇんだよ」


 大声の鉱夫は、指を一本立てた。

「全身が光って、空を飛んで、雷と炎を同時に操る。見た者は正気を失う。国王はそいつを城の地下に鎖で繋いでる――」


『違いすぎるだろ』

 心の中で全力でツッコむ。


 光らないし。

 属性混合の魔法なんて無いし。

 鎖で繋がれてんのは、せいぜい羞恥心ぐらいだ。


「そんなじゃ、正気を失うのは、たぶん見た側じゃなくて脱いでる側だと思うわよ」

 リオナが、スープをかき混ぜながら小声で笑う。


「雰囲気は、ちょっと似てるわよ、“見られたら死ぬ”ってところが」


「似てねぇ」


「似てる」


 足がテーブルの下で、そっと俺のすねを蹴る。

 声を出さないように、スープをすすった。


 別の男が笑いながら口を挟む。

「でもよ、“裸の勇者がいる”って話は、兵の酒の席じゃ結構出るぜ? “そいつがいるから戦争が長引く”、とか」


「便利な話よね」

 リオナがぽつりと言う。


「負けたら“勇者のせい”。戦が長引くのも“勇者のせい”。誰も自分のせいにしなくて済む」


「どこの国にも、そういう奴はいるってことだな」

 俺はパンをかじりながら、周囲を見回した。


 笑ってる奴もいる。

 怖がってる奴もいる。

 信じてねぇけど、話のタネにはしておきたいって顔もいる。


「……なんか、複雑ですね」

 エルナが小さく呟いた。


「もし本当にそんな“勇者”がいたとしても、その人だって、きっと……」

 そこで言葉を飲み込む。


 悩んだり、恥ずかしがったりするんだろうな。

 たぶん、続きはそんなところだ。


 俺はわざと、他人事みたいな声で言った。

「噂話は便利だ。勇者のことを心配してくれる奴は、そう多くねぇけどな」


「自分の心配してる勇者は、ここに一人いるけどね」

 リオナのツッコミに、エルナがくすっと笑う。

 重たかった空気が、少しだけ和らいだ。


 ――その時だった。



 ゴーン、と、鈍い音が響いた。


 鉄を叩く音じゃない。

 低くて、腹に響く鐘の音だ。


 二度、三度と鳴り、店内のざわめきが止まる。


「……今の、何の合図ですか?」

 エルナが声を潜める。


「火事か、事故か、あるいは――」


「火事だ!」

 窓際にいた男が叫んだ。


「西の鉄工所の方角だ!」


 一瞬で椅子が引かれ、人が立ち上がる。

 さっきまで裸の勇者の話で盛り上がっていた連中も、今は皿も酒も放り出して出口に殺到していた。


「行ってみるか」

 俺は立ち上がる。


「待って。行くのはいいけど、“やってはダメ”な事を忘れないでよ」

 リオナが低い声で釘を刺す。


「分かってる。ここで脱げば潜入任務が終わるって話だろ?」


「そう。あんたが全裸で魔法を使ったら、この街じゅうが“裸の勇者が来た!”で大騒ぎになるわ」


 エルナも、ぎゅっと杖を握った。

「怪我人が出てないといいんですけど……。でも、わたしたちが神聖魔法を使ったら、きっと“王国の祈り手”って疑われます」


「だから、今日やれるのは――」


「消火の手伝いと、情報集め、ね」


 俺はため息をひとつ吐いて、扉の方へ向かった。

「……分かってる。分かってるけど、火事は嫌いなんだよ」



 通りに出ると、坂の上の方から黒い煙が上がっているのが見えた。


 西側の鉄工所が集まっている一角。

 炎そのものは、ここからじゃ見えねぇが、煙の色は濃い。


「水だ! 桶を回せ!」


「怪我人はこっちだ!」


「奥の貯蔵庫に火が入ったら終わりだぞ!」


 怒鳴り声があちこちから飛ぶ。

 人が走り、桶が行き交い、泣き声も混ざる。


 俺たちは人の流れに逆らわず、その少し外側についた。


「よし、エルナはここで避難してくる人の誘導。リオナ、俺はバケツリレーに混ざる」


「了解」


 リオナが短く答え、走り出す。

 俺も手近な桶を掴んだ。


 火の手に直接近づきすぎない。

 だけど、何もしないわけにもいかねぇ。


 それが今できる、ギリギリの線だ。



 鉄工所の前は、すでに人だかりだった。


 中の炎が見え、壁の一部が黒く焦げている。

 しかし、入口近くに水を浴びせ続けているおかげで、まだ広がりきってはいない。


「おいそこの兄ちゃん! 桶を回せ!」


 怒鳴られて、俺は列の途中に入った。

 後ろから渡された桶を受け取り、前に送る。


 ただそれだけの作業なのに、妙に心がうるさかった。


 ――水が足りない。

 風の向きが悪い。

 あの壁が崩れたら、火の粉が反対側の倉庫に飛ぶ。


 頭のどこかが、勝手に魔法の手順を並べ始める。


 水流をまとめて、風で押さえ込んで、温度を分散させて――。


「シゲル」

 横から声がした。


 バケツリレーに紛れ込みながら、リオナがちっらと俺を見た。

「目つきが、魔法を使う前のそれになってる」


「……バレてたか」


「そりゃ分かるわよ。何回見てきたと思ってんの」


 リオナは桶を受け取りながら続けた。

「あんたが本気出した方が早いのは分かってる。でも、ここで“あんた一人で全部片づける”と、この火事騒ぎが、全部“勇者騒ぎ”になっちゃう」


「……」


「今回は、この街の人たちに“自分たちの手で火事を止めた”って騒ぎだけで終わらせなきゃ」


 そこまで、考えてなかった。


 火が嫌いなのは、あの黒風の夜を思い出すからだ。

 だから、見た瞬間に“自分がどうにかしなきゃ”って、反射的に思っちまう。


 でもそれは、俺が勝手に背負い込んでるだけなのかもしれない。


「……分かった」

 俺は、息を大きく吐いた。


「じゃ、せめて崩れそうなところくらいは見張っておくか」


 火の具合、風の向き、建物の構造。

 魔法じゃなく、“目”と“頭”で見て、判断する。


「おい! そこの梁、焦げてるぞ! 近づくな!」


「水をこっち側に回せ! 火の粉がこっちに飛ぶ!」


 叫びながら、列の位置をずらす。

 何度か指示を飛ばしているうちに、周りの奴らもそれに合わせて動き始めた。


「兄ちゃん、詳しいな!」


「どこかで消火でもやってたのか!」


「ちょっと前に、派手なのに巻き込まれてな」


 苦笑いを返しながら、桶を回し続けた。



 時間の感覚が曖昧になったころに、炎はようやく落ち着いた。


 黒い煙は薄くなり、鉄工所の中から、咳き込む声が聞こえる。

 怪我人は出たが、今のところ死人はいないらしい。


「……ふう」

 俺は、空になった桶を地面に置いた。

 腕も肩も、笑いそうになっている。


「魔法なしでここまでやることになるとはね」

 リオナが額の汗を拭う。


「たまにはいいんじゃねぇか。人間の筋肉も、まだ捨てたもんじゃねぇ」


「でも明日絶対筋肉痛よ、それ」


 少し離れたところで、エルナが避難してきた人たちに水を配っていた。

 祈りの言葉を求める声もあったが、エルナはあくまで『元、祈り手崩れ』として、短い言葉しか口にしない。


 火はどうにか鎮まった。

 だが、ここから先の方が厄介だった。



「反戦の連中がやったに決まってる!」


「いや、前から設備がおかしかったんだ。軍がケチったせいだ!」


「どっちでもいい! こっちの日当が減るのは変わらねぇ!」


 鉄工所の前で、怒鳴り合いが始まっていた。


 作業服の男たち、自警団の腕章をつけた連中、偉そうな上衣の役人。

 それぞれが、それぞれの思惑を口にする。


「王国の仕業だって話もあるぞ!」


「なんで火事が起きたら、すぐ向こうのせいになるんだよ!」


「面倒が起きりゃ、あいつらのせいにしとくのが一番楽だろ!」


 誰も殴り合いはしてないが、言葉の方はもう殴り合いだ。


「……分かりやすいわね」

 リオナが小さく言う。


「“戦争を大きくしたい側”と、“もうこりごりな側”と、“どっちでもいいから今日の飯が大事な側”と」


「バルツが言ってた通りだな」

 俺は人だかりを眺める。


「ここで“裸の勇者が悪い”って話が混ざったら、もっと面倒なことになりそうだ」


「だから、あんたは今日は絶対脱げないの」


「言われなくても、もう脱ぐ力も残ってねぇよ」


 肩を回す。

 体が、火事場の熱からようやく回復し始めていた。


「……戻るか」


 俺たちは群衆から離れ、通りの端を歩き始めた。


 火は消えた。

 でも、『物語』は、誰かの都合のいい言葉で進められようとしている。


 それが、今この国で燻っている火種のようだ。



 夕方、鉄匙亭の狭い部屋。


 窓の外は、赤茶けた空に変わっていた。

 通りからは、さっきの火事の話が風に乗って流れてくる。


「反戦派の仕業らしいぞ」


「いや、軍部のへまを隠すためだ」


「どっちでもいい。明日の仕事がなくなったら困る」


 どの声にも、正しさと噂が半分ずつ混じっていた。


 ノックの音がして、バルツが顔を出した。

「元気そうだな。火事場にいたって話を、もう聞いたぞ」


「耳が早ぇな」


「商人の耳は、足より先に動くもんだ」


 バルツは部屋に入ってきて、壁にもたれた。

「表向きは、“設備の不具合による事故”ってことで片づけるつもりらしい」


「裏は?」


「“反戦派の仕業”ってことにしたい連中が、全力で噂を流してる。逆に、“軍部の管理がずさんだっただけだ”って声もある」


 エルナが杖を抱えたまま、少し身を乗り出す。

「本当は、どちらなんでしょうね」


「さあな」

 バルツは肩をすくめた。


「どっちの言い分にも、少しずつ本当のことが混ざってるだろうよ。“戦争を止めたくて暴れる奴”もいれば、“自分のミスを隠したい奴”もいる」


「どっちにしても、燃やされた方はたまったもんじゃねぇな」


「そういうことだ」


 バルツは、天井を見上げてから、ゆっくりとこちらを見た。

「で――今日、お前らはどう動いた?」


「魔法は使ってねぇ。バケツリレーと、避難誘導だけだ」

 俺は正直に答えた。


「火を消すなら、脱いで一発の方が早ぇのは分かってたけどよ」


「よく我慢したな」

 バルツの口元が、少しだけ笑う。


「ここはガルダだ。火事の話まで“裸の勇者の伝説”に書き換えられたら、物語がややこしくなりすぎる」


「もうだいぶややこしい気もするけどな」


「まだ前菜だよ」


 バルツは立ち上がる。

「明日、少し動いてもらう。ガルダ側の“話を聞ける相手”に会いに行く。戦争を大きくしたい奴じゃなく、“その中でどうやって生きるか考えてる奴”だ」


「協力者、ってやつか」


「そういう言い方でもいい。まぁ、“お前らを利用したい奴”でもあるがな」


 バルツは扉に手をかけて、振り返った。

「裸の勇者さん」


「だからその呼び方やめろって」


「噂は勝手にひとり歩きする。お前は噂に引っ張られるな」


 バルツの視線が、まっすぐ俺を射抜く。

「“勇者がどうか”じゃなくて、“この街の人たちがどう生きるか”を見てこい。お前の魔法は、そのあとでも遅くねぇ」


 扉が閉まる音が、やけに静かに聞こえた。



「……あのジジイ、たまに格好いいこと言うのよね」

 リオナが上段のベッドに寝転がりながら言う。


「ジジイって呼ぶには、まだ若くねぇか?」


「メンタルがジジイなの」


「まあ、分からなくもねぇな」


 俺は床に寝転がり、天井の木目を眺めた。


 火事は消えた。

 でも、噂はまだくすぶっている。


 反戦派のせい。

 軍のせい。

 王国のせい。

 裸の勇者のせい。


 どれも、誰かにとっては都合のいい物語だ。


「……シゲル」

 エルナが、少しだけ不安そうな声を出した。


「もし、この国の人たちが、本当に“裸の勇者”を見つけたら……」


「そんときは、その前に俺が逃げる」

 即答する。


「全裸で追いかけられるのはごめんだ」


「真面目な話してんのに、なんで最後そうなるのよ」


 リオナのツッコミに、エルナがくすっと笑う。

 少しだけ、張りつめていたものが緩んだ。


 外から、遠くの鐘の音が聞こえた。

 さっきより静かな、夜を告げる音だ。


 鉄の街ガルダ。

 ここでもまた、誰かが物語を書こうとしている。


 その中で、裸の勇者は、まだ“噂の中だけ”で走っている。


 ――できるだけ、そうであり続けた方がいい。


 少なくとも、今は。


 俺は目を閉じた。

 明日は、また別の顔をしたガルダを見ることになる。


 脱がずに済めばいい、と祈りながら。

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