第91話 鉄工所の火と噂の勇者
坂を二つ下りた先の飯場は、想像以上にうるさかった。
油で黒光りした看板に、皿とスコップの絵。
扉の上には、かすれて読みにくい文字で『鉄鍋亭』と書かれている。
「バルツが言ってた店ね」
リオナが腕を組む。
「見事に“労働者の巣”って感じだわ」
「いいじゃねぇか。こういうとこほど、本音は転がってる」
扉を押し開けると、湯気と匂いと音が一気に押し寄せてきた。
肉と芋の煮込みの匂い。
汗と鉄の匂い。
笑い声と、時々混ざる怒鳴り声。
「三人。空いてるところある?」
リオナが指を立てると、若い女給が顎で部屋の隅を指した。
俺たちは空いたテーブルの端に腰をおろす。
目の前に、煮込みと固いパンが問答無用で並べられた。
「……しょっぱそう」
エルナがスプーンを見つめる。
「見た目から逃げるな。腹が減ってるうちは、だいたいなんでも旨ぇ」
ひと口食べてみる。
塩と脂が舌にまとわりつくが、寒さの中ではちょうどよかった。
「……濃いけど、嫌いじゃねぇな」
「でしょ?」
リオナはぱくぱくと煮込みを片づけていく。
「こういうの食べてると、“働いてる”って感じがするわ」
「その感想もどうかと思うけどな」
そんな話をしながら、俺たちは耳を澄ませた。
◇
周りの会話は、だいたい似たようなものだ。
「鉄税がまた上がったらしい」
「徴兵の紙が貼られた」
「王国との小競り合いで怪我人が出た」
仕事の愚痴と、戦の噂と、ささやかな悪口。
どこの国でも変わらない。
「……シゲル」
リオナが小さく肘でつついてきた。
「あっち、聞いて」
少し離れたテーブルで、声の大きい鉱夫が身振り手振りを交えて話していた。
「だからよ! 本当にいるんだって、“裸の勇者”が!」
はい出ました。
「またその話か」
隣の男がため息をつく。
「王国の連中が広めてる与太話だろ。自分の軍が弱ぇのを誤魔化すための」
「与太話にしちゃ、妙に細けぇんだよ」
大声の鉱夫は、指を一本立てた。
「全身が光って、空を飛んで、雷と炎を同時に操る。見た者は正気を失う。国王はそいつを城の地下に鎖で繋いでる――」
『違いすぎるだろ』
心の中で全力でツッコむ。
光らないし。
属性混合の魔法なんて無いし。
鎖で繋がれてんのは、せいぜい羞恥心ぐらいだ。
「そんなじゃ、正気を失うのは、たぶん見た側じゃなくて脱いでる側だと思うわよ」
リオナが、スープをかき混ぜながら小声で笑う。
「雰囲気は、ちょっと似てるわよ、“見られたら死ぬ”ってところが」
「似てねぇ」
「似てる」
足がテーブルの下で、そっと俺のすねを蹴る。
声を出さないように、スープをすすった。
別の男が笑いながら口を挟む。
「でもよ、“裸の勇者がいる”って話は、兵の酒の席じゃ結構出るぜ? “そいつがいるから戦争が長引く”、とか」
「便利な話よね」
リオナがぽつりと言う。
「負けたら“勇者のせい”。戦が長引くのも“勇者のせい”。誰も自分のせいにしなくて済む」
「どこの国にも、そういう奴はいるってことだな」
俺はパンをかじりながら、周囲を見回した。
笑ってる奴もいる。
怖がってる奴もいる。
信じてねぇけど、話のタネにはしておきたいって顔もいる。
「……なんか、複雑ですね」
エルナが小さく呟いた。
「もし本当にそんな“勇者”がいたとしても、その人だって、きっと……」
そこで言葉を飲み込む。
悩んだり、恥ずかしがったりするんだろうな。
たぶん、続きはそんなところだ。
俺はわざと、他人事みたいな声で言った。
「噂話は便利だ。勇者のことを心配してくれる奴は、そう多くねぇけどな」
「自分の心配してる勇者は、ここに一人いるけどね」
リオナのツッコミに、エルナがくすっと笑う。
重たかった空気が、少しだけ和らいだ。
――その時だった。
◇
ゴーン、と、鈍い音が響いた。
鉄を叩く音じゃない。
低くて、腹に響く鐘の音だ。
二度、三度と鳴り、店内のざわめきが止まる。
「……今の、何の合図ですか?」
エルナが声を潜める。
「火事か、事故か、あるいは――」
「火事だ!」
窓際にいた男が叫んだ。
「西の鉄工所の方角だ!」
一瞬で椅子が引かれ、人が立ち上がる。
さっきまで裸の勇者の話で盛り上がっていた連中も、今は皿も酒も放り出して出口に殺到していた。
「行ってみるか」
俺は立ち上がる。
「待って。行くのはいいけど、“やってはダメ”な事を忘れないでよ」
リオナが低い声で釘を刺す。
「分かってる。ここで脱げば潜入任務が終わるって話だろ?」
「そう。あんたが全裸で魔法を使ったら、この街じゅうが“裸の勇者が来た!”で大騒ぎになるわ」
エルナも、ぎゅっと杖を握った。
「怪我人が出てないといいんですけど……。でも、わたしたちが神聖魔法を使ったら、きっと“王国の祈り手”って疑われます」
「だから、今日やれるのは――」
「消火の手伝いと、情報集め、ね」
俺はため息をひとつ吐いて、扉の方へ向かった。
「……分かってる。分かってるけど、火事は嫌いなんだよ」
◇
通りに出ると、坂の上の方から黒い煙が上がっているのが見えた。
西側の鉄工所が集まっている一角。
炎そのものは、ここからじゃ見えねぇが、煙の色は濃い。
「水だ! 桶を回せ!」
「怪我人はこっちだ!」
「奥の貯蔵庫に火が入ったら終わりだぞ!」
怒鳴り声があちこちから飛ぶ。
人が走り、桶が行き交い、泣き声も混ざる。
俺たちは人の流れに逆らわず、その少し外側についた。
「よし、エルナはここで避難してくる人の誘導。リオナ、俺はバケツリレーに混ざる」
「了解」
リオナが短く答え、走り出す。
俺も手近な桶を掴んだ。
火の手に直接近づきすぎない。
だけど、何もしないわけにもいかねぇ。
それが今できる、ギリギリの線だ。
◇
鉄工所の前は、すでに人だかりだった。
中の炎が見え、壁の一部が黒く焦げている。
しかし、入口近くに水を浴びせ続けているおかげで、まだ広がりきってはいない。
「おいそこの兄ちゃん! 桶を回せ!」
怒鳴られて、俺は列の途中に入った。
後ろから渡された桶を受け取り、前に送る。
ただそれだけの作業なのに、妙に心がうるさかった。
――水が足りない。
風の向きが悪い。
あの壁が崩れたら、火の粉が反対側の倉庫に飛ぶ。
頭のどこかが、勝手に魔法の手順を並べ始める。
水流をまとめて、風で押さえ込んで、温度を分散させて――。
「シゲル」
横から声がした。
バケツリレーに紛れ込みながら、リオナがちっらと俺を見た。
「目つきが、魔法を使う前のそれになってる」
「……バレてたか」
「そりゃ分かるわよ。何回見てきたと思ってんの」
リオナは桶を受け取りながら続けた。
「あんたが本気出した方が早いのは分かってる。でも、ここで“あんた一人で全部片づける”と、この火事騒ぎが、全部“勇者騒ぎ”になっちゃう」
「……」
「今回は、この街の人たちに“自分たちの手で火事を止めた”って騒ぎだけで終わらせなきゃ」
そこまで、考えてなかった。
火が嫌いなのは、あの黒風の夜を思い出すからだ。
だから、見た瞬間に“自分がどうにかしなきゃ”って、反射的に思っちまう。
でもそれは、俺が勝手に背負い込んでるだけなのかもしれない。
「……分かった」
俺は、息を大きく吐いた。
「じゃ、せめて崩れそうなところくらいは見張っておくか」
火の具合、風の向き、建物の構造。
魔法じゃなく、“目”と“頭”で見て、判断する。
「おい! そこの梁、焦げてるぞ! 近づくな!」
「水をこっち側に回せ! 火の粉がこっちに飛ぶ!」
叫びながら、列の位置をずらす。
何度か指示を飛ばしているうちに、周りの奴らもそれに合わせて動き始めた。
「兄ちゃん、詳しいな!」
「どこかで消火でもやってたのか!」
「ちょっと前に、派手なのに巻き込まれてな」
苦笑いを返しながら、桶を回し続けた。
◇
時間の感覚が曖昧になったころに、炎はようやく落ち着いた。
黒い煙は薄くなり、鉄工所の中から、咳き込む声が聞こえる。
怪我人は出たが、今のところ死人はいないらしい。
「……ふう」
俺は、空になった桶を地面に置いた。
腕も肩も、笑いそうになっている。
「魔法なしでここまでやることになるとはね」
リオナが額の汗を拭う。
「たまにはいいんじゃねぇか。人間の筋肉も、まだ捨てたもんじゃねぇ」
「でも明日絶対筋肉痛よ、それ」
少し離れたところで、エルナが避難してきた人たちに水を配っていた。
祈りの言葉を求める声もあったが、エルナはあくまで『元、祈り手崩れ』として、短い言葉しか口にしない。
火はどうにか鎮まった。
だが、ここから先の方が厄介だった。
◇
「反戦の連中がやったに決まってる!」
「いや、前から設備がおかしかったんだ。軍がケチったせいだ!」
「どっちでもいい! こっちの日当が減るのは変わらねぇ!」
鉄工所の前で、怒鳴り合いが始まっていた。
作業服の男たち、自警団の腕章をつけた連中、偉そうな上衣の役人。
それぞれが、それぞれの思惑を口にする。
「王国の仕業だって話もあるぞ!」
「なんで火事が起きたら、すぐ向こうのせいになるんだよ!」
「面倒が起きりゃ、あいつらのせいにしとくのが一番楽だろ!」
誰も殴り合いはしてないが、言葉の方はもう殴り合いだ。
「……分かりやすいわね」
リオナが小さく言う。
「“戦争を大きくしたい側”と、“もうこりごりな側”と、“どっちでもいいから今日の飯が大事な側”と」
「バルツが言ってた通りだな」
俺は人だかりを眺める。
「ここで“裸の勇者が悪い”って話が混ざったら、もっと面倒なことになりそうだ」
「だから、あんたは今日は絶対脱げないの」
「言われなくても、もう脱ぐ力も残ってねぇよ」
肩を回す。
体が、火事場の熱からようやく回復し始めていた。
「……戻るか」
俺たちは群衆から離れ、通りの端を歩き始めた。
火は消えた。
でも、『物語』は、誰かの都合のいい言葉で進められようとしている。
それが、今この国で燻っている火種のようだ。
◇
夕方、鉄匙亭の狭い部屋。
窓の外は、赤茶けた空に変わっていた。
通りからは、さっきの火事の話が風に乗って流れてくる。
「反戦派の仕業らしいぞ」
「いや、軍部のへまを隠すためだ」
「どっちでもいい。明日の仕事がなくなったら困る」
どの声にも、正しさと噂が半分ずつ混じっていた。
ノックの音がして、バルツが顔を出した。
「元気そうだな。火事場にいたって話を、もう聞いたぞ」
「耳が早ぇな」
「商人の耳は、足より先に動くもんだ」
バルツは部屋に入ってきて、壁にもたれた。
「表向きは、“設備の不具合による事故”ってことで片づけるつもりらしい」
「裏は?」
「“反戦派の仕業”ってことにしたい連中が、全力で噂を流してる。逆に、“軍部の管理がずさんだっただけだ”って声もある」
エルナが杖を抱えたまま、少し身を乗り出す。
「本当は、どちらなんでしょうね」
「さあな」
バルツは肩をすくめた。
「どっちの言い分にも、少しずつ本当のことが混ざってるだろうよ。“戦争を止めたくて暴れる奴”もいれば、“自分のミスを隠したい奴”もいる」
「どっちにしても、燃やされた方はたまったもんじゃねぇな」
「そういうことだ」
バルツは、天井を見上げてから、ゆっくりとこちらを見た。
「で――今日、お前らはどう動いた?」
「魔法は使ってねぇ。バケツリレーと、避難誘導だけだ」
俺は正直に答えた。
「火を消すなら、脱いで一発の方が早ぇのは分かってたけどよ」
「よく我慢したな」
バルツの口元が、少しだけ笑う。
「ここはガルダだ。火事の話まで“裸の勇者の伝説”に書き換えられたら、物語がややこしくなりすぎる」
「もうだいぶややこしい気もするけどな」
「まだ前菜だよ」
バルツは立ち上がる。
「明日、少し動いてもらう。ガルダ側の“話を聞ける相手”に会いに行く。戦争を大きくしたい奴じゃなく、“その中でどうやって生きるか考えてる奴”だ」
「協力者、ってやつか」
「そういう言い方でもいい。まぁ、“お前らを利用したい奴”でもあるがな」
バルツは扉に手をかけて、振り返った。
「裸の勇者さん」
「だからその呼び方やめろって」
「噂は勝手にひとり歩きする。お前は噂に引っ張られるな」
バルツの視線が、まっすぐ俺を射抜く。
「“勇者がどうか”じゃなくて、“この街の人たちがどう生きるか”を見てこい。お前の魔法は、そのあとでも遅くねぇ」
扉が閉まる音が、やけに静かに聞こえた。
◇
「……あのジジイ、たまに格好いいこと言うのよね」
リオナが上段のベッドに寝転がりながら言う。
「ジジイって呼ぶには、まだ若くねぇか?」
「メンタルがジジイなの」
「まあ、分からなくもねぇな」
俺は床に寝転がり、天井の木目を眺めた。
火事は消えた。
でも、噂はまだくすぶっている。
反戦派のせい。
軍のせい。
王国のせい。
裸の勇者のせい。
どれも、誰かにとっては都合のいい物語だ。
「……シゲル」
エルナが、少しだけ不安そうな声を出した。
「もし、この国の人たちが、本当に“裸の勇者”を見つけたら……」
「そんときは、その前に俺が逃げる」
即答する。
「全裸で追いかけられるのはごめんだ」
「真面目な話してんのに、なんで最後そうなるのよ」
リオナのツッコミに、エルナがくすっと笑う。
少しだけ、張りつめていたものが緩んだ。
外から、遠くの鐘の音が聞こえた。
さっきより静かな、夜を告げる音だ。
鉄の街ガルダ。
ここでもまた、誰かが物語を書こうとしている。
その中で、裸の勇者は、まだ“噂の中だけ”で走っている。
――できるだけ、そうであり続けた方がいい。
少なくとも、今は。
俺は目を閉じた。
明日は、また別の顔をしたガルダを見ることになる。
脱がずに済めばいい、と祈りながら。




